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2019年12月31日火曜日

ゾンビ・コミック特集 番外編 第2回 最近の日本のマンガのホラー・ジャンル作品について [前編]

長々とモタモタとやってきましたゾンビ・コミック特集も今回でやっと最終回となります。番外編からは枠をホラー・ジャンル全般に広げた第2回は、日本の最近の進行中のホラー・マンガの中からいくつかピックアップした個人的注目作品について、前後編2回にわたり語ってみようと思います。いや、ぶっちゃけて言うと長くなりすぎたんでしょうがなく2回に分けました。なし崩しです。まあ少しでも読みやすいように、アップロード順逆にして前編の下に後編がつながるようにしましたから。長くて大変だけど付き合ってくれよな?
色々と海外のコミックについては語ってきたので、そろそろ一回ぐらいは日本のマンガについても書いてみようかと。日本のマンガについても語るべきことは多いしね。ということで、また延々と長くなっちまうので、とっとと始めるであります。
しかし…、今回のサブタイトルかなりダサいな…。まあ、これまでの流れからするとこうなっちゃうのだけど…。


■DEAD Tube ~デッドチューブ~:山口ミコト/北河トウタ

デッドチューブ。それは運営組織も不明な謎の暗黒動画サイト。
そこでは視聴数を稼ぐためなら、どんな行為も許される。
暴力、レイプ、果ては殺人まで…。
定められた期間の最大視聴数を稼いだ者は高額な賞金を手にする。
そして、最下位となった者はすべての罪と、負債を負わされる…。

通っている高校では映研に属し、カメラマンを担当する主人公町谷智浩は、スクールカースト最下層のオタクの自分には縁があるとも思っていなかった、校内トップクラスの美少女、真城舞から奇妙な頼みごとをされる。
「これから2日間、何があっても私を撮影し続けて。」
言われるままにカメラを回し、舞を撮影し続ける町谷。
そして、その最後に、彼はレンズ越しに驚愕の光景を目撃する!

デッドチューブ。そこから町谷はその闇へと巻き込まれて行き、それは同時に彼の内側に潜んでいた暗黒を目覚めさせ始める…。

この現代社会にそんなものが存在し得るはずがない。どんな大きな権力が背後に存在しようが、高校生が携帯で簡単にアクセスでき、犯罪行為を行うような動画をアップロードし続けていれば、重大な社会問題となり、存続を許されるはずがない。この設定には全くリアリティが感じられない。

えーっと、話終わった?んじゃとっとと帰れよ、まったく。なんだか自分の知る限りの「現実」との近似度合いがフィクションの価値基準だと思い込んでる阿呆の多さにゃホントウンザリするよねえ。まあその手のフィクションと現実の区別のつかない連中についてはこの間のハードボイルド/ノワール・ベストのところで散々罵倒したんで今更繰り返さんがね。
だからどうした?そんなことはこの作者チームだって充分承知の上で、それを「現実」に存在せしめるための構築は物語上最低限必要なくらいしかやってない。何故か?例えばだ、これがそういった青少年を犯罪へと導き社会を混乱崩壊に陥れるようなものを陰で操っている巨悪と戦う、みたいなストーリーならば、きちんとした存在感を示すためにそこのところは詰めていかなければならないだろう。だが、これは明らかにそういった方向の話ではないのだ。ではこの物語のデッドチューブとは何なのか?それは暴力、セックス無制限の暗黒ストーリーを産み出すためのギミックなのだ。んーまあ、ギミックとまで言うのはちょっと言いすぎかと思うし、作者チームの中にはもしかしたらその背後に潜む陰謀なりなんなりの構想はあるのかもしれない。だが、この作品がまずその設定である種のリミッターを振り切った恐ろしい世界を見せる、というところから始まっているという考えはそれほど見当違いではないと思っている。
更に考えれば、実はこのデッドチューブという設定、読者がもう少し受け入れやすくなる方法がある。それはちょっとだかかなり先だかの未来の、モラルが荒廃した世界での話にすること。未来がこんな風になるはずがないと言い続ける救いがたい石頭もまだ残るだろうが、これなら自分の周囲の現実との違和感にこだわる人も激減するだろう。だが、なんとなく思い浮かぶだろうそういう設定で描かれた『デッドチューブ』という物語と、この『デッドチューブ』を見比べるぐらいの想像力があれば、これを無理矢理に現代世界に存在させていることの重要性が少しは見えてくるんじゃないのかい?そうやって距離と虚構性を増すことで、風刺などに変換されてしまうものと、極めて近い時空間で衝動的な暴力と悪徳が繰り返されて行くのでは、同じように起こりえない架空の同じストーリーを描いたとしても全く見え方が違うものになってしまうだろう。

