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2020年9月22日火曜日

Gideon Falls -コミック表現は進化し続ける-

小説の方でかなりの大作に取り組んでいたもので、コミックの方がずいぶんご無沙汰になってしまってすんませんでした。今回は今アメリカのコミックで最も語っておかねばならぬ、Image Comics発行の、またしても超強力コンビであるJeff Lemire / Andrea Sorrentinoによるホラー/オカルト作品『Gideon Falls』!
2019年のアイズナー賞ニュー・シリーズ部門を受賞し、現在TVシリーズ制作進行中、また昨年から今年、話題になったDCでのミニシリーズ『Joker: Killer Smile』の コンビによる作品ということで、日本で気にしてる人も結構いるのではないでしょうか。
当方現在のところTPB3巻まで既読というところですが、今回はその導入部分とネタバレしない程度の概要、そしてこの製作チームについて、まあわかる限りでのところでお伝えいたします。

【Gideon Falls】
タイトルとなっているGideon Fallsとは、この物語の舞台となっている架空の町の名前。そしてそのGideon Fallsの二人の人物から物語は始まります。

一人はNorton Sinclair。都市Gideon Fallsに住む、20代前半と思われる青年。常時、マスクを着用している。精神病歴があり、ごく最近まで施設に収容されていたが、現在は独りでアパートを借りて暮らしながら、通院している。
子供の頃、記憶を失くし彷徨っているところを発見され、孤児院に収容されそこで育つ。Norton Sinclairという名前は、そこでつけられたもので、現在に至るまで、発見される以前の記憶は戻っていない。
彼の日課は、街のゴミ捨て場に行き、そこで小さな木片や釘を拾ってくること。それらは彼の部屋でラベルを貼った瓶に保存されている。ゴミ捨て場以外でも街のあちこちでそれらを見つけてくる。
彼をそんな謎の行動に駆り立てるのは、彼の中で強迫観念となっているイメージ。”黒い納屋”。
イメージの中でどことも知れぬ地に立つその姿は、禍々しく、明らかに悪意を持つものだ。
そして、彼が集めている木片、釘は、彼によってその”黒い納屋”の一部として認識されたものなのだ。
それは彼の失われた記憶の中で見たものなのか?
Gideon Fallsの路上で、Nortonの奇妙な探索は続く…。

もう一人の人物は、Wilfred神父。最近前任者が亡くなった、農業地帯に囲まれるGideon Fallsの教会に派遣されてくる。
過去のとある事件がきっかけで、一時期アルコールの問題を抱え、以来神学校で教鞭をとっていたWilfred。 神学校司祭の指示でこの地の教会に派遣されてきたが、彼自身はなぜ自分が選ばれたのか、果たして自分にその任が務まるのかを疑問に思っている。 温かく迎えてくれる教区民にも戸惑いを覚えるばかりだ…。
赴任したその夜、眠りに就いていたWilfred神父は、彼を呼ぶ声で目を覚ます。
そこにいたのは亡くなったはずの前任者、Tom神父だった。
意味の分からぬことを言いながら、出て行くTom神父を追って、外に出るWilfred。教会の前に拡がる麦畑を横切って行く姿を追い続ける彼の前に、突如巨大な”黒い納屋”が出現する。
だが、目を疑った次の瞬間、その異様な建物も、Tom神父の姿も消えていた。幻覚だったのか?
そして、それらと入れ替わるように、近くの地面に現れた血痕を追って行くと、そこには昼間Wilfredを迎えてくれた老婦人が、胸に自らの義手を突き立てられた死体となって横たわっていた…。

[Comixology 『Gideon Falls』#1 プレビューより]

現場に居合わせたWilfred神父が容疑者として拘留されているうちに、事件は不可解で意外な結末を迎える。神父は、その事件がきっかけで知り合った町の女性保安官Claraと、その奇矯な行動から彼女とは疎遠になっている ”黒い納屋”を巡るGideon Fallsの謎を調べる彼女の父Suttonらとともに、その地に隠された理解不能な暗黒に巻き込まれて行く。

また一方のNortonは、唯一の信用できる相手、担当の女医Angie Xuに、彼が脅かされ、逃れられない”黒い納屋”の強迫観念について打ち明けるが、彼女からは症状の悪化と受け止められてしまう。 落胆して帰宅したNortonは、留守中に侵入した何者かに部屋を荒らされ、集めた破片を破壊されていることに気付く。彼の探索を妨害する敵がいるのか? そして、女医Angieもまた、街中に不意に出現した”黒い納屋”を目撃し、その謎に巻き込まれて行くことになる。

ここで、これはネタバレになる恐れもあるのだが書いてしまうと、実はこの二つのGideon Fallsはそれぞれ別のGideon Fallsである。ちょっと言い方が微妙になるんだが…。あえてバラしちまうのは、 これもしかしたら日本人だから少し混乱してるだけで、お国柄的な事情でアチラでは最初から自明のことかもしれんと思われるので。
一方のGideon Fallsは大きな建物の立ち並ぶ市街地で、もう一方は麦畑の拡がる農業地帯なのだが、 日本だとこれが車で2~30分隔てたぐらいで同じ市の中にあるようなところざらにあるでしょ。実際ワシの実家のある市(関東地方)だって駅前このくらいにビル建ってるけど、通ってた中学なんていまだに 周りぐるっと田んぼに囲まれてるもん。
そんな日本在住の私は、この二つ同時進行のキャラクターたちは、同じ市に住んでるのだからいつか遭遇するのかな、と思って読んでいたのだが、 本国アメリカの読者は、この二つの土地がそんな近くにあることはありえないので、最初から同じ名前の別のところだと思って読んでたのかもしれないということなのだ。
物語が進み、彼らの間のつながりらしきものも見えてくるにつれ、この二つのグループはどこで出会うのだろうか、という思いも強まる。 そして、TPB第2巻の終わりには、遂にその二つのGideon Fallsが交差し、そこで我々はこの二つが駅前と石井君の家のご近所のような関係ではなかったことを知るのである! だが、これらが別々のものであったのだ、という衝撃はあまり描かれている印象が無いんで、作者チームは当初からそのつもりで描いてて、アメリカン読者もそのつもりで読んでたんではないかな、 と想像されたりもするので、ちょっとしたご注意半分でネタばらしをしてしまいました。
そして、物語はさらに広がり、更に大枠の謎で囲われ、その陰に謎に包まれた「敵」や味方?の姿も垣間見えてくる。謎が謎を呼ぶ『Gideon Falls』!現在も進行中!

[Comixology 『Gideon Falls』#5 プレビューより]

ここで作者チームの経歴について。
ライターJeff Lemireについては、まだまだ到底足りないぐらいなんだけどこのブログで少しは取り上げて来てるんだが、ここで改めて。
1976年カナダのオンタリオ州エセックス郡に生まれ、同地で育つ。映画学校に通っていたが、自身の資質はそちら向きだと考え転身してコミックの世界を目指す。
2005年に自費出版で『Lost Dogs』を出版し、個人出版のコミックに贈られるXeric Awardを受賞。それがきっかけで、現在はIDW傘下にあるTop Shelf Productionsに自作の発表の場を得る。 2008年から2009年にかけて、自身の生まれ故郷を舞台としたかの名作『Essex County』を出版し、広く注目を浴びることになる。
そして2009年より、Vertigoからこちらも自身によるストーリー/作画の『Sweet Tooth』を開始。もちろんそれも高く評価されていて、現在Netflixでシリーズ作成進行中というところなのだが、 彼の評価をより広いところで決定的にしたのは、2011年からDCコミックスでTravel Foremanとのチームで開始された『Animal Man』だろう。
かのグラント・モリソンの有名なやつからしばらく続いた後、、お蔵に入ってたのをThe New 52で引っ張り出し、またしても新設定を加えて作られた作品。 Lemireの作品に共通する家族や「帰属」というテーマを持っている、DCのヒーロー物であっても彼の作品リスト中においても重要作品である。
Travel Foremanについては、序盤の数話のみであとはカバーとかぐらいの参加になるのだが、それだけでもシリーズ全体を通したアート・コンセプトというべきポジションにある。いや、Travel Foremanつーのももっとちゃんと語らねばならないすさまじいぐらいのアーティストなんだが。
そしてLemireは、その後はDC・マーベルに於いて多数の作品を手掛けて行くことになる。とりあえず今回はそちらは省略。
オリジナル作品としては、Top Shelf『The Underwater Welder』(2012)、Vertigo『Trillium』(2013-2014)と続き、その後、2015年頃からは主にライターのみの担当で、注目作を次々と繰り出して来る。
その一つがImage Comicsの『Descender』シリーズで、こちらは2018年に完結した後、続編『Ascender』が開始されている。
もう一つがDark Horse Comicsからの『Black Hammer』シリーズで、こちらは続編やらスピンオフやらで壮大な「The World of Black Hammer」を構成しているらしい。
この二つも到底放っておいてよい作品ではないのだが、なかなかに追いつけず内容不明のままで申し訳ない。 だがまあ、私のこのブログで内容不明とか言ってるのは、いつか必ず読むのを楽しみにしててそれまでは一切あらすじすらも見ないようにしてるものなので、いつの日かは書けるときも来るかもしれません。
現在まで続くそれらと並行し、ミニシリーズ『Plutona』(2015-2016)や、『American Vampire』などで知られるScott Snyderとのタッグで、作画の方を担当した『A.D. After Death』(2016-2017)などの 話題作を次々と発表。そして久々に作画も担当した『Royal City』(2017-2018)に続き、2018年より開始されたのがこの『Gideon Falls』というわけである。
Jeff Lemireの重要作がかなり未読のままこういうのを言うのもちょっと強引かもしれないのだけど、彼の作品のテーマや鍵となるのは、前述の「帰属」というものなのだろうと思う。 初期『Essex County』の家族・土地、そして『Animal Man』の「赤の生存領域(血肉・生命を司り、腐食・死の「黒」と対立する)」のように、個がその帰属に組み込まれる、認識することで、 個の物語が拡大されさらに大きな物語が語られて行く。 この『Gideon Falls』でもそれは同様で、Norton、Wilfred神父らもまた、その帰属が明らかになるにつれ、さらに大きな物語へとつながって行くことになる。
ここでこれまでJeff Lemireについて書いてきたとき必ずぐらい言ってたことを注意のために今一度繰り返しておくのだが、Lemireのオリジナル作品の、あまりにも素晴らしい作画を、 「いわゆるヘタウマ」みたいな雑で適当な分類をするのは絶対禁止だからね!大体そもそもが「ヘタウマ」なんていうのが80年代ごろのガロとかを中心としたアート戦略みたいなもんの呼称で、 何らかの作画スタイルを指す言葉じゃねーんだよ。もしそんなん見つけたら比較的行儀良くやってるコミックの方でもブチ切れて暴れるかんね!

[Comixology 『Gideon Falls』#4 プレビューより]

作画担当のAndrea Sorrentinoは、1982年生まれのイタリア出身のアーティスト。2010年、DC傘下で出版社としては終了する最後の年にWildStormから同名ゲームのコミカライズ『God of War』でアメリカデビュー。 翌2011年のDC The New 52の『I,Vampire』(ストーリー:Joshua Hale Fialkov 2011-2012)が出世作となる。同じThe New 52出身でLemireとは同級生感あるのかも。
『I,Vampire』というのは、DCの『House of Mystery』で1981年に登場し、1983年まで続いたシリーズの主人公Andrew Bennettがリバイバルされたものということらしい。 The New 52ではジョン・コンスタンティンがリーダーの『Justice League Dark』の一員として登場しており、こちらはそのグループではない個人のストーリーとなるシリーズ。 ほら、ややこしい。だからDCマーベルあたりのシリーズ作について書くの面倒なんだよ。あっ、でも今よく見たら『Justice League Dark』、ライターピーター・ミリガンやん!あー、これも読まなきゃなあ…。
最初にイタリア出身と書いたのだが、ちょっと今のところイタリアでのキャリアについては情報なし。『I,Vampire』を見ると、おなじみのペンシラー-インカーみたいなシステムに組み込まれずに、 カラーまで含めた全面的なアートを担当しているので、それなりのイタリアでの実績を持った上でのアメリカ上陸だろうということは想像できるのだが。
そして『I,Vampire』終了の2012年からは『Green Arrow』の作画を担当し、ここで初のJeff Lemireとのチームの作品となる。 2015年からはマーベルと専属契約を結び、そこからしばらくは『All New Xmen』などでブライアン・マイケル・ベンディスとチームを組む。 全5回の限定シリーズでのベンディスとの『Old Man Logan』の後、本格シリーズ化された同作品で、再びLemireとのタッグとなる。 で、この『Old Man Logan』なのだが申し訳ないが内容不明…。とりあえず『I,Vampire』の方は2話ぐらい読んでみたのだが、こっちはLemireとの作品でもあるし、 なんか急いで読むのもったいなくてパラパラッと画を見ただけなんす。まあ、この『Gideon Falls』に先立つLemire-Sorrentino作品ということで、 重要作なのは間違いないですな。24号までをLemireが手掛けた『Old Man Logan』だが、Sorrentinoは一足早く13号で離れ、2017年はマーベルのコミックイベントである『Secret Empire』の作画を手掛ける。 こっちについてもまだそこまで届いていなくて内容不明なんだが、Sorrentinoの作画はメインストーリーの半分ぐらい。そして次に続く作品がこの『Gideon Falls』となる。
Andrea Sorrentinoの作画についてどう説明しようかと考えながらウィキペディアを見てたら、彼の特徴をヘビィ・インクとクリエイティブなレイアウトと説明していた。なるほどヘビィ・インクというのか。 このヘビィ・インクというのは、なんかもう度々言ってるけど、近年のアメリカのコミックのアートで一つのトレンドとなっているスタイル。 光と影の大きいコントラストや、強弱の激しい線などが特徴。少し前にやった『Starve』のDanijel Zezeljもこれに属するし、『Scalped』のR. M. Gueraやらルッカの『Lazarus』のMichael Larkやら 書いてたらきりないくらい。
Sorrentinoの特徴としては、画像を見ると分かると思うが、ベタ部分が線を重ねたタッチになっているが、これは『I,Vampire』や『Old Man Logan』の序盤を少し見たあたりでは やってなかったので、この『Gideon Falls』からか、少なくともその少し前からかに始めたスタイルらしい。見るからに手間暇かけた手描きのタッチに見えるけど、今どきはもう見ただけでは 紙にインクで描かれたものなのかデジタルなのか、かなり判別付きにくくなってるからなあ。もう上手い奴ほどそうやからねえ。
とにかく個性的で優れた画力のAndrea Sorrentinoなのだが、彼について更に特筆すべきは、後半のクリエイティブなレイアウトというやつ。 ここで言うレイアウトとは、ページの中のコマ割りを含めた全体的な画面構成である。 まあ大抵は1話の中でもストーリーが盛り上がってくる後半にかけてすごくなるのだが、こういうプレビューというのは最初の数ページだったりするので、 なかなかホントにスゴイところが紹介できなくてもどかしい。このくらいの画像でもその片鱗ぐらいは垣間見えると思うのだが。 円などの変形コマは当たり前ぐらいで、紹介できた画像にあるようなページを等分のコマに割り、複数に渡る画や断片的に見える画などを組み合わせたカットバックに近いような効果の表現を見せたり、 右が天、左が地になる横向きの画像を縦に並べ、描かれた人物が下に落ちて行くようなイメージのページ構成をやったり、 そこまでに描かれた数々のシーンの断片を無数に背景に配置し記憶があふれ出る様を表現したり、と独創的なレイアウトを見せてくれる。 ホントはもっとすごいのがあるんだが、そこまで書いちゃうとちょっとネタバレかも。このくらいになってくると画でもネタバレ注意っすよ。 まあ特にTPB2巻最後の、二つのGideon Fallsが文字通り交差するシーンは本当にエキサイティングである。必見ナリ!