原作者=ストーリー担当の山口ミコトは、漫画家としてデビューし、漫画家として複数巻に渡る作品を現在まで2作発表しつつ、ネーム原作者として『ガン×クローバー』、『トモダチゲーム』などの代表作を持つ作家である。そこまでは、かなりディープでヤバい『最底辺の男 -Scumbag Loser-』も含め、ある種のボーダーラインに限りなく近づきつつもそこを越えることのなかった山口が、秋田書店 チャンピオンRED連載のこの作品でそのラインを突破して見せる。実際、そのラインを越えるということは掲載媒体その他が許せばそれほど難しいことではないかもしれない。だが、それを越えたところで本当にそこを越えた意味のある作品を描ける作家は希少であり、山口ミコトはそれが可能な作家である。そういう作家のそういう作品が出てきたならば、マンガ読みであればそれを見逃す手はないだろう?

と、この辺まで書いたところでなんか繰り返すのも面倒になっちまったアレで倒れ、1月半ほど中断してしまっていたわけ…。倒れて中断する前の9月下旬頃、このペースだとこれを全部書き終わる前に10月の中頃新刊13巻が発売され、どうも話の流れからここらで大きな展開があって、全面的に書き直さなきゃならないぐらいのことになるんじゃないかと危惧していたのだが、まあ実際にかなり大きな展開があったわけである。やっぱこれは終わりに向かう展開なのかな?この何か蛇が自らを尻尾から呑み込んで行くように、物語がそれ自身を喰い尽してゼロに戻ろうとするような嫌な感じは『最底辺の男 -Scumbag Loser-』とテイストが似ているように思う。山口ミコト作品で完結しているのはオリジナル『死神様に最期のお願いを』(本年作画古代甲によるリメイク作が連載開始)と『ガン×クローバー』、『真夜中のX儀典』の3作だが、『死神~』はストーリー未完のまま終了、『ガンクロ』はまだ序盤しか読んでなくて、『真夜中の~』は未読という私的に材料不足状態でなんとも言えないが、もしかするとこれが山口のスタイルのひとつなのかも。だが山口ミコトは常に仕掛けてくる作家だ。例えばまだ新キャラクターが特別な動きを見せていないことや、一方でまだ進行中の事態の半ばのこのタイミングでこの一つの「結論」を持ってきた意味や、それがまた単行本の末尾という区切りに配置された仕掛けなどを考えると、これが結末へと向かう流れだとしてもまだ大きな波乱を仕掛けていることはまず間違いないだろう。なんか新刊の作者コメントを見ると、やっぱこの作品色々と風当たりが強いのか、それともその傾向を危惧しているのかという感じが窺われたりするのだが、逆風に負けずこの物語を全うしてもらいたいものだと願うばかりである。
もう一昔前ぐらいになるのだけど、過去のちょっとヤバめの「名作」マンガを発掘するブームみたいなのがあったが、また近い将来にそういうものが勃興した時に真っ先に選ばれるのがこの『DEAD Tube ~デッドチューブ~』かもしれない。だがその時点ですでに完結し、過去のものとなったこの作品を読むことは、少し前に書いた設定を未来に置いた安全圏にある作品を読むこととある意味同じことではないだろうか。この『DEAD Tube』はまだ進行中の今、読むべき作品である。かなりの危険作品ゆえ、手放しでおススメと言いにくいところもあるのだが、その気のある人は自己責任で、是非この現代最凶の問題作に出会うべし!う~、『DEAD Tube』だけでずいぶん長くなっちまったな。今回かなり書くこと多いのに…。