[画像はすべてComixology より]

上は『Gideon Falls』1~3号のカバー。それぞれが、具体的には作中の登場人物なのだが、人物の顔が航空写真的な地形の上に浮かび上がるデザインとなっている。 このようにあちこちに独創的でコンセプチュアルという感じのアート的な試みが見られる本作なのだが、これらを全て作画Andrea Sorrentino個人の仕事と見るべきだろうか?
以前にも書いたのだが、私はこの『Gideon Falls』の第1号はJeff Lemireがテキストのみのシナリオだけではなく、コマ割りもされた絵コンテであるネーム原作ぐらいまでのものを創り上げたうえで 描かれた作品だと思っている。まあ実際にそういう過程を経て作られたとどこかに発表されているわけでもなく、単にこれまでいくらかLemireオリジナル作品を見てきたうえでの、独特の 間やコマ運びのクセみたいなのが見えるというようなほぼ直感ぐらいのレベルで言ってることなのだけどね。
で、何故にそれにこだわっているかというと、おそらくこのコンビは、この作品を開始するにあたりまずお互いのイメージをより一致させるためにこれをやったのではないか、と思っているからなのである。
この作品は単純にこちらにライターの考えたストーリー=シナリオがあり、アーティストがそれを読んでそこからビジュアル的なイメージを創り上げた、という作品ではない。 これは明らかに、ストーリーを組み立てる時点でLemireの頭にはイメージがあり、それを合わせて伝えられたSorrentinoが具体的なイメージとして作画し、完成させたものである。 だが私はSorrentinoの独創的なレイアウトがすべてLemireのアイデアだ、というようなことを言っているわけではない。 Lemireからのイメージはおそらくは曖昧だったり、流動的だったり、ある時は画的な形を持っていないものだったりもするのではないかと思う。 それを具体的で整合性のあるビジュアルイメージとしてアウトプットできるのが、このAndrea Sorrentinoというアーティストの能力・手腕なのである。 そして、そのようなビジュアル的なイメージを伴ったストーリー作りができるのがこの作画も自らが手掛ける作品を創れるJeff Lemireという作家だ。 そんな二人のイメージをより一致させるためのワンステップとして、Lemireがテキストのみのシナリオではなく、簡単なラフの形であれコミックの形で描いたネーム原作を、Sorrentinoが自分の画でなぞるという手法で、この第1号は作られたのではないのか、というのが私の考えである。

まあそれの基となっているのは学校教育内の美術の授業における単純化なのだろうけど、アートの一般的な評価基準として、「この画はこれこれこういうことを表現している」という馬鹿気たものがある。 この方法は、作品がより抽象的になるにつれ困難になり、それほど単純に短い文章で表現できないものになる。そして頭の悪すぎる連中の間では、そのような単純な解釈ができないものを、 わけがわからない自己満足的な作品として嘲笑するような傾向が高まっている。
馬鹿馬鹿しいにもほどがある。
人間の感覚・知覚認識において、目からのビジュアルイメージが言語によるコミュニケーションより遥かに上位にあるのは自明のことである。 より複雑な認識、イメージの拡張など常に高みを目指して進化して行くアートが、四則演算レベルまで単純化した形で言語表現できなくなるなどというのは当然のことだ。 そもそもが、単純な言語で表現できるものを越えたイメージを目指して創り上げたものが、なぜその低次元の方法で解釈できないと言って嘲笑されねばならんのか? そういうレベルの俗物にわかりやすい例えで言うなら、「とにかく時間が分かればいいんだし、そもそもスマホに時間が表示されるんだから高い腕時計なんて買う意味がない」というぐらいのレベルの談義でアートを嘲笑しているわけだよ。どうだい?お利口でカッコいいかい? 岡本太郎が児戯に等しい?じゃあせいぜい床の間の富士山の油絵でも愛でて暮らせや。
そしてこの作者チームは、コミック表現において画がストーリーをわかりやすく表現するだけではなく、そのようなビジュアルイメージの進化洗練こそが、より高次の物語を語れると知る者たちである。
あらゆる表現はそれぞれにそれ自体の限界を持っている。コミック=マンガは常に一枚の決まった大きさの中に静止画で描かれなくてはならない。 そして物語を語るためには、ただ一つの大きな画だけではなく、その一枚の中にいくつものシーンを描き構成しなければならない。ページを切り替えなければならない。 最大横並びの2枚が一度に見せられる限界であり、そこからはそれまでのイメージをワイプする形で、次の横並びの2枚へと進ませなければならない。
それらの制約の中で試行錯誤を繰り返し、ある時はその制約を逆手に取り演出手段に変換するなどの形で、コミック=マンガは進化を続けてきたのだ。 そして、現在その最前線でコミック=マンガ表現の限界に挑んでいるのが、この作者チームJeff Lemire-Andrea Sorrentinoの二人であり、この作品『Gideon Falls』なのだ。 これがいかに重要な作品であるか、お分かりいただけただろうか?わかんなかったらひとえに私個人の言語表現力の至らなさと、限界である。 作品は常にこんな言い草を越えて行くのだ。もはやこの力不足からは繰り返しこう言うしかできない。この作品は必読である!

現在TPB4巻まで発行中の『Gideon Falls』は、本年10月発行の26号までを収めた5巻の後、12月に発行される80ページの27号を持って完結の予定とのこと。何度でも繰り返す! 必読作品である!日本で翻訳されるかもー、なんて半端な期待を持たず、必ず読むべし!


うーまた遅れた…。なんかこの時期は仕方ないのか?お盆明けぐらいから疲れたまってきて、去年は坐骨神経痛で倒れた時期やし、とにかく慎重になるべく休まなければ、でなかなか進まなかった感じ。 なんかSorrentinoの経歴辺りから延々牛歩ペースになっちまって、一日二行ぐらい書けたり書けなかったりが続いてしまった。とにかく前年の坐骨神経痛は完全に疲労のみが原因なので、慎重にならざるを得んのだけど。 まあこれを休んでいるからってその時間オールスリーピングぐーぐーなわけではなくて、ひたすら読書に充ててるんで、書かねばならんことは増えるばかりなのでけど。 ただそういう生活を続けていると、それが生活パターンになってしまい、体力的に戻っても書く時間を作るのが難しくなってしまうという、あんまり物考えずに反射と習慣反復で生きてる人間にありがちな 弊害が発生しがちなので、その辺はしっかり自戒していかなければと思うところであります。
とにかくコミックについても、書かなければと思うことは山ほどあり、今回の『Gideon Falls』なんていうのは、その中でも最低限このくらいは書いとかなきゃいかんだろ、ぐらいのものであり、 ホントなら間にもう一つぐらいマイナーなのやヘンなのを挟みたかったところなのですが、どうにも力不足でなかなか思うように拡がらんのがもどかしい。自分も画は好きで、コミックを語る上では常に 画とストーリーを別々のものとしてではなく同じ比重で語って行かねばならんとは思っているのだけど、日本の海外のコミックの読まれ方としては言葉の問題もあるのだろうけど、どうしても画の比重が 高くて、それがなかなか海外のコミックが定着しない原因の一つなのではないかな、と思っているのです。結局そういう読まれ方というのは常に点にしかならず、それを横なり縦なりにつなげて拡げて行くには もっと系統的でそれがどこに位置するのかという視点も必要であり、そのためには作家と読み物としてのコミックの紹介というような方法がもっと必要なのだろうと思うわけです。 ただまあ、そういうことを考えてみると、今回のストーリーの紹介の仕方とかこれでわかったんかな?ちょっとネタバレにこだわりすぎてて、ホントはTPB1巻分ぐらい書いちゃった方が作品の方向性を 掴みやすかったんじゃないのかな?なども色々と考えたりもします。まあ色々と悩みつつ、それでも何とか微力ながらも日本の海外のコミックの読者層の拡大へといささかなりとも寄与して行ければと。 しかし微力にもほどがあるな…。なんだかんだ言ってもそろそろ時期的にも体力的に落ち着いてくるところでしょうから、ここからまた何とか少しでも頑張って行ければと。
最後に今月の悪態。最近というか前からだけど、マンガアプリとかのコメント欄見てて、とにかく一番イラつくコメント。実写化希望。今の世の中で最も迷惑千万な希望ナリ! なんだよ悪態終わりって…。ではまたね。

下のリストについて:一応通例通り基本的にはオリジナル作品に絞って載せていますが、Lemire『Animal Man』は、それに準ずるぐらいのもんかと思うので入れときました。あと、『Gideon Falls』直前の Lemire-Sorrentino作品である『Old Man Logan』もおそらくは重要作かと。ただ、Lemireに関しては近作でリスト作ってて初めてこんなんあるんだと知ったのもあり、きちんと説明できてないまま入ってるのもあって、 そこんところはすみません。つーか、Image最新作の『Family Tree』も全然内容把握しとらんし…。Lemire作品はマーベルDCも含めていつか読むから、と若干いい加減にしとったが、この量見るとそんな 悠長なこと言ってられんな。『Black Hammer』とか今日から読み始めんといかんと思ってるし。なんかLemireに関しては、いつも中途半端にしか書けていない気がしてて、今回こそはきっちり書こうと 思ってたけど、また少し中途半端に終わってしまった感じ。次こそは頑張る。Lemireについてはまだまだ書かなきゃならんこと多いからな。
言及出来てないところで唯一少しわかるのは、『Secret Path』という作品。カナダでは国民的バンドと言われたザ・トラジカリー・ヒップのフロントマンのゴード・ダウニーが亡くなる前年の2016年に Lemireとのコラボレーションで出したソロ・アルバム。アナログLP盤とサイズを合わせたLemireのグラフィックノベルとのセットという形で販売され、ちょっと欲しいなと思った。 現在ではグラフィックノベル単体やKindle版でも購入できます。ザ・トラジカリー・ヒップやゴード・ダウニーについてはよく知らなかったのだけど、よく知りたい人は検索すればすぐに日本語の情報がみつかりますので。 このコラボレーションについては日本語の情報はちょっと見つからなかったのだけど、Secret Pathというのは寄宿学校から脱走して餓死した先住民の少年チェイニー・ウェンジャックを歌った曲ということで、 その物語がLemireによって描かれているのでしょう。カナダ史の暗部に光を当てた曲で2017年のジュノー賞でも高く評価されたそうです。やっぱ読むなら音源の方も手に入れんとね。なんか注釈ぐらいのところが 思いのほか長くなってしまったな。今度こそホントに終わりです。ではまた。

Jeff Lemireホームページ


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Essex County -Jeff Lemireの感動作-

Image Comics 最近の注目作



■Jeff Lemire / Andrea Sorrentino
●Gideon Falls



●Wolverine: Old Man Logan



●Joker: Killer Smile



■Jeff Lemire



●Sweet Tooth



●Animal Man



●Descender




●Black Hammer



●Plutona



●A.D. After Death(Scott Snyder原作)



●Royal City



●Family Tree



■Andrea Sorrentino
●I, Vampire



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2020年8月14日金曜日

2020 スプラッタパンク・アワード 受賞作品発表!

結構な大作をやっと仕上げてほげ~と夏バテしとるところでSplatterpunk Awardの受賞作が発表されておりました。なんかSplatterpunk Awardに関してはいっつもこんなタイミングなんだよな。
今年も毎年夏に開催のキラーコンでの発表でしたが、本年はコロナの影響で、例年のテキサス州オースティンでの開催が見送られ、オンラインのみのリモート開催となったそうです。 そういった会場での発表ができなかったこともあってか今年は8月8日の発表の翌日に、Brian Keene自身のホームページに受賞結果がアップされておりました。
それでは、以下が2020年、第3回のSplatterpunk Award受賞作です。
2020 Splatterpunk Award

【長編部門】

  • Lakehouse Infernal by Christine Morgan (Deadite Press)
  • Carnivorous Lunar Activities by Max Booth III (Cinestate/Fangoria)
  • Killer Lake by W.D. Gagliani and David Benton (Deadite Press)
  • Reception by Kenzie Jennings (Death’s Head Press)
  • Merciless by Bryan Smith (Grindhouse Press)
  • Toxic Love by Kristopher Triana (Blood Bound Books)
  • They Kill by Tim Waggoner (Flame Tree Press)

【中編部門】

  • One For the Road by Wesley Southard (Deadite Press)
  • White Trash Gothic Part 2 by Edward Lee (Section 31 Productions)
  • Saint Sadist by Lucas Mangum (Grindhouse Press)
  • Weeping Season by Sean O’Connor (Uafas Press)
  • How Much To..? by Matt Shaw (Self-Published)
  • Paradise, Maine by Jackson R. Thomas (Alien Agenda Publishing)

【短編部門】

  • “Angelbait” by Ryan Harding (from The Big Book of Blasphemy, Necro Publications)
  • “Breaking the Waters” by Donyae Coles (from Pseudopod)
  • “Censered” by Christine Morgan (from And Hell Followed, Death’s Head Press)
  • “Shoulder Pain” by Chandler Morrison (from Macabre Museum Magazine)
  • “Param” by Susan Snyder (from Trigger Warning: Body Horror, Madness Heart Press)
  • “Norwegian Woods” by Jeremy Wagner (from The Big Book of Blasphemy, Necro Publications)

【短編集部門】

  • Dirty Rotten Hippies and Other Stories by Bryan Smith (Grindhouse Press)
  • Dead Sea Chronicles by Tim Curran (Bloodshot Books)
  • Various States of Decay by Matt Hayward (Poltergeist Press)
  • Dawn of the Living Impaired, and Other Messed-Up Zombie Stories by Christine Morgan (Death’s Head Press)
  • This Is A Horror Book by Charles Austin Muir (Clash Books)
  • Resisting Madness by Wesley Southard (Death’s Head Press)

【アンソロジー部門】

  • And Hell Followed, edited by Jarod Barbee and Patrick C. Harrison III (Death’s Head Press)
  • The Big Book of Blasphemy, edited by Regina Mitchell and David G. Barnett (Necro Publications)
  • Dig Two Graves, edited by Jarod Barbee and Patrick C. Harrison III (Death’s Head Press)
  • Midnight In The Graveyard, edited by Kenneth W. Cain (Silver Shamrock Publishing)
  • The New Flesh: A Literary Tribute to David Cronenberg, edited by Sam Richard and Brendan Vidito (Weirdpunk Books)
  • Polish Extreme, edited by Edward Lee & Karolina Kaczkowska (Necro Publications)

【J.F. GONZALEZ LIFETIME ACHIEVEMENT AWARD】

  • Edward Lee


長編・中編部門をDeadite Press作品が受賞。エドワード・リーらスプラッターパンク黎明期の作家の作品の復刻から、新作、そして次代を担う作家の作品を精力的にリリースし続ける、 このジャンルの中心的パブリッシャーDeaditeからの新しい作家の方のChristine Morgan、Wesley Southard両名の作品ということで、現在および今後のシーンの展望のために、是非ともどちらも読んでおきたいところ。 短編集ではGrindhouse PressからのBryan Smith。これも何とか読んどかなきゃならん作家だなあ。短編部門では結構Deaditeとも並ぶぐらいの、こちらも重要パブリッシャーNecro Publicationsからの 注目アンソロジーからの一作。アンソロジー部門では、新興で今勢いのあるDeath’s Head Pressからのやつ。ちなみにDeath’s Head PressはアマゾンKindleで検索してみたところ、今年になってからのリリースが 見つからなかったんで、ちょっと大丈夫かなあと思ったんですが、割と最近パブリッシャー名を入れずに販売しているのが多くなってて検索に引っかからなかっただけで、ホームページの方に行ってみたら相変わらず 勢いのある出版が続いているようでした。パブリッシャー名が入っていない理由は不明なのですが、案外雑で記入漏れぐらいのことなのかもしれませんね。そしてJ.F. GONZALEZ LIFETIME ACHIEVEMENT AWARDは、 エドワード・リー。来年のこの賞は、日本でもクレイグ・スペクターとの合作『闇の果ての光』が翻訳されたジョン・スキップに贈られることが発表されたそうです。あっワシこれ持ってる!未読だけど。読めよっ!
以上、第3回となる2020 Splatterpunk Award受賞作一覧でした。ちなみに第2回の長編部門受賞作Kristopher Triana『Full Brutal』も既に読み終わっているのですが、またしても書く方が遅れて 第3回発表に間に合いませんでした。毎度申し訳ない。前出の二人とも並ぶ今後のシーンを担うKristopher TrianaによるマッドJKが主人公の血みどろエログロバイオレンスホラーって感じの素晴らしい作品なんですが、 結構助走部分が長く、えーと、ほらあの「イヤミス」とかいうのがこんな感じなのかな?、みたいなのが続いてるうちに投げ出しちゃう人もいるんじゃないかと心配してるので、 なるべく早く書かねばと思っております。しかし、「イヤミス」ってのそもそものコンセプトがクッソダセエんでまともに調べる気も起こらんので、もしかしたら細かい解釈間違ってるかもしれんけど、 そんなの間違えてたって全然恥ずかしくねーや、自分が読んで面白かったのがそんなジャンル分けされてたら、全力でそこから出せ!って喚くだけ。 あと、エドワード・リー先生日本普及活動の方も忘れておりませんので、そのうち必ずや!
ってところで今回は終わりです。次回、現在最注目のあのコミックについても既に取り掛かって頑張っておりますので、そちらでまた。

●2020 Splatterpunk Award Winners/Brian Keeneホームページより


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2020年8月9日日曜日

ストックホルム三部作 映画版 -もうひとつのストックホルム三部作-

前回、やっと完結までたどり着きましたイェンス・ラピドゥスストックホルム三部作。今回は引き続き、スウェーデンで製作されたそちらを原作とする映画版についてであります。前回最後に書いたように、この三部作についてはその映画版についても語って完全版となる。まあ、その辺は最後まで読んでもらえれば納得してもらえるか、してもらえんかというとこかな。うむ、頑張ってみよう。

で、今回についてなのだが、何しろ映画三本をまとめてということなので、あらすじについては原作と同じ部分は省略します。原作のストーリーを知りたいという人は、私の書いた第二部『NeverScrew Up』及び第三部『LifeDeluxe』の記事を読むように。特に第三部は自分でも読み返すのめんどくさくなるぐらい長いので覚悟せよ。そして、三作まで紹介しなければならんので、特に最初からの二作については、完全にネタバレしますのでご注意を。

ではまず、この三部作の本国スウェーデンにおける原作小説発行年と、映画版の公開年を参照しておきます。
原作小説 映画
Snabba cash (2006) Snabba cash (2010)
Aldrig fucka upp (2008) Snabba Cash II (2012)
Livet deluxe (2011) Snabba Cash: Livet Deluxe (2013)
ま、この辺については後々色々と言及してくることになるので、とりあえずはこうやってわかりやすいところに置いとこう。
続いてこの三部作の概要について。製作は三部作を通じ、スウェーデンのTre Vänner Produktion ABというところ。監督はそれぞれ違うのだが、脚本については一貫してMaria Karlssonという人が手掛けている(共同脚本のクレジットを含む)。キャストも三部作で共通です。
日本では原作小説同様第1作のみがリリースされており、販売はDVDのみです。自分は第1作を日本版DVDで、続く2作は米版DVD(本編スウェーデン語/英語字幕)で観ました。米版ではBDも販売されています。ちなみに米版はリージョン1で、日本ではリージョン・フリーなどではない通常のプレイヤーでは再生できないのでご注意を。多分こういうのは書いといたほうが親切なのだよね。そんなに映画の方は扱っておらんので。
ここまでは、本来スウェーデン原産のため原題表記もありましたが、自分が読んだのも観たのも英語圏経由のものであり、そちらの方が分かりやすいと思うので、以降は基本的には英語圏のタイトルで統一して行きます。


Easy Money
(原題:Snabba cash/邦題:イージーマネー)
2010年/スウェーデン
監督:ダニエル・エスピノーサ Daniel Espinosa
原作:Easy Money(2006)(原題:Snabba cash/邦題:イージーマネー)

こちらは日本版も出ているので、見た人も多いと思う。基本的なストーリーの流れは原作に沿っているが、やはりかなり長い作品なので、当然ながらあちこちに省略や変更がある。
重要な変更点としては、原作ではJWは自分で麻薬売買で稼いだ金を元手に徐々に資金洗浄の技術を磨いて行くのだが、その部分は省略され、白タクとドラッグの元締めであるアラブ系組織のボスから頼まれてその道に進んで行くことになる。
そして、変更点の中でも最も重要なのは、この映画版第1作ではJWが姉カミラの失踪の真相を、知らないまま終わるということ。これはこの先の展開に様々な意味で大きな影響を及ぼして行くことになります。
更に、この映画版では原作小説第1作には無かったエピソードが追加されています。それはムラドに殺されかかったホルヘがJWに救出され、アラブ系の組織に匿われ協力を始めた後に、組織内の裏切り者の内通によりユーゴ・ギャングが襲撃してくるというもの。そのアラブ系組織の裏切り者の名はMahmud。そう、原作小説第2作の3人のうちの一人であるあのMahmudだ。そう、とか言ってみたものの、この原作小説版と映画版の三部作を両方読んで観た人は日本ではかなり少ないだろうから、うむうむと頷いてる人もいなさそうだが…。一応日本版の字幕で「マフムード」とは出てるんだが、原作小説をやった時の表記と一致させるため、この後もここではMahmudで行きます。
この映画の日本版字幕で気になることが一つ。ホルヘの姉であるはずのパオラがこの映画の字幕では妹となっています。これに関しては、映画版では設定が変わって妹になったのか、それとも誤訳なのか不明であるため、とりあえず、日本版字幕では、という言い方をしておきます。おそらく元になっているのが英語字幕なのだろうし、英語では姉と妹の区別がはっきりしないということは多々あるし、何しろ日本は妹のために命を懸ける主人公の大変多い国だから、こういう形の誤訳でが出るという可能性は高いと思われるのだが。とりあえず、映画を観た後で原作小説を適当にナナメ読みして、「映画では妹であったのが姉と誤訳されている!」と騒ぎ出すバカが出ないとも限らん昨今なので、ここでオリジナルの設定は姉であることをはっきりさせておきます。
少し複雑な原作小説をうまくシェイプアップし、スピード感の高い見ごたえのある犯罪映画として完成させた作品。原作者イェンス・ラピドゥスもこの第1作を高く評価しているそうです。



Easy Money II: Hard to Kill
(原題:Snabba Cash II)
2012年/スウェーデン
監督:Babak Najafi

そして、問題のこの第2作。原作小説第2作『Never Screw Up』の時に受けた印象の通り、この映画版第2作の内容は原作小説第2作の内容と全く違っています。映画の原作としては第1作『Easy Money』と第2作『Never Fuck Up/Never Screw Up』を併記する形でクレジットされており、原作第二部の3人の主人公のうちMahmudだけは登場し、『Never Screw Up』の中のエピソードも一部形を変えて使われています。こちらについてはあらすじを紹介しないと始まらんのだが、最初に書いた通り全面的にネタバレしてしまうのでご注意を。

『Easy Money』の結末より3年後。服役中のJWは、出所の時期が近づいている。同じ刑務所には、前作最後の事故で下半身不随となり車椅子生活のムラドも収監されており、二人はすっかり友人となっている。刑務所内から学生時代の友人と連絡を取りつつ作り上げたビジネス・プランで出所後の新しい人生に思いを馳せるJW。自分が逮捕されてしまったために完全に身寄りが無くなってしまった娘への想いに苛まれるムラド。

ホルヘは南米からの貨物船を使い、10キロのドラッグの密輸に成功する。売り込み先はユーゴ・ギャング。取引の日時も決まり、姉(妹?)の住居に潜伏する。

前作でのアラブ系組織での裏切りから行き場をなくしたMahmudは、ユーゴ・ギャングの末端に使われる身となっている。ヘマでパーティーに送り届ける途上で女に逃げられてしまったMahmud。ユーゴ・ギャングのボス、ラドヴァンはMahmudの口に突っ込んだ銃で、ロシアンルーレットの引き金を引きながら告げる。

賠償金を一週間で用意しろ。

潜伏先が密告され、逃走するホルヘ。だが、その車は路上でトラックに衝突し、大破する。逆さになった車のトランクからドラッグを取り出そうと必死になるが、トランクはびくともしない。近づくサイレン。ホルヘはドラッグと車内に取り残された仲間を見捨て、その場から去る。

出所の日を迎えたJW。だが、その足で向かった取引先企業で、彼が作り上げたプランは既に友人ひとりの名で契約が完了していることを告げられる。彼の手には一銭の金も落ちてくることはない。友人の裏切り。そしてかつての恋人ソフィからは拒絶される。絶望したJWは、今ではただ一人の友人となった、刑務所のムラドに電話する。

だから言っただろう。つまりは金だ。金がなければ奴らに踏みつけられ、負け犬でいるしかない。だが俺は金の在り処を知っている。でかい金、ラドヴァンの金だ。

俺が外に出るのに手を貸せ、JW。

妹の結婚式に出席するMahmud。久しぶりに会った父は、祝いの席上でもユーゴ・ギャングの犬に成り下がったMahmudへの怒りを隠さず、面罵する。なんとか金を作らなければ。金が用意できなければ自分の命はない…。妹の結婚祝儀金の封筒を次々と開き、ポケットに押し込むMahmud。

取引するドラッグは失われた。こうなったらやるしかない。ホルヘは銃を隠し、空のバッグを持ってユーゴ・ギャングとの取引の場へ向かう。だがその目論見は発覚し、仲間は射殺され、ホルヘも危機に陥る。その時、奥の部屋に監禁されていた娼婦として連れてこられたNadjaがドアを蹴破って脱出し、その混乱に乗じホルヘはその場にいたユーゴ・ギャングを射殺し、取引に用意された金を奪い彼女と共に逃走する。

要求された額の三分の一ほどを何とかかき集め、ラドヴァンに猶予を乞うMahmud。

お前にチャンスをやろう、Mahmud。お前はホルヘ・サリーナスを知っているな。奴は俺の金を盗んだ。サリーナスを見つけ出し、金を取り戻し、そして奴を始末しろ。

ホルヘは子供の頃からの友人だ。だが、やるしかない…。

娘ロヴィーサの名を叫びながら、狂ったように動かなくなった足にペンを突き立てるムラド。ただちに拘束され、病院に収容される。しかし、看守の隙を見て首を締めあげ、病室から脱出。院内で落ち合ったJWの用意した車で脱走する。俺は自由だ!

ムラドに指示され、郊外の森へ向かい、埋めて隠してあった銃器を掘り出すJW。待ってくれ、俺にはできない。俺はそういう人間じゃないんだ。
いや、お前がやるんだ。俺はこの身体だ。お前がやるしかないんだ。

もう後戻りはできない。腹を括れ、JW。

最近に亡くなった母の住居にNadjaとともに潜伏するホルヘ。窓から外を眺めていると、昔からの知り合いMahmudが近づいてくる。
やあホルヘ、こっちに戻ってたのかい?ちょっと話があるんだけどいいかな?2分ぐらいで済むから。今からそっちに行くからドアを開けてくれよ。
階段を上がり、ドアの前で待つ。ドアが開いた途端に、構えていた散弾銃を発射する!
だが、ドアを開いたのはホルヘではなく、Nadjaだった。腹部に銃弾を受け、倒れるNadja。ホルヘは窓へ走る。ベランダの手すりを乗り越えるホルヘに発砲するMahmud。窓に駆け寄り、下を覗くとホルヘは地面に倒れ伏し、動かない。金の入ったバッグを掴み、その場を去るMahmud。

ラドヴァンの表に出ない隠し金を預かっている金庫番だ。ギャンブル狂いで競馬場に必ず現れる。駐車場で待ち伏せ、男に銃を突きつけ車に乗せるJW。あとはムラドの仕事だ。隠し金庫の在り処、解錠ナンバーを吐かせ、男の住居に向かう。

ホルヘから取り戻した金をラドヴァンに届けるMahmud。よくやった。お前は俺の信頼に応えてくれた。お前は組織の一員だ。最初の仕事だ、Mahmud。この金を俺の金庫番に届けるんだ。

男の住居に着き、JWがひとり中に入る。男が言った場所に隠し金庫は見つかる。だが金庫は開かない。番号が嘘だったのか?焦って自分が間違えているのか?その時、JWの耳に住居の玄関が開く音が聞こえてくる…。

金庫番の住居に、かつてのムラドの配下ラトコと共に到着するMahmud。金を運ぶのはMahmud、玄関を開け、家の中に向かう。ラトコは外に立ち、姿の見えない金庫番の男に電話する。車の中で身を低くし、見守るムラド。その時、車の中で男の携帯が鳴り始める。

息を殺し、様子をうかがうJW。来入者はまだ自分のことを気付いていない。ドア口に人影が見えた時、彼は手にした銃を放つ。その場に倒れる人影。
Mahmud…?そこに倒れていたのは、かつて白タク組織時代友人でもあった男だった。

家の中からの銃声に、車に背を向けそちらへ向かうラトコ。ムラドは車窓からその背中に銃弾を撃ち込む。倒れながら手にした銃を撃つラトコ。その銃弾はムラドの潜んだ車のドアを貫通して行く。金の入ったバッグを担ぎ、家から出てきたJWは、状況を見て、ムラドの銃弾に倒れているラトコを射殺。ドアを開いたJWの目に飛び込んできたのは、腹部に銃弾を受けたムラドだった。

病院に行く必要はない。俺はもう駄目だ。それより俺の言う住所に向かってくれ。

瀕死のムラドがJWに向かわせたのは、娘ロヴィーサが養子になった家だった。ポケットから出した封筒をJWに手渡すムラド。
娘にこの手紙を渡してくれ…。

だが、ロヴィーサはすでにその家からいなくなっていた。彼女には問題があって、他の里親のところへ行った。家人はそっけなく告げ、JWが彼女に送ってほしいと差し出した手紙を受け取ることも拒んだ。
途方に暮れて車に戻ったJW。ムラドはもう長くなさそうだ…。

手紙は渡してくれたか?
ああ、とても喜んでいたよ。
そうか…。

ムラドはもう一度娘に会い、別れを告げる幻を見ながらこの世を去る。久しぶりに会った娘は、少し成長していた…。

銃弾を受けながら転落し、殺したと思いMahmudがその場に放置してきたホルヘ。だが、彼はまだ生きていた。しばらくの後、意識を取り戻したホルヘは負傷した足を引きずりながら、襲撃された部屋へ戻る。腹を撃たれたNadjaにもまだ息があった。二人は通報により到着した救急車に乗せられ、搬送されて行く。

山道に駐めたムラドの遺体の残る車に火を放ち、JWは雨の中、金の入ったバッグを担いで去って行く…。



まあ、ちょっと長すぎたかとは思うが、このくらいに語りたい映画なんだよ!文句あるか!?
ここで少し戻って最初に用意しといた原作小説、映画それぞれの初出の対比表を見ると、原作第一部、二部がそれぞれ2006、2008年。そして映画版第一部が2010年。
原作第一部が発表されて間もないころから映画化は企画されていたようだが、実際に進行し始めたのは原作第二部が発行された後だろう。そこで、その時点で既に映画も第2作を製作することが決定されて、次作への構想も含めた形で脚本・ストリーが作られていたのではないか。それは原作小説第二部からの登場となるMahmudの物語が映画版第一部から始まっていることからも明らかだろう。
またその一方で、前回までに書いたように原作第二部では、第一部の三人の主人公はほとんど登場しない新たなキャラクターによる物語が語られる。やはりこれには不満の声も多かったのではないかということも容易に想像される。そこで映画版第二部は第一部の主人公たちが再登場するオリジナルストーリーとなることもその時点で決定されていたのではないか。それが映画版第一部の中で謎であった、JWの姉の失踪の真相が先送りされた理由なのではないか、ということである。

原作第一部を読んだ人ならお分かりのように、JWの姉カミラの失踪はムラドが属していたユーゴ・ギャングによるものであり、原作小説の通りにJWがその事実を知れば、後のムラドとの友情はありえない。これはその物語へと続けるための布石だったのではないか。あーん?ストーリーにうまく収まりきらなくて先送りしたのが、たまたまうまくはまっただけだろ、って言ってる人いる?まあワシも最初はそう思ったのだけどね。しかし、私にそれを仕掛けられた伏線とほぼ確信させたのは、一部、二部に渡るMahmudの物語の取り込みの上手さである。

前述の通り、映画版第一部に登場するMahmudのエピソードは完全に映画のオリジナル。軽い気持ちで裏切りユーゴ・ギャングに情報を流していたが、バレて制裁を受け、組織から放逐される。その後JWをムラドに誘われた裏切りへと走らせる原因の一つともなる、自分の属している組織への不信感と恐怖を芽生えさせるシーンである。翻訳の出た原作小説第一部のみを読んだ後、この映画版第一部を見た時には、映画では尺的にどうしてもかなりのエピソードを省略しなければなるため、説明不足や強引な展開になりすぎることを補足するためのシーンとしか思わなかったが、実はこれはそういう目的の他に原作第二部に登場するMahmudの物語を、オリジナルストーリーになる映画版第二部に盛り込む流れを作るという役割を同時に担っていたことを後に知ることになるのである。
そして更に、その第一部映画版のみに挿入されたJWとMahmudの小さなエピソードは、第二部終盤JWが相手の正体を知らぬままMahmudを射殺してしまうシーンに大変効果的に使われてもいる。まあ物語を組み立てる時には意図していなかったエピソードが思いがけず効果的に組み合わさることも少なくはないものだろう。しかし、これは原作のあるストーリーであり、そこに新たなエピソードを加え効果的に物語に組み込むためには、それなりの意図と仕掛けが必要になるものだろう。つーかさ、このくらいのもんが全部たまたまうまくはまったとしたら出来すぎだろ。この辺はほぼ全部仕掛けと考える方が自然やろ。