■たとえ灰になっても:鬼八頭かかし

今年2月、突然の鬼八頭かかし氏の死去の報せは、日本のマンガ読者、特に私同様この物語の続きを心待ちにしていた者にはあまりにも大きな衝撃と悲痛だった。結果この作品は、おそらくはその物語のほんの序盤を過ぎたところで中断を余儀なくされた。当初からこの作品についても書くことは予定していたのだが、この事態から一旦は外すことも考えた。しかし、やはりこれは語るべき価値のある作品であり、未消化な感じになってしまっても自分の考えを書くべきだと思い、当初の予定通りのところでこの作品についてできる限り書いてみようと思う。また繰り返すと思うが、この作品の中断、この才能の喪失は本当に残念でならない。

キミに吉報だ。近々”ゲェム”が催される。公の世界のものではない”ゲェム”だ。そこで勝利すれば望む金はいくらでも手に入る。
キミは自らが望むモノのために、命を懸ける事は出来るかい?

難病の妹の治療には10億の金が必要だと告げられ、途方に暮れる高校生四宮良真は、見舞いからの帰り黒装束の看護婦から奇妙な話を投げかけられる。
「妹のためなら命を懸けられる。」
そう答えた良真は看護婦から謎の黒いチケットを手渡される。しかしその直後、病院から出たところで暴走してきたトラックにはねられ、良真は絶命する。

そして良真は見覚えのない建物の中で目覚める。起き上がり、傍らの鏡を見ると、そこに映っていたのは見たこともない少女の姿だった?
邪教の教会の回廊のようなその場所には、同じ装いの少女が4人。いずれも謎の女から同様の”ゲェム”の誘いを受け、チケットを手にした後、事故に遭い死亡していた。
そこに彼女らにチケットを手渡した女が現れる。背には大きな白い翼を拡げて。彼女は”天使”クロエルと名乗る。

さあ”ゲェム”を始めようじゃないか!

今流行り、というのは少し過ぎてしまったか?のデスゲームものの常道として物語は始まる。”ゲェム”の内容は省略するが、勝者は大金を手にして元の世界に生き返れるが、敗者は残虐な罰ゲームの後、真の死を迎えるというもの。そして、この”ゲェム”にはもう一つルールがある。
良真同様他の参加者たちも生前とは全く違う少女の姿に変えられており、その素性はおろか性別さえ分からない。だがその本当の名前が口にされた時、彼女らの身体は崩れ、事故で死亡した時の凄惨な姿に戻り、真の死を迎えるのだ。そして物語が進むにつれ、実は彼女たちはひとつの市の中から選ばれた、それぞれに面識もあるのかもしれない関係であることが明らかになってくる。

というストーリーなのだが、結構設定が複雑で、うーん、この説明で伝わっただろうか…。まず直面しているデスゲームでの駆け引き、そして生命線である互いの正体の探り合い、更にその断片からこの市に隠された謎と闇が徐々に浮かび上がってくるという重層的な構造の素晴らしいストーリーだ。

鬼八頭かかしは、この作品以前は『魔法の呪文を唱えたら』『ぱんつぁープリンセス』などの主にギャグマンガに属する作品を描いてきた作家である。この『たとえ灰になっても』が文句なく面白い作品であることも、鬼八頭かかしが優れた作家であることにも、何の問題もなく確信があるが、実はそれをうまく表現するポイントがなかなか見つけられなかった。ヒントになるのは、実は予選だった最初のゲェムの「山田くん」や本選第1ゲェムの「亡々死くん」ではないかという思いはあったのだが。この二人はいわゆるモブキャラで、誰が見ても最後まで勝ち残ることはないだろうと思われる人物である。だが、双方のゲェムの最も重要な部分は、実はこれらのキャラクターの視点で語られる。普通はそんなことをすれば物語のリズムや緊張感を崩してしまう危険性もあるものだが、この作品ではこれらのキャラが場合によっては他の重要キャラ以上に物語を引っ張って行くのだ。ギャグマンガ出身の作家ゆえにギャグテイストを含んだモブキャラの扱いが上手かった、と技術的なことでまとめるのは簡単だが、ここにはそれ以上の何かがある。そして、ここである大変重要な事実に気付く。我々は幾らでも知っているだろう、ギャグマンガ出身、または並行して描き続けた偉大なマンガの先人を!ここでは永井豪と鳥山明の二人の名前を挙げれば十分だろう。この作品と彼らのスタイルを並べてみると、時折挟まれるギャグテイストだけにとどまらない共通の何かが見える気がするのだがね。そしてそれは日本のマンガで彼らが読者を引き付け、そして常に物語の続きを見たいと渇望させてきた、何かベーシックな部類に属するような力ではないのだろうか。鬼八頭かかしはまだ発展途上のこれから化ける作家であり、いずれはその真の力を見せてくれたはずと、私は信じる。本当に惜しい才能を無くした。残念でならない。