ちなみに第二部映画版に使われた原作小説の部分をもう少し詳しく説明すると、原作小説では別のギャングからの借金に追いつめられていたMahmudにユーゴ・ギャングが声を掛け、結果Mahmudは昔からの知り合いの同胞を売ることになるというところまでが、映画に合わせて変更を加えながら取り入れられている。
序盤のロシアンルーレットによる脅迫は、他のギャングからだったものがラドヴァンからに変わっている。そして彼が探し出しユーゴ・ギャングに売った同胞がホルヘへ。Mahmudの妹の結婚式のシーンは映画版のオリジナル。原作でも随所に描かれる父親との葛藤がより簡潔にわかりやすく描かれているシーンである。あと、Mahmudの妹はまたちょっとわかりにくいかと思うけど、原作小説にも登場していてこちらは間違いなく妹。あと、これはMahmudのパートではないのだけど、JWとムラドがユーゴ・ギャングの金庫番を競馬場で待ち伏せして拉致するというところは、原作小説にあったThomasが情報を持っている男を競馬場に探しに行くシーンへのオマージュというのか、からの頂きというのか、まあそういうやつ。

そしてこの映画版オリジナルストーリーで一番の見どころと言えば、やはりムラドのパートだろう。ムラドの娘ロヴィーサはもちろん原作小説第一部にも登場するが、やはりそこは映像の強みか、実際にあの可愛らしい女の子が登場すると、より不遇感も強まり、より感情移入度も高まる。映画版第一部のラストで、あの娘はどうなってしまうのだろう、と思った人も多いだろう。この映画版オリジナルストーリーは、原作第二部が応えてくれなかった、そんな人たちの想いに応えてくれるのである。まあただハッピーエンドを望んでた人は不満かもしれんけど、そんなお子ちゃまのことなど知らんわ。

それにしても、少なくともこの時点で原作が三部作になることはわかっていただろうストーリーの途中で主要人物のひとりを殺してしまうとは、随分思い切ったことをしたものだと思うが、これについては原作者ラピドゥスはどう思っていたのだろうか?
実はそれについては原作小説第三部の中にヒントがある。物語の中盤過ぎあたりのところだったと思うが、潜入捜査官Hägerströmが捜査の指揮官と映画館で密会し情報交換をするシーンがある。その劇場のスクリーンでこの映画版第二部の予告編が流れ、ラピドゥスはHägerströmの口を借り、「スウェーデンの犯罪映画にはどうも嘘くさいのが多いが、こいつはリアリスティックで期待できそうだ」とエールを送っているのである。
原作小説第三部の出版は2011年で、翌2012年に公開となる映画版第二部のクランクインは2011年ということ。当然ラピドゥスは第三部執筆の時点ではこの映画は観ていない。だが、ここまで見てきたように、この映画版第二部のストーリーはかなり早期、第一部の製作時期から構想されていたものと思われ、また、それが原作小説第二部と全く違うストーリーとなるところから、その了解を取るためやらなんかでラピドゥスにはシナリオぐらいの段階のものが送られ、原作小説第三部の執筆の時点でそれを読んでいたのではないかということが推測されるわけである。アメリカの映画製作じゃそんなことやんないとか言ったって、これスウェーデンやからね。映画版第一部の出来に満足し、高く評価していたラピドゥスだが、とりあえず第二部については未知数、しかも原作と違うストーリーになるとあって、ここまで積極的にエールを送るとなると、その内容について知っていたと考えるのが自然だろう。

そして更に、ここで原作小説第三部における一つの謎への推理が浮かび上がるのである。前回に書いていた少し不自然に思われるムラドの不在。
原作小説第二部にはムラドは登場しないが、刑務所内ではユーゴ・ギャングからの処刑指令が出ていて何度も殺されかかっているが、しぶとく生き残っていると人伝に語られていて、ここから第三部には何らかの形でムラドの物語が用意されていたことが明らかなのだが、第三部では序盤にユーゴ・ギャングの情報提供の見返りとして証人保護プログラムへと向かう過程で、潜入捜査に先立ちJWの情報を引き出せないかとHägerströmが面会する短いエピソードのみの登場となっている。あくまで想像だが、ここからムラドは別の名前と身分、更には別の顔をも持って物語後半で何らかの動きをするストーリーがあったのではないか。
しかしラピドゥスはこの映画版第二部のシナリオかなんかを読み、そちらのムラドのストーリーが優れていたことと、また一方でもしかしたら自分が考えていたストーリーがあまりうまく進まなかったりしていたのが相まって、もう原作小説の方ではムラドの話は書かなくても良いのではないかと思ったのではないか、というのが私のこの謎への推理である。真実はいつも一つ!もし何かでラピドゥスにこの真相を聞く機会とかあったら、物陰に大人一人が一瞬にして意識を失うほどの危険薬剤発射装置を装備したメガネ少年を配置し、眠らせた後私の推理通りの話をさせる。いや~、オレロヴィーサのこととかすっかり忘れてたしさ~(スウェーデン語)。

私は常々原作にリスペクトのない映画の作り手を嫌悪してきているが、それは映画を作る際、原作のストーリーと寸分違わぬものにならなければならないという意味ではない。そもそもが様々な条件からしてそんなことはまず不可能なわけで、要は原作が持っているテーマやコンセプトを崩さないものであれば、いくらでも、は言い過ぎかもしんないけど、ストーリーの改変などがあってもいいと思っている。
このストックホルム三部作映画版第二部『Easy Money II: Hard to Kill』は、原作小説第一部のストーリーから「IF」で枝分かれしたアナザーストーリーとして、原作のファンとしても高く評価できる優れた犯罪映画であると思っておるのです。
ただ一つ残念なのは、これにより原作小説第二部の、私が「ストックホルム三部作の山中正治」と特別深い思い入れを抱いておるNiklasのストーリーが映像化されなかったこと。時系列的にはこの第二部より前でNiklasを主人公とした、『イージーマネー/ストックホルム死闘篇』とか作ってほしかったなーと思うのであります。

Easy Money III: Life Deluxe
(原題:Snabba Cash: Livet Deluxe)
2013年/スウェーデン
監督:Jens Jonsson
原作:Life Deluxe(2011)(原題:Livet deluxe)

続く映画版第三部では、タイトルも原作と同じになっていることからもわかるように、原作小説第三部のストーリーに沿ったものに戻っている。第二部のオリジナルストーリーによる改変から、そのままではうまく繋がらなくなった部分を調整しつつ、原作第三部のNatalieを中心としたユーゴ・ギャングの内部抗争と、ホルヘによるCTI襲撃の二つが同等の比重を持ったメインストーリーとなる。

映画の冒頭に過去のストーリーのおさらい的なカットバックに重ねて彼らのその後がテキストで語られる。JWは様々な容疑を掛けられながら失踪中。海外に脱出したとの情報もあり。ホルヘはユーゴ・ギャングの殺害容疑などで逮捕されたが、現在は出獄中。
そして、ホルヘの物語は、どこかの老人介護施設で働いているとこから始まるのだが、ちょっと違和感に戸惑う。ホルヘってそもそも脱獄囚だし、出てくるのちょっと早すぎない?
だが、実はこの辺の事情はあとで明らかになるので、ここは一旦置いといてストーリーの進行に集中すべし。で、少しそのまま観ていると、実はホルヘは第二部の最後で別れ別れになったNadjaがこの施設で働いていることを突き止め、会うために潜り込んできたのだと分かる。ちなみにちょっと遅れてしまったけど、このNadjaの元ネタは、原作第一部に登場するホルヘがユーゴ・ギャングへの復讐を図り情報を集めているときに出会った娼婦ナージャからなんだけど、全然役割とかも違うのでNadja表記のまま進めます。そしてホルヘは、犯罪者仲間から内部に手引きできる人間がいるとの情報を得て、CTI襲撃へと向かって行くことになる。

そしてもう一方のユーゴ・ギャングのストーリーは、まず組織内で頭角を現してきた若手Martin Hägerströmが紹介されるところから始まる。まあ原作小説を読んだ人間なら、Hägerströmならコイツ潜入なんじゃねーの?とすぐ気付くのだが、案の定。
原作第三部では資金洗浄の実態をつかむため潜入捜査でJWの運転手をしていたHägerströmが、映画ではユーゴ・ギャングの組織内への潜入捜査に携わっている。更に言えば、映画にはならなかった原作小説第二部の主人公のひとりで、そちらでは部分的にHägerströmの相棒でもあったThomasの第三部でのポジションに、Hägerströmが潜入として入り込むという構図。なかなかうまく組み替えたじゃん、と思うのだが、少し説明が複雑すぎたか?
で、この映画版のHägerströmなのだが、原作であった上流家庭の出身とかホモセクシュアルとかの設定はなくなっていて、年齢も原作より多分一回りぐらい若い。これはNatalieとの関係を作りやすくするためのものだろう。そしてこのHägerströmの存在が先に書いたホルヘのちょっと早すぎるように見える釈放の謎の説明となっている。
Hägerströmは潜入捜査に先立ち、ユーゴ・ギャングの内情にもそれなりの知識を持っているホルヘから情報を求め、その見返りとして彼の罪の軽減とNadjaの身分保証を与えたことが後のシーンで語られる。そして原作通りというか、もう少しダイレクトにHägerströmがこの二つのストーリーを繋ぐ役割となるわけである。

ホルヘのCTI襲撃は、原作のプランナーのような存在はなく、ホルヘ自身が計画・指揮を執るという形で進む。三部作を通じて映画版では、ホルヘが原作より若干プロフェッショナルな犯罪者となっている感がある。だが、やっぱり非情になり切れないところがあり、それが計画の破綻を招いて行くこととなる。

ユーゴ・ギャングのストーリーでは、原作よりもかなり早いぐらいの映画が始まって間もなくでラドヴァンの暗殺未遂事件が起こるのだが、その後が結構長く、Natalieとラドヴァンの親子関係や、その後につながる組織内の反対勢力の萌芽が描かれて行くことになる。もう原作の方で書いちゃったんで仕方ないんだが、映画の方ではラドヴァンが2回目の襲撃で殺されるのは、ちょっとネタバレになるぐらいのところだったり。

そしてこの最終作には、三部作全体の主人公と言えるJWも当然現れるのだが、実はその登場シーンは映画全体から見るとかなり少ない。三部作の最後にして、JWは姉カミラの失踪の真相を突き止めるのだが…というところ。
そして、原作の時も書かなかったし、この映画版でも書くつもりはないが、実はその結末は原作と違うものとなっている。



まず、この映画版第三部のJWの、ほぼ「不在」という状態について。
最初、原作のストーリーからこの映画版に入った私は、このJWの「不在」を第二部のオリジナルストーリーからうまくつながらなくなってしまった結果と見て、それゆえの違った結末と解釈してしまったのだが、おそらくはそれはまた別の映画ならではの事情というものではないかと思う。
まあそこそこ映画に詳しい人なら当然ご存じだろうが、このシリーズのJW役ヨエル・キナマンはこの時期国際的な進出を果たし多忙になり、こちらの映画にあまり時間を割くことができなかったというのがこの「不在」の真相ではないだろうか。
原作小説におけるJWは、刑務所で服役中にも資金洗浄の実力を伸ばし、闇のマネーフローの大物となって出所し、ユーゴ・ギャングの内部抗争にもその資金運用役として関わってくる。うーん、映画の方はそこそこ見ている人もいるだろうが、原作も読んだ人はかなり少ないと思われる状況で、やっぱルールとしてそこまでは書けない結末の違いを云々するのは非常に難しいんだけど…。やはり原作を読んだ身としては、この結末はともすると途中でストーリーを変更した結果のJWのストーリーの欠落ゆえのなし崩しの結果のようにも見えてしまう。実際、映画のみを観た人も第三部のJWの結末には少し納得いかなかった人もいるのではないだろうか?

しかし、これまで見てきたようにこの映画版の脚本Maria Karlssonを中心とするスタッフは、原作からの変更に際し常によく考えられた巧みな腕を振るっている。そこから考えると、実はストーリー構成・脚本の段階ではこの結末に至るJWのもう少し納得がいくストーリーがあったのだが、ヨエル・キナマンの事情によりそれらを大幅にカットし、最低限ストーリーがつながる部分を残すしかなかったのではないか。
映画版第二部では、JWがムラドの脱獄に協力し、成功した後にムラドを伴って姉カミラの墓標だけの墓を訪れるシーンがある。もしかすると死の直前にムラドが知っていたかもしれない姉カミラの失踪の真相をJWに語るというシーンも想定されていたのかもしれない。そしてそれをあえて捨てて、第三部に持ち越すような意味のあるJWのストーリーが考えられていたのかもしれない。
そして、ここまでJWの結末しか触れてこなかったが、特に映画版に於いては第二の主人公となっているホルヘにもそのストーリーの結末があり、それもまた原作版と違っていてそちらより明るいものとなっている。そして、もしJWのストーリーがきちんと描かれたうえでのそのJWの結末(おそらくJWのストーリーが描かれても映画版の結末は原作と違うこちらであったと私は考える)との明暗の対比が、この映画、及びシリーズ三部作の本当のエンディングだったのではないかな、と私は想像するのである。

その他、Hägerströmが潜入捜査官であることが露見する部分は少し展開が強引ではないか、などの部分はあるが、大枠が崩れてしまったストーリーではあちこちに小さな破綻が出ることはつきものなので、そういったところをいちいち指摘するのもそれほど意味のあることとも思われない。多少の瑕疵はあっても全体的には第一部同様に、あの量の原作を映画サイズにうまく纏めた良作と評価できる作品であると思います。

なんかつくづく思うのは、原作を三行ぐらいのあらすじに要約した上で、平気で作品のテーマを踏みにじり、アメリカで受けるとされているファミリー要素とスタイリッシュなアクションで換骨奪胎、整形しドヤ顔のハリウッドのクズ脚本家どもの仕事を見すぎたなということ。初見の時にはそこからの先入観で、原作からの変更をいちいち否定的な目で見てしまったというのは自分的には大きな反省点です。
例えば原作付きの映画というのは、たとえそちらの方が観た人がはるかに多かったとしても、常に二次創作という一面を持っている。だが、しばしば問題となるのは、それが原作に全く愛情も敬意も持たない人間によって作られるということだ。しかし、このストックホルム三部作映画版は、それらとは違う、原作を熟考し、原作のエッセンスを崩さぬよう映画用に再構成し、更にそこにIFのストーリーを追加して作り上げられた作品である。私は敢えて、この作品をその原作に対するスタンスに敬意を表する意味を持って、優れた二次創作作品と呼ぶ。原作にきちんとした愛情を持った人間でなければ、ただのパクリレベルの名前だけを借りた偽物などではない「二次創作」など決して作ることはできないのだ。製作に多くの人間が関わる映画ゆえに完璧にはなれなかった部分もあるだろう。しかし、それでもこの映画版三部作は、原作小説ストックホルム三部作を再構築し、ある部分ではそれを補完し、オリジナルに影響を与えたところもあるのかもしれない、「もう一つのストックホルム三部作」と呼ばれる価値のある作品なのである。


あー、今回もかなり長くなっちまったな。でも映画だと間にトレーラーとか挟めて前回ほど延々とテキストが続いてしまう感じよりは幾分か読みやすくなったのではと。しかし一作目しか翻訳の出てない三部作の、更にそこからの映画化作品というのも強引に強引を重ねる感じで果たしてちゃんと伝えられたのかとかなり不安ではあるのですが…。まあ、なんとしても伝えなければならん現代ノワールの重要作品ストックホルム三部作を何とかやり遂げたぞ、てことでいいかな。

ついでなんですが、ここにつなげるのちょっと微妙なんだけど、前回力尽きてすっかり忘れてしまった原作小説第三部『Life Deluxe』で見つけてこれは絶対に書こうと思ってたオモシロネタを追加いたします。
第三部の序盤の方だったと思うのだけど、ホルヘが姉の家へ甥っ子へのお土産を持って行くシーンがあり、それがこちらのレゴ。「現金輸送車を襲撃しているレゴ」とか書いてあって、えー?ホントにそんなのあんの?と思ってただちに書いてあったレゴの番号で(LEGO 8199)で検索してみたらホントにありました。まあ、レゴ側の意図としては強盗から現金輸送車を護っているレゴなんだろうけど。近くのトイザらスとかにも見に行ってみたのだけど、読んだ時点で発売から結構経っていたわけで、現物はありませんでした。ネットでは手に入ると思うけど、結構お高いし、どう考えても家に置くところもないので自分では手に入れてません。小さなお子さんがいるお父さんなら、「現金輸送車を襲撃しているレゴ」だぞって感じでプレゼントして、奥さんから顰蹙を買ってみるのもいかがかと。
うがー、やっぱタイミング悪くてせっかくのネタなのにいまいち。前回ちゃんとやんなくてごめん…。


ここで前回のお詫びです。あーお詫びと言っても、高名な読書のプロの先生に失礼なことを書いてしまって申し訳ありません、とかいう一切心の片隅にもないことではありません。いやー途中でめんどくさくなってぶん投げるように終わってしまってごめん。やっぱやるとなったらきちんと徹底的にやらんとね。
とか言っても今更前回の続きやっても上のレゴみたいにちょっち気の抜けたもんになっちまうんで、もう少し別のアプローチからなんでこんなに頑張って罵倒せねばならんとムキになっているのかについて書いてみます。まあ、アイルランド出身の現在最も注目されているハードボイルドジャンルの作家エイドリアン・マッキンティの作品で、ハードボイルドのハの字もなく、更にアイルランドと言えば当然言及されるべきケン・ブルーウンの名前すら見られない、自分に語りやすい「ミステリ」型にはめ込んだ偏向的な欠陥解説を、後出しじゃんけんポジションゆえに許されると思ってるやや上から目線ぐらいのタメ口でお馴染みの「読書のプロ」スタイルのなあなあヘラヘラ口調混じりで書いてんのが心底ムカつくー、っていうのが基本なんやけどね。なんでこんなオフザケや肉体LOVE♡北上次郎の出鱈目なお小遣い稼ぎ雑文が許されるようになったのか!?
例えば古の「本格通俗」与太や、その後の時代の「ネオハードボイルドではプロンジーニとリューインのみミステリとして評価する」?てめー何様だ?というような偏見がまかり通っていたミステリ評論界だが、それでもいくらかはハードボイルドに対するまともな言説も高いおそうめんの色付きのやつぐらいの割合には見つけられた時代もあったのだが、それが21世紀に入ってからは次第に先細りになり、もう2010年代ぐらいには全く途絶えてしまう。そしてその空隙を埋めるのは、前述の「ネオハードボイルドでは…」レベルの「ミステリ解説者」による「ミステリ」型解説と、勘違い編集者によって起用されたハードボイルドについて語る能力など皆無の肉体LOVE♡北上のようなものばかりだ。
ハードボイルドを心から愛する者として、こんな状況は放置できん!だが「ミステリ解説者」、読書のプロどもに都合の良い論述調整を重ねられ続けた結果、現代ハードボルドを代表する作家の作品にハの字も書かずに解説できるように見せかけられたこの腐りきった歪んだ状況、もはやちまちました修正ではとても追いつかん。こうなればこういった害虫を徹底的に駆除し、ハードボイルドを更地ぐらいまでに戻すしかない!エスピオナージュやミリタリー、メンズアクションアドベンチャーなどのジャンルが、ミステリ要素だけを抽出し、ミステリ基準だけで語ることができないように、当然ハードボイルドもそのジャンル独自の基準抜きで語ることはできない。だがそれはこの世の全ての問題を四則演算のみで解こうするレベルの阿呆が自分が理解できるようにこじつけた馬鹿馬鹿しい定義などではない!ハードボイルドをこのようなガラクタで型にはめようとする愚物は徹底的に排除せねばならんのだ!

はっきり言って私もそこまで馬鹿じゃないので、こうやっていい作品について多くの人に広めたいという目的があるなら、あちこちに各方面を罵倒するような文言を挟むのはあまり効率的ではない、というぐらいのことはわかっている。コミックの方だって言いたいことがないわけではないが、そこには言及しないでやった方が多くの人に読みやすくなるはずという思いで、なるべくこういったことは避けている。だがハードボイルドは違う。たとえ読んでくれる人が減ろうが、この惨状の上にあぐらをかいている野郎どもに一矢報いなければならん。だが、私は自分の方が上手く書けるから自分に書かせろ、などと言ってその座に成り代わろうというようなせこい考えでこれを行っているわけではない。私の目的はもっとシンプルだ。テロリズム!なんかハードボイルドに近づくとキチガイに噛まれるぞ!ミステリ論もクソもなくとにかく何言っても噛まれる!言葉も通じんらしい!オ~ニッホンゴワッカリマセ~ヌガブガブ。もーハードボイルドとかの解説お断りします。そもそもそんなによく知らないんだし。フザケンな!二度と顔出すんじゃねーぞ!作戦である!
なんかさあ…、あーまた週末中に終わんなかったなあトホホって感じで平日夜にぼそぼそ書いてて、週半ばすぎて疲れも溜まってくると、どーせワシ一人がこんな零細ブログで吠えてたってどうもならんよなあ、みたいな気分になってきちまうんだが、そんなことではいかんよ。ずっと誰もやってくんなくて放置されてるうちにこんなひどい状況になってしまったと思ってるから頑張っとるのだ!いつかは奴らももはやハードボイルドはヘラヘラミステリ評論家が半笑いで臨める場所ではない、と思い知る日が来ると信じて、戸梶圭太作品の地元にノコノコやってきた東京者を追っ払うためならいかなる手段をも辞さない田舎者の不寛容さと不退転の決意と、鬼滅キッズの思い込みと熱意を持って、地道な草の根テロを今後も展開して行くものである!

繰り返して言うが、私は自分の意見の方が正しいから自分に書かせろ、などというつもりでこれを言ってるわけじゃない。だが世の中に正しくない意見というのは確実にある。例えばアガサ・クリスティを読むつもりでスピレイン/マイク・ハマーを批判しているような意見には全く意味も正当性もないし、逆もまた然りである。
ずいぶん昔のことだと思うけど、誰かの読書ブログで「人には誤読の権利がある」というようなことを冒頭に掲げたものを見た覚えがある。なんだか自分が例えば評論家みたいな連中のものと違う感想を書いてしまった時の言い訳のようにも見えてしまうが、その意見自体に反対するつもりはない。一つの作品にも人それぞれの意見や感想があり、どれが正しいというものではなく、誤読する権利だってあるだろう。
だが、本をたくさん読むうちに本来の良い本を読んだから人にも薦めたいというような目的も忘れ、ただ点数を付けて評価し順位をつけるような「評論家的読み方」に堕した者が、前述のクリスティ⇔スピレインのような「誤読」で批判を始めるならそんなものには全くの正当性はない。世の中には年齢に関係なくいつまでたっても批判していれば、辛口、見る目があると思われると思ってるバカが山ほどいる。何度も言ってることだが、本を少し読み慣れれば簡単にどんな作品にだってある、その欠点を見つけることができるようになり、その欠点をあげつらって批判をすることなど造作もないことなのだ。
この作品解説の杉江による「書きすぎ、筆の走りすぎ」みたいな下劣な評論用語は、そんなものを誘発するだけの、それこそ杉江自身が素人同様に「オレ見る目あるー」と喧伝しているだけの愚劣極まりない記述である。先ほどから言ってるクリスティ⇔スピレインのような例を考えれば、それが双方にどのように都合よく解釈され「誤読」されるかも見えてくるだろう。
どんな意見が正しいとか、どんな解説が正しいとかいうことを言っているのではない。だが、あまりにも読み方を歪めるばかりの間違った解説が多すぎるのだ。今やこのレベルのものしか書ける人間がいないというなら、簡単な作者紹介と作品リスト、それもできないなら広告に直行した方がはるかにましだ。そうやってハードボイルドを更地に戻すのだ。
そして更に、例えば今日、ハードボイルドというものを読もうと思って初めてチャンドラーを読み終えた若い読者がいたとすれば、彼、または彼女は海外で発行された最新のハードボイルドを読んでみたいと思うことだろう。それがマッキンティのショーン・ダフィであり、この作品なのだ。そのためにこういった作品にはきちんとハードボイルドと明記されねばならんのだ!
なんか曖昧な統計的な方法論で、そう書かれていることで買わないと予想される「ヤングアダルト」をナウい今風の言い方だと思ってるレベルのお爺ちゃん読者数人より、これから本を買ってくれる若い読者一人をゲットする方が出版界の将来のためだろうが。これはそうやって築かれる新しいハードボイルドのためのテロであり、私は一切手を緩めず、これを敢行して行くものである!えーっと、主にゆっくり休んで気力体力をいささか回復した週末を中心にね…。

ここから奴を二度とハードボイルドに近づけないために肉体LOVE♡北上の悪口を30センチ(PCブラウザで当ブログを表示しアナログ物差しで計測した値)ほど書くつもりであったが、もうめんどくさ…あ、いや、なんだ、読んでくれている人のPCやスマホに余計な負担を掛けぬために今回は勘弁してやる!
あと、罵倒ばっかりもなんなんで少しはいいとこも書いとくと、今回の帯結構いいやないですかい。内容とかデザインも良いしな。それなりに頑張ってコメント集めたんなら、こっちを巻末に載せときゃよかったじゃん。印刷時期とか色々あんの?なら版元のホームページとか行けばいくらでも見つかる絶賛レビューとかさ。アレも版権があるとか?いずれにしてもそこそこの出費でこれよりましなのいくらでも見つかるっしょ。もうちょっとちゃんと売れる仕様で出してくれよ。頼むよ。頼むテロ。


【戸梶圭太最新作!KIndleにて絶賛発売中!】
さて今回もあとはこちらのコーナーです。今回は何とか読みましたこちらの作品『コロナ日本の内戦』の感想から。いや、ホントはこんな他ののオマケみたいな感じじゃなくてちゃんと一回使ってやるべきなのだが、ちょっと今そういう感じに増やして行くのが少し難しい状況なので、申し訳ない。

で、まずその内容はと言うと、「コロナ」をテーマとした7本の短編からなる短編集。どちらも戸梶作品でおなじみのチープで底の浅い奴らが、この危機的状況に追いつめられ、コロナの恐怖にパニックを起こし、走り回り、罵り合い、殺し合う、戸梶圭太エッセンスあふれる素晴らしい作品集である。
この世界的な未曾有の危機状況の中にあり、作家であればこれについて何か書きたい、いや書かねばならぬと思うのは当然のことだろう。戸梶圭太は、その卓越した速筆と、現在出版社を通さずにKindleダイレクトで自作を出版中というフリーハンドの状態とを活かし、正にいまだ状況が進行中の中で出版を成し遂げたという大変意義のある作品集である。まさに今読むべき一冊!
この作品中に描かれている「コロナ」は、我々が直面している新型コロナウィルスの症状などを必ずしも正確には表現してはいない。だからどうした?これは作品が販売されているページにも明記されているように完全なフィクションである。決してコロナ状況の社会をレポートしたノンフィクションなどではない。だが、ここに描かれているのはまさに我々が直面している感染したら死ぬと思っている殺人ウィルスへの恐怖と強迫観念そのものである。
まったく、教訓要素とお勉強要素を見つけなければ本もまともに評価できない、いつまでたってもイソップ童話と学習漫画を卒業できないダメ大人が多すぎるんだよ。自分の知っているなけなしの「正しい知識」で作品にツッコミを入れるような傾向が顕著になったのって、前世紀末、80~90年代頃からだろうか?要するにおなじみの、そんな銃の持ち方じゃ当たりませんー、手首をケガしますうー、が全ジャンルに拡がったということ。そんな飽くなきリアリティの追及が、規則通りに正しく警察官の身分証を提示し、銃を持たせれば基本に則った正しいスタンスを取る、あんまりリアリティの無い警察署に勤める、全くリアリティの感じられない役者によって演じられる刑事が、もはやリアリティのかけらさえない部活気分のいじめっ子テロリストと闘うみたいなものを世にあふれさせたというわけだ。ああ、リアリティ万歳!
そんなモラルがTVの放送コード、リアリティがあるあるネタと化した現代ニッポンに、鬼才戸梶圭太が当たり前の作家活動として放つ、「コロナ文学」の先鞭を付ける問題作品集!あるキャラクターが言い放つ「安心しろ。もう元には戻らないから」というセリフが日々重みを増やすように思われるこの時代、これを読まずしてなんとすると言うんだい?

さて勢いの止まらぬ戸梶先生でありますが、前回よりさらに2作がKindleダイレクトで追加!前回書いた直後ぐらいに発行された『宝くじ販売員の戦争』と、つい先日発売されたばかりの戸梶児童文学『忘れ死神ぴよ』の2作である!このうち『忘れ死神ぴよ』は、初のフランス語版も発行とのこと。2作出たところでやっと1作読んでるのでは永久に追いつけんので、これまで以上の努力を持って戸梶圭太新作群を追って行かねばならぬと決意をを新たにするばかりである。とりあえずはフランス語版も気になる最新作『忘れ死神ぴよ』かな?戸梶先生、この勢いで頑張って下さい、ちゃんと読み続けるんで!ああっと、また重要なことを書き忘れるとこだった!戸梶圭太Kindleダイレクト作品は、全作Unlimitedで読み放題でーす。これでも読まんのかい?コラアッ!

そして、海の向こうでも犯罪小説方面ではこの状況に何かを書かずにはおれん、という動きが始まっております。それがあのPolis Booksより6月に発行されたコイツ!『Lockdown: Stories of Crime, Terror, and Hope During a Pandemic 』!編集はあのNick KolakowskiとSteve Weddle。Nickについては伝説の「Thuglit」最終号のとき書いたな。憶えてる人や読んだ人今いるのかは不明だが、その後もかなり活躍しとるのだぞ。Steveに関してはここで説明する余力が無いんだが、アメリカじゃウィキペディアだってあるんだぞ。あのDo Some Damageを作ったエライ人!19人の錚々たる面子がパンデミックの危機的状況を描く。日本で翻訳されてんのがかのジョニー・ショー先生だけだなんてのは、まーったく意味がなく、さすがNickとSteveの人脈とうならせる顔ぶれである。しかし、まあ謎の殺人ウィルスぐらいになってるところは戸梶先生に一歩遅れたか?誰が見たってコロナなんだから、コロナでいいだろ、という感じ、改めてさすが戸梶圭太と感服するばかりであるね。だが一応彼らの名誉のために言っとくと、Nickあたりもコロナでいいだろ、ぐらいの気概はあったかもしれないが、Polis Booksの編集あたりからストップがかかったのかもね。大体そういうことやんのそういう人達やからね。まあ他のジャンルでもこういう動きあるのかもしれんが、とりあえずこっちの守備範囲のクライムやらホラーやらのヤバい連中からは、この状況に立ち向かう動きが続々出ておるぞ、ということを戸梶圭太の傑作と共にお伝えしておこう。

えー、そして今回ももはや余力ないのだが、ついさっきまたヤバいの見つけちゃったので緊急でお知らせしとく。こちらはかのDown & Outよりの『Guns + Tacos』シリーズ!こちらのシーズン1全6作をそれぞれ3作ずつ収めたVol.1、Vol.2が各2ドルぐらいでセール中!『Guns + Tacos』シリーズというのが何かを簡単に説明しとくと、ある設定の話をそれぞれ別の作家が交替して書くという、アメリカでは色々あって結構人気のも多い形式のシリーズ。ずいぶん昔だけど『Dead Man』シリーズっていうのを紹介したよね。あーゆうやつ。シカゴで人気のタコス屋台トラック(キッチンカーとか言うんやろ?最近)。だがそれは昼の顔。深夜、夜明け近くなると別のメニューを求める客がやってくる。スペシャル・オーダーのイリーガル・ウェポンだ…。Polisの『Lockdown』について書いてて、ふとDown & Outもなんかやっとるかも、と思いついて見に行って見つけた。実は結構前にこのシリーズチラッと見て、あとでチェックしとかなきゃと思ってたんだけど、そのまま忘れてた…。すまん。シーズン2が開始され、期間限定のセールです。このチャンスにお早めに!モタモタしてたせいで、思いのほか早く終わっちゃってたらごめん。あとDown & Outからは『A GRIFTER’S SONG』っていう同系のシリーズも出てるんだけど、もう説明する余力ないんでDown & Outのサイト行って自分で見てちょ。


あちゅーい!あちゅいですうー!寒いより暑い方が遥かに好きなんですが、体力無いんでかなりキツイです。お昼休み冷房の効いた会社から外出ると、重力まで上がったような気がして、ベジータ様が重力ルームで修行してる姿の走馬灯が意識を流れたりします。このあちゅい中、ブログの方が強制的にリニューアルされ、エディターがむっちゃ使いにくくなって、次から他のエディター使って書かなきゃという感じになってたりします。とまずは近況ボヤキ。
今回も結構頑張っていたのだけど、こんな感じでまたバカ長くなって結構遅れちまいました。ホントは楽しい本のお話で書こうと思ってたこともまだあるのですが、それを考えると読書のプロがどーのこーのとかつくづく時間をドブに捨ててるな~と思います。だがお前がやれぬことならばこの世のドブさらいとして俺がこの手でやらねばならんのだ!今回はこれも載せちゃうぞー!