鬼八頭かかし先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。先生の作品がこれからも一人でも多くの読者に楽しまれますように。

■虐殺ハッピーエンド:宮月新/向浦宏和

終わっちまった…。現在進行中のマンガ作品について語りたいと意図で考えていたものだが、諸般の事情や主に私自身の怠慢ゆえにこの始末である。トホホ…。白泉社のマンガアプリ、マンガParkにてオリジナル作品として週刊連載されてきた『虐殺ハッピーエンド』だったが、この秋11月末に最終回が掲載され完結した。まあまだ終わったばかりやし、1か月ぐらいルールで(今考案)現行作品ってことでいいよな。うん!

酒浸りの暴力的な父。母はとうに家庭を見捨て、逃げ出している。そんな貧困家庭で必死にバイトで家計を支える高校生草壁真琴。妹詩織の笑顔を支えに。だが、そんな彼の唯一の希望である妹は、今難病の病床にあった。移植手術のドナーが見つからなければ余命は2か月…。
一所懸命に生きていれば神様はきっと救ってくれる。
だが、彼のそんな願いをも踏みにじるように、必死に貯めた妹の入院費で飲んだくれ、暴力をふるう父。絶望の底、逃げるようにやってきた神社の境内で、彼は叫ぶ。

もうたくさんだ!未来に絶望しか待っていないなら、僕と詩織に明日なんか来なければいい!

その絶望の叫びは、あまりにも歪な形で叶えられる…。

その夜、真琴の許に病院から連絡が来る。移植のドナーが見つかった!あと1か月待てば妹は助かる!思いがけず訪れた希望に生気を取り戻す真琴。
しかし、その翌日。真琴は周囲に違和感を覚える。何故か周りの皆が聞き覚えのある話をしている?昨日と同じ…?配達するはずの新聞を見ると、昨日の日付?
まさか…昨日と同じ日を繰り返している?
アルバイトが終わり、病院に駆けつけると、昨日電話してきたはずの看護師はドナーなどまだ見つかっていない、と言う。そういえば電話があったのは昨日である今日の夜だった…。
時間がループしてしまっていることを確信した真琴。だがどうすることもできない。そして翌日。また同じ一日が始まる…。
欠かせない日課として妹の入院する病院へ行く真琴。妹は容態が悪化し、面会謝絶だと告げられる。
夜中の12時を過ぎた途端級に容態が悪化した。
ふと看護師がもらした一言に衝撃を受ける真琴。そして気付く…。

僕と詩織に明日なんか来なければいい!

その絶望の叫びが現実となってしまった!自分と妹だけが同じ一日をループし続けている。1か月待てば移植手術を受けて命が助かる妹。だが、その1か月後は決して来ない…?!
絶望のどん底に落とされた真琴の足は、あの神社へ向かう。あの願いだとも思わず発した叫びを何とか取り消せないか…。そこで真琴は思いがけず、年長のバイトの同僚と出会う。遊ぶ金をせびり、真の懐から妹の入院費を奪い取る同僚。絶望から沸き起こる狂気じみた怒りに駆られ、真琴は同僚の頭に重い石塊を振り下ろす…。

殺してしまった…。だけど心配することはない…。どうせ明日になれば元通りにリセットされるんだから…。自室で震えながら夜明けを待つ真琴。だが、その翌日は来ることがないと思っていた「明日」7月11日だった…。
そして真琴は、いつの間にかポケットに入っていた奇妙な神社のおみくじの文言から、真相を知る。

人を殺すことで明日への扉が開く…?