とりあえずは次まで読書のプロや肉体LOVE♡がこっちのテリトリーをウロチョロせず、平和に書けることを望むばかりである。こっちもわざわざ外に探しに行くほど暇じゃねーし。とにかく何とかこの重要作『ストックホルム三部作』はやり遂げた。だが、書かねばならない本はまだ山ほどあるのだ!『Guns + Tacos』なんつーのも掘り出しちゃったじゃん!というわけで今回はここで終わって次に進みますでごわす。ではまた。アイスまだあったかにゃー?あちゅーい…。


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Jens Lapidus / Never Screw Up -ストックホルム三部作 第2弾!-

Jens Lapidus / Life Deluxe -ストックホルム三部作 最終作!-


■ストックホルム三部作映画版

■Stockholm Noir Trilogy
●Vintage Crime/Black Lizard版

●Pan Books/Macmillan版

■長編(英訳版)
●Vintage Crime/Black Lizard版

●Corvus版

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2020年6月21日日曜日

Jens Lapidus / Life Deluxe -ストックホルム三部作 最終作!-

やっと、ここにたどり着いたぞ…。とにかくこれだけは語っておかねばならん、イェンス・ラピドゥス ストックホルム三部作!その最終作『Life Deluxe』!
今回は、その『Life Deluxe』についてと、三部作全体のまとめ及び私の感想。そして次回は映画版についての全2回で、日本ではその第1作『イージー・マネー』のみしか翻訳されなかった21世紀ノワールの重要作、ストックホルム三部作の全貌を明らかにするものであります!

で、第3作『Life Deluxe』について語るには、まずその前に前作『Never Screw Up』の結末までを説明しなければならん。ほぼ全面的にネタバレとなっちまうので、ご注意を。


【Never Screw Up -その後】
『Never Screw Up』の主人公はアラブ系移民のMahmud、元傭兵のNiklas Brogren、パトロール警官のThomas Andrénの三人。それぞれの物語の続きから結末へと辿って行こう。

ギャングからの借金に脅かされ、ユーゴ・ギャングに彼らの金を持ち逃げした同胞を売り渡したMahmud。だが期待した他のギャングに対する庇護は得られなかっただけでなく、その後もユーゴ・ギャングの手下として利用され続けることになる。拒否すれば父や妹に類が及ぶことをほのめかされ、更に深い泥沼へと追い込まれて行く。ドラッグの売人から、パーティーなどの仕事のため人身売買や不法入国の女性を住まわせているトレーラーパークの番人まで。同胞を売ったことからかつての仲間とも疎遠になり、孤立し途方に暮れるMahmud。俺はもはやユーゴ・ギャングの犬から逃れられないのか?そこに、かつて刑務所から脱獄し、その後莫大なドラッグの取引に関わった後、海外に逃亡中と噂されていた伝説の男が、密かにコンタクトを図ってくる。ホルヘ・サリーナス・バリオ。
「大晦日にユーゴ・ギャングの息のかかった大物のパーティーがある。金持ちどもが集まり、お前が見張らされている女どもも全部駆り出されるでかいパーティーだ。そこを叩いて奴らの財布からがっぽりせしめるんだ。」
ユーゴ・ギャングへの反撃の手段を掴んだMahmudは、かつての仲間を説得し、頭を下げ襲撃メンバーを集める。だが、もうひとり…、頼りになるやつはいないか…?そこでMahmudの頭に浮かんだのは、妹を暴力的なボーイフレンドから、更に圧倒的な暴力で救ってくれた隣人、Niklasだった。

母親のアパートを出て、警備会社に職を得たNiklas。自らを鍛え、力を得ても幼少時のトラウマは常に彼を苛む。部屋から追い出され、閉じ込められた地下室。暗闇とそこに潜むネズミ…。暗闇に飲み込まれたくなければ行動を起こせ!彼はDVに苦しむ女性たちのシェルターでのボランティアを申し出るが、女性のみで運営される団体からは拒否される。女性たちのリストを盗み出したNiklasは、個人で行動を起こす。作戦行動に必要な装備を調達。様々な監視・偵察用装備。そして武器。女性への加虐者には容赦ない制裁を。そしてそれは過重暴行から遂には殺害までへと発展して行く。
狂ったヴィジランテ行為にのめり込んで行く中、Mahmudから襲撃メンバーに加わってほしいという話が来る。パーティーに引き出される虐待されている女性たちに話が及び、Niklasはメンバーに加わることを承諾する。そして、目的の屋敷へ入念な監視・偵察を行い、襲撃計画を組み立てて行く。
だが、襲撃も次第に近づくある日、偵察から住居のアパートに戻ったNiklasを待ち構えていた警察が逮捕する。逮捕理由は母親のアパートの地下室で殺害されていた男、-Claes Rantzellに対する殺人容疑。家宅捜索から、ヴィジランテ行為による殺人の証拠も発見され、襲撃までの釈放の望みは消えて行く。

警察ではパトロール警官の地位を追われ、閑職をあてがわれたThomas。だがその一方でユーゴ・ギャングからのオファーでアルバイト的に警備の仕事を得る。これも結局はMahmudと同じ「利用」ではあるのだけど、そのスキルによってリクルートされたThomasは比較的優遇されている。そして自分を陥れた者たちへの怒りと執念で個人的に事件の捜査を続行する。と言ってもThomasは元々刑事などではなくパトロール警官。捜査の技術などもなく、手掛かりになりそうな人物に遭い、殴りつけて情報を引き出し、訪ねたアパートが留守なら勝手に侵入し、時には自白剤を使って拷問するなどの手段を使い事件の真相を追って行く。
地下室で殺されていた男はClaes Rantzell。名ばかりで実体のない数々の会社の経営者など、アンダーワールドの闇取引に深く関わっていた人物であることは間違いない。ユーゴ・ギャングとの関係も浅からぬものだ。そして更に調査を進めるうち、彼が1986年に起こった、スゥエーデンのケネディ暗殺事件ともいわれる、当時の首相オロフ・パルメ暗殺事件にも関係が深い人物であることが明らかになってくる。Claes Rantzellは暗殺犯の決め手となる証言をした後、警察による証人保護プログラムで姓名を変えていた人物だった。Rantzellのアパートの地下室から彼が秘匿していた書類の山を持ち出したThomas。更なる情報が見つかるはずだが、自分にはこれを分析する能力が乏しい。そこで事件発生直後以来連絡の途絶えていた刑事Hägerströmに協力を求める。

MahmudはNiklasが逮捕拘留されていることも知らず、連絡がつかなくなっていることに困惑しながら、襲撃予定の大晦日を待つ。
Niklasは警備さえ振り切れば外界が最も近くなる裁判所からの脱出を図り、罪状認否の場から脱出に成功する。脱走のその足でMahmudと合流するが、既に襲撃の日は翌日に迫っていた。

ThomasはHägerströmと共に書類の山を精査する。浮かび上がってきたのは一人の政財界の大物の名前。これ以上の証拠を集めるにはその人物が保管しているだろう書類に当たるしかない。折よく大晦日にその男の屋敷で催されるパーティーの警備はユーゴ・ギャングが担当している。指導なども含めてユーゴ・ギャングの警備関連の仕事に関わっているThomasなら口実を付けて潜り込むことができる。
だが、その人物、屋敷こそがMahmud、Niklas達が襲撃を謀っている場所だった。

Niklasが練った計画通りに屋敷への侵入・襲撃は成功。招待客から金品を巻き上げ、立ち去ろうとするMahmud。だがNiklasはそこから彼の本来の目的である女性への虐待者への粛清を始める。密かに用意してきた爆薬を、ダクトテープで縛り上げた屋敷の主の胸の上に固定する。
ThomasとHägerströmは、Mahmud達の侵入後に屋敷へ到着する。異変に気付き、Hägerströmを外で待たせ、慎重に屋敷内を探る。大広間へとたどり着き、そこで進行中の事態を察知する。
Niklasの予定外の行動にパニックになるMahmud達。物陰より様子をうかがっていたThomasは事態の中心であるNiklasを銃撃する。2発目の銃弾がNiklasの頭部を捕える。Mahmud達はNiklasをその場に残し、逃走する。

Niklasは事件現場で射殺され、死亡。
Thomasは罪にこそ問われなかったが、この件で正式に警察を去ることになる。
Mahmudは正体不明のまま、無事に現場から逃走。しかし彼の中にはNiklasへの複雑な思いが残る。

以上が第2作『Never Screw Up』全編のあらすじです。ちゃんと書いとかんと続きの登場人物たちの立ち位置も説明できないんで、全部書いたんだが、3者の物語が複雑に絡み合う結構な大作(翻訳版『イージーマネー』約500ページの文庫2分冊とほぼ同サイズ)なんでやっぱずいぶん長くなってしまいました。まあここは仕方ないか。最後、エピローグにClaes Rantzell殺害の真相が語られるのだが、そのくらいは秘密にしといてもいいでしょ。
さてここから続く三部作最終作はいかなる展開になるのか?というわけで、やっと『Life Deluxe』です。

【Life Deluxe】
さていよいよ『Life Deluxe』なんだが、最初に断っとくと、三部作最終作でもあり、全体のまとめのためや次回の映画版などの関連もあり、こちらもさすがに最後までは書かんがややネタバレします。どうしてもイヤンという人は登場人物3人の初期ステータスあたりでやめるのがよろしいかと。

この『Life Deluxe』も、前2作同様に3人の主人公による3つのストーリーが交互に語られるというスタイル。と、そこまでは当方の予想通りなのだが、ちょっと安直な予想を覆されるところあり。
第一の主人公は、ホルヘ・サリーナス・バリオ。第1作『イージーマネー』の主人公のひとりが再び3人のうちの一人となる。また新たな3人が登場という私の予想は外れちまいました。申し訳ない。第2作では、ちょっとした黒幕然として登場し、これは背後にムショ内のJDともつながってるな、と思われたのですが、ちょっと私の深読み過ぎだったのかも。この第3作では黒幕感も無くなり、第1作同様の切羽詰まったチンピラ犯罪者に戻っている。現在は表の顔として素性を偽りカフェを経営している。そこに集まるのは今は最も信頼できる相棒となったMahmudと、大晦日の襲撃に加わったアラブ系の仲間たち。ホルヘは現在Mahmudと共に大きな強奪計画を練っているところだ。これを成し遂げれば俺はストックホルムのアンダーグラウンドで伝説となる。
第二の主人公は、Martin Hägerström。第2作『Never Screw Up』でThomas Andrénの捜査に協力していた人物。第2作ではThomas視点のストーリーだったため、元内務調査官の殺人課刑事というぐらいの情報しかなかったが、今作ではもう少し詳しく複雑な人物像が掘り下げられる。スウェーデンの名家の出身で、基本的には警察官になどならない階級の一族の異端児。軍隊・沿岸警備隊などの経験もあるというとマッチョ系を想像するかもしれないが、基本的には頭脳派の刑事。離婚した妻との間にまだ幼い息子がいるが、実はホモセクシュアルという秘密を持つ。ハッテン場のバーで気の合った相手を見つけ、関係を持つが、特定の相手はいない。Hägerströmは、やり手だが強引な独断専行の捜査で知られるTorsfjall警部に呼び出され、彼の下でのある任務を命ぜられる。潜入捜査。捜査対象は、出所が近い現在刑務所に服役中の男。刑務所内に居ながら、多くの顧客を抱え複雑な資金洗浄ビジネスを展開している人物だけに、その内容を理解して的確な情報を引き出せる能力を持った捜査官が必要となるため、Hägerströmに白羽の矢が立った。男の名はヨハン・ウェストルンド。通称JW。
第三の主人公は、Natalie。第1作から登場しているユーゴ・ギャングのボス、ラドヴァン・クランジッチの娘。ちょっと正確な年齢を忘れちまったか、書いてなかったかで不明なのだけど、今作中で大学に進学したぐらいなので、18歳とかそのくらいだろう。半年ほどフランスにビジネス修行を兼ねた旅行に出かけていて、当地で父の友人が経営するレストランで働くうちに知り合った恋人Viktorと共に帰ってきたところから始まる。
この作品にはもう一人、一人称の謎の語り手がプロローグから登場する。彼の語りはその後もところどころの幕間に挟まれて行くことになる。プロローグの内容から、彼は国外からある人物を暗殺するためにやってきたプロフェッショナルであることがうかがわれる。そして、その標的はユーゴ・ギャングのボス、ラドヴァン・クランジッチ。

ホルヘが強奪計画を謀っているのは、ストックホルムのCIT。CITとはCash-in-transitの略で、経済金融用語では未達現金と訳され、現金輸送なんかも含まれるのだが、ここではそういった現金が集積される施設のこと。スウェーデンでCITと言えばそれを指すのか、それともCITセンターみたいな呼称はあるのだけど犯罪者用語でそう略されているのかは不明。この大きな強奪計画のために、ホルヘは刑務所仲間のつてで名の知られた強奪計画構築のプロに計画の細かい組み立てを依頼している。だが、その当のプロはもったいぶって登場し、計画の作成のためにアレをやれコレをやれと指示してくるばかりで、次第にホルヘの不満は高まって行く。
ホルヘについて言えば、結局のところ第2作のすぐに袋小路へと追い込まれてしまうようなストリートのチンピラMahmudを一番信頼できる相棒と思うような三流の犯罪者である。CIT襲撃のための準備や偵察も、前作の訓練されたプロであるNiklasに比べればグダグダもいいところ。そして襲撃。最初からも躓きながら強引な力押しで何とかやり遂げ、メンバーも全員無事脱出。しかし、強奪金額は想定していたものよりもかなり少なかった。ホルヘとMahmudは集合場所へ戻る前に金の一部を隠す。利益全体からパーセンテージで分け前を要求されている計画構築者からごまかすためだ。そして、金を分けた襲撃メンバーは、全員そろってほとぼりが冷めるまでの国外脱出-タイへ向かって出発する。

作為的な経歴などすぐに足が付く。Hägerströmは実際に免職になった後、不祥事により警察を解雇された看守として刑務所内でJWに近付く。自ら工作した刑務所内のトラブルからJWを救い出し、様々な便宜を図ってやるなどの手段で、次第にJWの信用を得て行く。
刑務所内から資金洗浄ビジネス?と疑問の人もいるかもしれないのでちょっと説明すると、スウェーデンの刑務所では受刑者の社会復帰助成のため、監房内でPCを所持することが許可されているそうだ。もちろんネットで外部に繋ぐことまでは許されていないが、金とコネを使って密かに携帯を入手すれば、第1作でJWが作り上げたシステムを動かし、刑務所内からでも資金洗浄ビジネスを展開することが可能になるというわけ。刑務所内でのPC所持が現在も許可されているのかは不明だが(この作品は2011年発行)、弁護士でもあるイェンス・ラピドゥスなんで、いい加減なことは書いていないはず。
資金洗浄ビジネスの全貌を把握するための決定的な証拠・情報の見つからないまま、JWは出所する。そしてその後も、HägerströmはJWの運転手として潜入捜査を続ける。だが、HägerströmにとってJWは依然正体を掴み切れない人物で居続ける。

翻訳の出た第1作を読んだ人なら覚えているだろうけど、この作品の当時はかなりの格闘技ブームで、ユーゴ・ギャングたちが試合を観戦に行き日本でも知られているような名前が出てくる場面があった。ユーゴ・ギャング、ムラドがジムに行くシーンもたびたびあり、ブームとか関係なくてスウェーデンのその辺の人たちって、いつでも格闘技好きなのかもしれないけど。第2作でもMahmudがユーゴ・ギャングに呼ばれて試合場に話をしに行くという展開があり、この第3作でもボスラドヴァンが配下と共に観戦に行き、娘Natalieも同行する。そして試合後、アリーナから出てきたところを件の謎の暗殺者が襲撃する。ラドヴァンは重傷を負うが、命はとりとめ、厳重な警備に守られ自宅屋敷で静養。だが、プロの暗殺者は依頼を完遂するまで諦めない。気晴らしに友人とクラブへ遊びに行ったNatalieの迎えに部下に運転させて現れたところを、Natalieの目の前で車を爆破され、ユーゴ・ギャングのボス、ラドヴァン・クランジッチは絶命する。
おいおい、ややネタバレぐらいに書いてあったけど、いくら何でもバラしすぎじゃない?と思ってる人もいるかもしれないが、実は第3の主人公Natalieの物語はここから始まるのである!ラドヴァンの死後、圧力の緩んだ警察、国税局などが次々と家宅捜索に現れる。突如襲い掛かった嵐に翻弄されているうちに、気付くと父ラドヴァンの腹心だったStefanovicが様々な利権を持ち去り、組織を我が物とすべく動き出していた。残されたのは彼女と母の身辺を警護し続けてきた数人の幹部とその手下。だが、父の築いた帝国を継ぐのはこの私だ!NatalieはStefanovicに宣戦布告する。

ホルヘの三流犯罪者チーム現金強奪と、Natalieのギャング跡目相続抗争という、接点のない二つのストーリーを繋ぐ役割を担うのがHägerström-JWのパートになる。
タイへ逃亡したホルヘ一味だが、小遣い稼ぎのドラッグ売買が元で地元ギャングとの間の軋轢が発生し始める。また、当初からあったアラブ系グループ内のリーダー格であったBabakとホルヘの反目が表面化し、グループ内に不調和が広がって行く。
一方、ホルヘとJWの友情は依然健在で、強奪の際ペイントが付着して使えなくなっている紙幣の交換を請け負ってやり、ホルヘのタイで店を開きたいという計画を助けるため、かつてタイでの任務にも就いたことがあり当地の事情に明るいHägerströmを派遣してやったりもする。
地元ギャングとの衝突は悪化の一途をたどり、別の街への移動を図ったホルヘたちだが、その途上に襲撃に遭いMahmudは現地の病院に入院する破目になる。現地で店を開く計画も資金繰りに苦しむようになり、ホルヘは隠した金を入手するために一旦帰国する。だが、その間にグループ内の不和から別行動をとっていたメンバーが逮捕され始め、また一方では強奪金の隠匿を察知した強奪プランナー一味からの報復が迫ってくる。
その一方で、タイに渡ったHägerströmはホルヘ一味のメンバーの一人(男性)と恋仲に。そしてその関係は彼を潜入捜査官の許容範囲を超えた深みへと引きずり込んで行くことになる。

Stefanovicに奪われた利権について調べているうちに、Natalieはそれらの企業の運用に陰で協力している人物の存在に気付く。ヨハン・ウェストルンド。通称JW。NatalieはJWとコンタクトを取り、それらの利権は自分の家族に属するものだ、と訴える。JWは言う。貴女の苦境は理解できるが、私もビジネスだ。ここストックホルムでは組織の意向に沿って動かなければ商売は成り立たない。だが、貴女の希望に沿える方法が一つある。それは貴女が組織の実権を握ることだ。
対立が決定的になったNatalieとStefanovicの抗争は、ストックホルムのアンダーグラウンドで激化して行く。そして、ラドヴァンを亡き者とした謎の暗殺者は、彼も正体を知らない依頼人から新たな仕事-暗殺を依頼される。その標的はボスの娘Natalie。

シリーズの以前の登場人物では、第2作のThomasがその後完全にユーゴ・ギャングの一員となり、Natalie側に残った側近の一人として登場。Hägerströmと再会するのは結末近くになる。
そして、おい、アイツどーしたの?と思ってる人も多いだろう。そう、ムラドだ!第1作の主人公のひとり!なのだが、実はこの最終作では刑務所内でユーゴ・ギャングの情報提供の見返りに証人保護プログラムを受けるという方向に向かっており、登場シーンはほんの序盤、Hägerströmが潜入捜査に先立ちJWの情報がないかと面会する短いくだりのみとなっている。第1作で非常に印象的なキャラクターだっただけにちょっと残念なのだが、ちょっとこれについてはもしかしたらこういうことなんじゃないか、というある考えを持っている。それについては、次回映画版についてのところで述べる予定なんで、また見てね。
ホルヘ、Natalie、それぞれの闘いはいかに決着するのか。Hägerströmの潜入捜査はいかなる決末を迎えるのか。そして、暗躍するJWの目的、真意はどこにあるのか。怒涛のストックホルム三部作はここに完結する!

【ストックホルム三部作とは何だったのか】
さて、ここでストックホルム三部作の総括に先立ち、それぞれの主人公たちを今一度振り返ってみよう。
[第一部]Easy Noney(邦訳『イージーマネー』)
・JW:地方出身の苦学生。ストックホルムの上流社会に憧れ、何とか形だけでもその一員となれるよう願う。
・ムラド:ユーゴスラビアからの移民。ストックホルムで一大勢力となっているユーゴ・ギャングの幹部。
・ホルヘ:ラテン系移民。ドラッグディーラー。トカゲの尻尾切りでユーゴ・ギャングに裏切られ投獄。その後脱獄。
[第二部]Never Screw Up
・Mahmud:アラブ系移民。懲役を終え出所したばかりのストリートのチンピラで、ギャングからの借金で追い詰められている。
・Niklas:ストックホルム市内の貧困層、母子家庭の出身。中東での傭兵活動で任期を終え帰国。幼少時の、母親の暴力的な愛人からの恐怖体験が深いトラウマとなっている。
・Thomas:パトロール警官。郊外に家を持つスウェーデンの中流層。家庭は円満だが子供に恵まれず、養子縁組を考えている。
[第三部]Life Deluxe
・Hägerström:殺人課の刑事。上流階級に属する一族の出身だが、そこに自らの居場所を見出せない。離婚した妻との間に息子がいる。ホモセクシュアル。
・Natalie:ユーゴ・ギャングのボス、ラドヴァンの娘。何不自由ない富裕な生活を送っているが、その富も地位も犯罪によって贖われたものであることを知っている。

三部作を通読してまず見えるのは、スウェーデンがある部分では前時代的であり、また同時に現代的でもある階級社会であることだ。
経済構造の変遷による貧富の差の拡大というよりは、既得権により富を独占する前時代的、貴族的な上流階級が存在し、その一方で現代的な、もはや近隣諸国からを越えた大量の移民が流入し、社会の下層を形成して行く。
第一部『イージーマネー』を読んだ人なら、ジェットセット・カールという人物を覚えているだろう。ストックホルムの夜の顔であり、上流階級のパーティーの中心人物。JWがまず近付きたいと憧れたこの人物は、第二部、第三部でも登場し続ける。数多く登場する登場人物たちが次々と倒れ、生き残りにあがく中、この人物だけはその立場を一切揺るがされることさえなく、無傷のまま残る。
そしてそんなカールのポジションに近付きたいと切に願うJW。上流社会へのドラッグ供給で足掛かりをつかみ、更にそこから得た資金で自身の財テクを振り出しに資金洗浄のシステムを創り上げる。高税率で知られるスウェーデンでは、資金洗浄の需要がアンダーグラウンドマネーに限られず、資産家や大企業も彼の顧客となってくる。第三部では、JWがHägerströmの紹介で、彼の兄が主催する上流階級の娯楽である鹿撃ちに参加させてもらうというエピソードがある。この時点ではJWの視点のストーリーではないので彼の胸の内を知ることはできないが、少なくともHägerströmの目で見る限りでは、第一部の時と同様にそういう場にいられることを心より喜んでいるJWの姿が描かれている。
ラドヴァンの娘Natalieは、カールのパーティーに出向けば、上流階級の子女と同等に遇される。しかし、その地位は犯罪によって贖われたものであること、そして移民の子である自分がその場に上るには犯罪・非合法な利益以外の手段はないことを彼女は常に意識せずにはいられない。
そして、その地位には決して届くことの叶わない移民のホルヘやMahmud。福祉国家として名高いスウェーデンでは、彼らのための教育・就業プログラムが用意されているが、それらはその当事者たちにより、常に出口のない行き止まりとして思い起こされるばかりである。そしてそこからの手っ取り早い出口として犯罪に道を求めても、そこにも当然のようにヒエラルキーが存在し、彼らは底辺に追いやられるのだ。
第二部においては、それらの間に位置するネイティブのスウェーデン人が主人公として描かれる。中流に属するThomasの生活は比較的安定しているように思われるが、ひとつのきっかけでその実際には脆かった基盤が崩れ始める様子は、日本における「普通」と同様のものなのかもしれない。第三部では端役として登場場面も少なくなるThomasの生活がどう変わったのかは作中からうかがい知ることはできないが、以前と同じものでなくなっていることは確かだろう。
そしてストックホルムの下層スウェーデン人であるNiklas。ストックホルムの住宅事情はかなり悪いようで、アパートを借りるためには物件を探す以前にその権利を得るために長い順番待ちをしなければならないということらしい。序盤、母親のアパートから出て一人暮らしを始めようとするNiklasは、それを避けるためまた貸しを商売としている人物から部屋を借り受ける。その辺については描かれていないだけかもしれないが、一応行政の保護のある移民Mahmudよりもその境遇は厳しいところもあるように思われる。

このように社会の断層図からそこに現れた様々な階層の人物を主人公、登場人物として引き出し、それらの間に複雑な相関図を描くことによりスウェーデン社会の地下の実相を立体的・重層的なパノラマとして描き出して見せたのがこのストックホルム三部作である。
現在はキャッシュレス化が進んでいるというスウェーデンだが、2008~2011年に出版されたこの作品の時点では、第三部のCTI襲撃以前にも、第一部にも登場し、第二部ではそれの強奪後に持ち逃げした犯人をMahmudが捜していた航空貨物による現金輸送など、やや現金の流通が過剰に見える国内事情には税金逃れの目的もあったのではないかと推測される。また、三部作の後半ではJWが資金洗浄に使っていた国外の銀行が国の間での協定により次々と使えなくなって行く状況も描かれている。だが、いかに経済システムをその防止に対応させても、高額税率からの脱税や、闇資金による資金洗浄の需要は止まず、様々に手段を変えながら、スウェーデン社会の上層とJWのような人物を結び付けて行くのだろう。
第二部では、スウェーデン現代史の中でも最重要に属するのであろうオロフ・パルメ暗殺事件が登場する。まあとかく日本じゃこういうところばかりを重視する層が存在するんで念のため言っとくが、これはオロフ・パルメ暗殺事件の真相を暴く!とかいう類いのものではない。スウェーデンの書店事情は知らないんだが、仮に日本と同じような本屋があったらコーナーができるぐらい出版されているであろう「真相本」の列に、この独自のテーマを打ち立てている作品が並ぶ必要などそもそもないだろう。ラピドゥスはこのスウェーデン人なら誰でも知っている重要事件を、スウェーデン社会の深部にTVのCMで見たことがあるカビのアレのように広がる悪の根を垣間見させるために持ってきたのだ。ストックホルムの老朽アパートの共同地下室で発見された明らかに麻薬中毒の痕跡もある身元不明の男の殺人事件の捜査が、警察上層部からの介入により報告書が書き換えられ、現場に最初に到着し報告書を書いたパトロール警官Thomasはまず単純にどこかの部署での取り違えかと考え調査を始めるが、その入り口時点で明白な上司からの妨害に遭遇し、反発を覚えているぐらいのところで罠にかけられ、左遷され排除されることとなる。清廉潔白とは言い難いレベルの警官であるThomasが、義憤というよりは個人的な怨恨で調査を進めて行くうちに、その身元不明の被害者が様々な闇商売とつながっていることが見えてきて、そしてかの重要事件との関係が明らかになってくる。だがここでは物語をうまく纏めて単純な読者に単純な満足感を与えるような敵も「巨悪」も登場しない。結局はこれにゃいろんな人が関係しとるんだし世の中複雑なんやしもう済んだことなんだから今更騒いで面倒起こさんでもいいだろが、中にはその後ずいぶん国民の助けになるようなことをした人も居るのにそういう人に今更不名誉与えて国政がむちゃくちゃになったりするの責任とれるん?後はもう放っといてやるからお前ひとり泣いてくれや、というそこら中で見られるアレコレと同じような形で曖昧に雲散霧消されて行くだけだ。そしてそれもこのストックホルム暗黒世界のパノラマの一部として組み込まれて行く。なーんかこれ日本に翻訳されてたら「肝心のオロフ・パルメ暗殺事件の真相が書かれていない」ぐらいのこと言ってふんぞり返るアホがそこら中で発生してそうだな。かつてどこぞのクソ座談会でパコ・イグナシオ・タイボⅡの名作『三つの迷宮』に満場一致で擦り付けられてたクソ評あたりを見れば、読書のプロなんてのもそんなもんじゃないの?あ~こんな素晴らしい作品こんな国に翻訳されなくてよかったですわ~。
そしてそのオロフ・パルメ暗殺事件の背景に見えるのはロシアの影。第三部のユーゴ・ギャングの跡目抗争にはロシアの利権も絡み、終盤に行われるNatalie-Stefanovic両派の話し合いの席にはロシアン・マフィアも立ち会うこととなる。そのように社会の様々な部分で、最終的にはロシアの影響・圧力という壁にぶつかるのがスウェーデンという国の姿なのだろう。

数多くのキャラクターを配し、それぞれの視点を通じ多角的・重層的にその地下構造から現代のストックホルム-スウェーデンを描いたストックホルム三部作。これは確実に、エルロイのLA、ペレケーノスのワシントンDC、ピースのヨークシャーといった過去の名作群と肩を並べる、現代ノワール必読作品である!

そして、このストックホルム三部作にはもう一つシリーズを通じて描かれるテーマが存在する。それは、時に先進的・福祉的国家の見本とされるようなスウェーデンという国において、実はそれが下層に行くほど女性の権利が軽視、あるいは無視されているという事実だ。三部作最初の『イージーマネー』は、まずユーゴ・ギャングの売春組織に関わったJWの姉カミーラの殺害に至るプロローグより始まる。それらの女性は売春の他にも上流階級のパーティーのコンパニオンとして供されており、中には人身売買のような形で外国より連れてこられた者もいる。第二部ではMahmudがそんな女性たちが半ば監禁状態で住まわせられているトレーラーパークの番人をユーゴ・ギャングから強要される。第三部にもNatalieが情報収集のために接触したそれらの組織に属する女性が、口封じのために惨殺されるというエピソードもある。第二部の何の救いももたらせられないまま愛人の暴力・虐待に耐えて暮らすNiklasの母もそういった社会風潮の中の犠牲者のひとりなのだろう。
これらは単に物語を構成されるフィクションの一部としてのエピソードに留まらない、弁護士である作者ラピドゥスの視点であり、問題意識なのではないのだろうか。
そしてその視点から注目すべきキャラクターが、第二部の狂気のヴィジランテNiklasだ。母子家庭で育った彼は、そこに侵入してきた母親の愛人の虐待・暴力から深いトラウマを受け、それに打ち勝つため傭兵として中東で闘い、任期を終えて帰国する。目的もなく故郷に帰り、日々を送りながらもそのトラウマから逃れられないNiklasは、次第に女性虐待者への狂ったヴィジランテ行為へと駆り立てられて行く。前述の人物相関図ではほとんど他とつながることのないイレギュラー的キャラクター。超個人的な感想として、コイツはストックホルム三部作の山中正治という思い入れを持っておる。作中、Niklasは映画『タクシー・ドライバー』を自室で繰り返し観る。狂気のヴィジランテの先駆者へのNiklas自身の憧憬を越えて、作者ラピドゥスがそこへの到達を目指している印象も与えられる場面だ。
全ての作品において、日本の安直な私小説至上主義を無視しても、作中の登場人物・主人公は何らかの形で作者の分身である。このストックホルム三部作に於いて、そういう意味でも最も重要な人物はシリーズ全体の主人公ともいえるJWである。だがこのNiklasも、そのJWと双璧をなす、あるいはポジとネガのような関係のキャラクターとして、ここで取り上げられた女性虐待テーマと共に、今後のイェンス・ラピドゥス作品を見る重要な鍵であることは間違いないだろう。あー、またしても念のために言っとくが、かのアンドリュー・バクスの作品が初期から比べてボルテージが若干下がって行ったからと言って、彼の人生を賭けた児童虐待への闘いまで揶揄するような下衆でチープなミステリ評論を真に受けてるような人いないよねえ。アンドリュー・バクスというのは正義の男だ!そしてハードボイルドは正義の男を絶対に否定しない!そして、このイェンス・ラピドゥスが正義の男ならば、ハードボイルドは彼を絶対に支持するのだ!

ストックホルム三部作以後のイェンス・ラピドゥスについては、第二部について書いた時とさほど変わっていないのですが、その後の著作としては、まず三部作第二部と三部の間に原作者としてグラフィックノベルを1作。こちらも結構気になるのですが、現在は絶版で入手困難の模様。そして前回に書いたように犯罪小説が3作。で、これが英語のウィキペディアでは新シリーズと書かれているのだけど、米Vintage Crime/Black Lizardでは1作抜けて2、3作が英訳されているという状態で正体不明だったのですが、その後に見つけた北欧作家の出版エージェント業務を行っているSalomonsson Agencyのラピドゥスのページを見ると、この3作はそれぞれ単独作品ということらしい。多分これが一番本人に近い信用できるところなのだろうと思うのだけど。それにしてもここに掲載されているカバーを見ても共通したデザイン・コンセプトでいかにもシリーズっぽいのだけどね。そしてその後に出ているのはThe Dillsta Gangシリーズという子供向けミステリーらしい。現在まで2作発行されていて、カバーもいかにも子供向け。これらが英語圏とかに翻訳される予定があるのかは不明。
まあそもそもがダイレクトでは読めないスウェーデン作品で、英語圏を経由した情報でいまいち曖昧だったり、また今後の作品も英訳されるのかは不明だったりというイェンス・ラピドゥスなのだが、少なくとも自分に読める状態になっている作品があれば必ず読んでおきたい作家であることははっきりしておる。とりあえずはなるべく早い機会に英訳されているその後の作品に取り組み、曖昧になってるところもいくらかでも補完できるとよいな、と思っております。

■イェンス・ラピドゥス著作リスト

●長編
○ストックホルム三部作

  • Snabba cash (2006) 英題:"Easy Money" 『イージーマネー』
  • Aldrig fucka upp (2008) 英題:"Never Fuck Up"/ "Never Screw Up"
  • Livet deluxe (2011) 英題:"Life Deluxe"

  • VIP-rummet (2014)
  • STHLM Delete (2015) 英題:"Stockholm delete"
  • Topp dogg (2017) 英題:"Top dog"
●短編集
  • Mamma försökte (2012)
●グラフィック・ノベル
  • Gängkrig 145 (2009)
●児童書
○The Dillsta Gangシリーズ

  • Dillstaligan: Konstkuppen (2020)
  • Dillstaligan: Juvelkuppen (2020)


あー、クソ腹が立つ。書かなきゃならんこと、読まねばならん本も山ほどあるのに、こんなもんに時間使ったってドブに捨てるだけなのはわかっとるが、やるっつっちまったし、誰もやんなきゃこんなクソがまかり通るばかりだからだ。もちろんマッキンティ先輩作の本体ではなく、下巻巻末に擦り付けられた読書のプロ、杉江松恋のハナクソについてだ!もー何だか内容に腹が立つのとまたぞろ時間をドブに捨てさせられることへの腹立ちが入り混じってぐぎゃーごぎゅぶぴーとか意味不明の奇声を上げてぶん投げたい気分だが、ここは少し落ち着いてご立腹ポイントを整理しながらとっとととことん罵ろう。
まず、マッキンティが書きすぎ、筆が走りすぎというのは何なのかね。こんな書き方じゃあサッパリわからんよ。どこを読んでそう思ったのか具体的に書くこと。例えばさ、キミが中高生だったりして、宿題の読書感想文に「この作家は書きすぎ、筆が走りすぎだと思った。」とか書いたら、まあきちんと生徒を指導する気のある先生だったら赤線引っ張ってどこを読んでそう思ったのか具体的に書くこと、とか言うよね。そういうこと。あーん?なんかおなじみの下卑たなあなあ半笑いで、これとそういうのは違うよ、とか言ってる?そう、そこがポイントだ。これはお前らみたいなクソ評論家先生のみが使用する極めて曖昧ながらなんとなくもっともらしくエラソーに聞こえる尊大なクソ評論用語っていうことだ。だが、こんな曖昧な言い草は何を言ってるんだかさっぱり伝わらない。これが昔から使われているもんだろうが、アンタの仲間内じゃあいつも使ってなあなあヘラヘラしてようが、アンタらの御託を有難くうかがうヌケ作どもが分かったような顔して感心してようが全く何のことを言ってるのかわからない。いつもながら傲慢な品評ばかりで本の売れ行きを下げるばかりなのに尊大さが鼻につく読書のプロ先生だが、さすがにその欠点反省したか、最初は神妙に自分の好みだが、などと書いているが、その舌の根も乾かんうちに欠点呼ばわりだ。何?世界各国に作品が翻訳されてる大作家が、日本の出版業界寄生虫先生のお好みに合わなかったと反省しとるというのかい?まあ少し話を通じやすくするために、こんなクソ評論用語も一瞬だけわかってやったことにして言えば、書きすぎ、筆が走りすぎなんて感想は常に100%人それぞれ個人の好みだ。例えばさ、アンタが食品会社の営業職だったとして、いっつも商品を納入しているお店のカリスマ店長が、アンタの会社のイチオシ新製品に「私の好みとしては甘すぎる。」とかいうポップ貼り付けたらどうする?しかもその店長お宅の会社のそのブランドの欠点とまで言い出したぜ?当然抗議して引っ込めてもらうわな。だがこの本はそんな迷惑ポップを、再版されれば永久についてくるような商品の一部として販売しとるわけだ。早川書房さん、この本売る気あんの?前の人間読書災害肉体LOVE♡北上次郎のケースといいさ。こんなのどうでもいいんで先生のお好きなように書いちゃってください、とか言ってんじゃねーだろうなあ?
そして駄文のスペースを埋めるのはおなじみの読書知識をひけらかす過去の作品との参照比較だ。こういうのが劣化野良レビューの温床で、その成れの果てが毎度おなじみ○○の一つ覚え「マーク・グリーニーと比べれば」みたいのなんだよ、ってことも腹立たしいんだが、それより問題なのは、こいつらがこの論法でやってるのは、結局のところどんな作品でも自分の論じやすい同じようなミステリの型に当てはめてるってところだ。新しい製品を売り出すための定法はそれがいかに新しいか、今までのものと違うかを宣伝し、訴えることだ。だが、こいつらのやってることときたら共通部分のある過去の作品を並べ立て、新しい作品を見たことあるようなミステリの型にはめ込み、同じような品評を繰り返すばかり。結果、市場にはさして目新しいものはなく同じようなものばかりが出ている印象が広がる。そんな市場が右肩下がりになり続けるのは当然だわな。こんな本の売れ行きを落とすばかりの「ミステリエッセイ」や「冒険小説放談」はハードボイルド/ノワールにゃ一切不要だ。なんか「ミステリファン」がこういう簡単に真似できる野良レビューや属してるミステリサークルででかい面をするための見本がぜひ必要だ!というんならそっちで勝手にやってジャンルを食いつぶしてくれや。だが、こんな害虫がまたノコノコ現れて貴重な作品の売り下げに貢献し始めるようなら、重箱の隅突っついて片っ端から揚げ足取って徹底的にこき下ろしてやるかんなっ!こんなんでもどっかで同業から「松恋の解説が面白かった!!!」みたいな身内ホメが上がってんじゃねーの?かのトム・ボウマン『ドライボーンズ』でもあとでそんなの見っけて脱力したわ。出版業界寄生虫同士の互助精神にゃあホントにうんざりさせられるねえ。
そんで最悪なのが最後のいいネタ見っけた感満載で書いてるアレ。マッキンティ先輩が労働の対価に合わん!としばらく作家を廃業しとった話な。テメどんだけ古い話得意げに語ってんだよ。大方ウィキペディアででも見つけてきたってとこか?こういう話を聞いたら、本の解説なんぞに書く前に今どうなってんのかきちんと確かめんのが道理じゃねーのか?どんだけいい加減な仕事してんだ?今どきの作家なんてのは大抵SNSで自分の情報を発信してるから、そういうので出版社とか通さなくても本当の近況なんてのはちゃんと調べられんだよ。先輩の場合はツィッター。ワシみたいに先輩のツイートをほぼ毎日チェックしとるストーカーじゃなくても、これがどこかの運転手さんの情報か、作家の情報かなんてすぐにわかるわ。先輩が「ここだけの話だけど実はダフィの新作もう書いてんだよね。」と教えてくれて世界中のファンが狂喜したなんてのはこの本が日本で出るよりはるか前。最近の情報ではそのダフィの新作がホントは年内に出るはずだったんだが、コロナの影響で来年に延びちゃったなあ、ってとこだ。本が出版されてしばらく時間も過ぎれば、まあそんな時期も実際にあったんだからってことでその辺も誤差ってことで曖昧にされちまうだろうから、今のうちにはっきりさせて糾弾しとく。コイツはこの本が日本で出版された時点ではとっくに過去の話になっている、場合によっては作者の不利益(※例:この作家はもう作品を発表する意思がないから翻訳もされる必要がない)になりかねない情報を、きちんと確認もせず当の作家の作品の解説のような重要なところに書いておる!こんなことは絶対に許されるべきではない!激しく抗議するぞ!しかし、このネットが普及した現在だから、怪しげなデタラメ情報も個人で正しく確認できるが、それ以前ではこんな連中からこんな得意顔で話にもならんデタラメ情報がずいぶん垂れ流されていたんじゃねーの?と気付くとほんと恐ろしくなるわ。
ぐぎゃーごぎゅぶぴー!あーもう限界じゃ。こんな不毛な行為に限りある時間を浪費してしまった。書いてりゃいくらでも腹の立つことは出てくるが、これ以上はやっとれん!誰か代わりに「このミステリ評論家がクソい!」とかやってくれよ。ワシが言いたいポイントはただ一つじゃ。これ以上美しい本にわざわざハナクソを付けて出版するのは止めてくれ!頼む!
なあ、いいだろう?
この締め、カッコいいの?

もういい加減長くなりすぎてるし、次も早くやんなきゃなんないし、余力もないんだが、最後にお口直しに楽しいお話を少々。こちら前にちょと書いたPaperback Warriorさんのサイトからの大変ありがたい情報。こちらの作者ジミー・サングスターって憶えてる人いるかな?80年代だったかその辺に、私立探偵ジェームズ・リード・シリーズの2作目、『脅迫』が角川文庫で翻訳されとる。なんか角川の海外文庫の背表紙が、担当者がその日の朝のTVで見た占いの今日のラッキーカラーとかで適当に決めちゃいましたーみたいな統一感のないパステルカラーのだった時期のやつ。創元文庫みたいな分類マークとかも付いてて、角川書店が我々も東京創元社のような出版社になりたい!と切望していた時期であることがうかがわれるね。なんか古本屋の棚の隅で、えー?これホントに角川文庫の仲間なの?ホントなんだよ信じてくれよ~、みたいな微妙な存在感を放つやつら。えーい、お前時間なかったんじゃないのかよ?早く話を進めろよ!読んだのずいぶん前で内容はほぼ憶えとらんけど、なかなか良作でこのシリーズもっと出してくれればいいのになあ、と思ってた記憶はある。つってもワシも最初はほぼ忘れてて、なんかこの名前見たことある気がするけど…、ぐらいで検索してみたら同名の映画の脚本家の人が出てきて、えー?この人やったかなあ?と一致するまでしばしかかった体たらくなのだけどね。日本で出たのがその一冊だけなので、80年代ぐらいの作家なのかと思っていたんだが、今回Paperback Warriorさんで教えてもらって結構60年代ぐらいから活動している作家だと初めて知った。で、これが1971年の作品。こいつを復刻してくれたのは、かのゴールドコンビによるBrash Books!昨年のラルフ・デニスと言い、ほんとエエ仕事してくれるよなあ。あ、ちなみにサングスターのジェームズ・リードもBrashより復刻されております。ああ、読むもんは尽きんよねえ。Brash Booksのことを知らなかった人はただちにホームページへ行って、出版リストを見てホクホクしよう。で、内容の方なんだが、Paperback Warriorさんとこの記事をちらっと見て、ぬおっ!これは絶対に読む!と思ったので全く調べておりません。アマゾンの商品ページに行くと『博士の異常な愛情』とか『M*A*S*H』とか『キャッチ22』とかがコピーで引き合いに出されてるよ。もうワシ的には決まり。Paperback Warriorさんの評価も「an absolute must read」だ。こりゃもう必読やろ!あ~Paperback Warriorさん方面でももっと語りたいこともあったんだけど、余力なし…。くだらねえ読書のプロなんぞの話よりよっぽどこっちに時間使うべきだと常々思う。ごめんなあ。

さ、最後の力を振り絞ってこれだけは伝えねばならん!戸梶圭太、遂に復活!!!いや、ワシちょっと情報ちゃんとチェックしてなかったんで今更かもしれんけど、戸梶圭太の新作が遂に登場!出版社を通さずダイレクトでKindleに降臨じゃ!いやホントみんなもうそんなの知ってるよ、と言うならごめん。なんか物によっては別のところで無料で読める時期もあったらしいし…。だが、戸梶氏の新作がダイレクトで出版され、出版社のバックもなけりゃ広告できるところも限られているだろうという状況ならば、余計なお世話だろうが遅ればせだろうが、微力ながら当ブログでも全面的にプッシュし、バックアップする!今回より下のアマゾンのリストには「戸梶圭太最新作!KIndleにて絶賛発売中!」がもれなく追加される!うわー、勝手に広告バナー作ってあっちこっちに張り付けてやろうかしらん。なんかいい宣伝コピーとかないかな?あっ「この本が売れなかったらブログやめます!」とか斬新じゃない?もちろん何冊売れなかったらとか書くつもりもないし、やめる気さらさらねーけどな!現在のところは、大問題作であることが察せられる『コロナ日本の内戦』やあいつは戦争帰りシリーズ第3弾『空からの死、地からの命 あいつは戦争がえり3』など6冊!戸梶氏のパワーなら更なる新刊もすぐに登場するであろう。全作戸梶画伯の挿絵入り!皆の衆、一人10冊買え!あ、電子書籍では無理か…。とにかく誰が何と言おうと私はこのブログで全面的に戸梶作品をプッシュする。誰が何と言おうとだ!あ、でも当の戸梶先生にウザいからやめろ!と言われたら…、えー、そんなきついこと言わなくてもいいじゃん。ファンなんだよう。
なんかさあ、今思いついたんでついでに書くけど、もう時代は電子書籍なんやし、あんな「解説」とかゲームのダウンロードコンテンツみたいに別売りにすればいいじゃん。やっぱ紙の本が主体というんだったら巻末にQRコード付けるとかさあ。別にこっちは人の悪口とか罵倒が目的でやってるんじゃないのに、こんなの抱き合わせで売るから読んじゃって腹立って余計な時間使っちゃうんじゃん。そういう仕様だったら絶対買わないからワシ世界に平和が保たれるよ。アマゾンにそれ単体のページができれば、肉体LOVE♡北上とかにも作品と切り離してダイレクトで文句言いたい放題になる公開の場もできるじゃん。いいことずくめだよ。各出版社の皆さんは真剣にご検討を。もうやってるとこもあんのかな?

いやはや大変でございました。やっぱ日本で翻訳出てない作品を、あらすじの解説をした上でまとめ的な感想も書くなんていうのは、かなり大層な作業になっちまいます。この長さだよ。今回は、そりゃあ時間が取れなかったり疲れて書けなかったりした日もあったが、基本的にはどっかでへこたれることもなくかなり必死に頑張ってこのくらい掛かっちまいました。やっぱ先にコミックの方やっといてよかったな。かくして現代ノワールの最重要作の一つである、ストックホルム三部作についてはお伝えできたんですが、実は、この作品はその映画版についても語ってこそ完全版となるのだ。というわけで、次回ストックホルム三部作映画版についてにご期待を。あ~、時間の無駄なんでなるべくホントにうんざりする映画言いたがりへの罵倒は控えるようにしようっと。


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■Stockholm Noir Trilogy
●Vintage Crime/Black Lizard版

●Pan Books/Macmillan版

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●Vintage Crime/Black Lizard版

●Corvus版

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