妹の手術は1か月後だ。僕は妹を無事に1か月後へ連れて行かなければならない…。
1日一人殺して。

結構長くなっちまったが、なんとも見事な設定。うまく伝わらなかったなら今すぐマンガParkに行って読んでみるべし!そしてここで敢えて宣言しよう。
この作品は、謎の呪いを軸に話が展開するオカルト・ホラージャンルの作品であると同時に、近年日本で描かれた中でも有数のノワール・コミックである!
以前から散々言ってきていることだが、日本ではろくすっぽ新しいものも出されないまま、ノワール原理主義者みたいな連中に定義ばかり振り回されているうちにノワールそのものの認識がずれて誤解されたものになってきてしまっている。スタイリッシュっぽいサイコ・サスペンスみたいなのがノワールと称されていたり、かと思えばなんか冷酷無情な犯罪者がこうなってしまったのは幼少時のこんな経験があったから、とか言われても食った肉まんの隠し味のレシピを教えてもらったぐらいの感慨もねえよとか。ジャンルの間口は常に広くあるべき、が私の意見だが、こんな2次創作レベルが本筋と思われかねないような状況はさすがに我慢ならん。
ノワールがスタイリッシュである必要はなく、感情のない、もしくは感情移入できな冷笑を浮かべた殺人者である必要もなく、ましてや気色悪いだけの美意識による妄言なんてのはあってもなくてもどうでもいい。
そして、この物語の主人公草壁真琴は、追い込まれた地獄の中で、スタイリッシュで無感情な都合のいい法で裁けぬ悪だけを裁く闇の狩人なんぞになったりしない。殺さなければならない。その思いに、狂気に取りつかれ、自分が殺しても良いと決めつけたチープな悪党や迷惑人間を全力で血みどろになりながら絶叫し虐殺し続ける。妹の明日。それのみにすがり、狂気の淵で熱病に侵されたような目で薄汚れ疲れ果ててさ迷い続ける。暴力では何も解決できない世界で、暴力以外の手段を持たない悲劇。これはトンプスン、エルロイから、Anthony Neil Smith『Yellow Medicine』まで一貫して描かれているノワールの一つの原点でもあるテーマである。
私は小説の方じゃ本を褒めてばかりいるので、ホメホメおじさん(©読書のプロ)じゃないかと思ってる人もいるかもしれんが、単純に数多あって語り切れないほどの語るべき本について書いているだけで、語る意味もないような本について書くことなど時間の無駄だからである。実際には私個人のノワール基準はムチャクチャ厳しい。そしてその基準をもってもう一度言う。
この『虐殺ハッピーエンド』は、近年日本で描かれた中でも有数の優れたノワール・コミックである!

と力説したところで、あ、これ人によっては誤解を招くな、と気付いたんでちょっと付け足しとく。私は何も一作品一ジャンル的な狭~い考えに基づいて、この作品はホラーではなくノワールだ、みたいなことを言ってるわけではない。「オカルト・ホラージャンルの作品であると同時に」最初にそう言ったよな。私は世にはびこる、誤解に思い込みを重ね熱海に向かっているはずが日光を通り過ぎてるぐらいに見当違いの勘違いだらけの日本のノワール観に、何とか一石を投じたいと願い、ノワールっつうのはそーゆーんじゃなくてこういうやつなんだぜ、と主張しているだけなのである。これが優れたホラージャンルの作品であることには全く異論はない。宮月-向浦両作家の資質からか若干ホラー感が薄いかもしれんが、宮月作品で続いているのでこれもあるかもしれない映像化ということになれば、かなりガチなホラー作品になることは想像に難くないだろう。

原作者=ストーリー担当の宮月新は、漫画家としてデビューした後、ネーム原作者に転身。原作作品は『不能犯』『シグナル100』などでまだそれほど数はないが、いずれも映像化されている。この作品でのストーリーの進め方も非常に巧みで、ひとつの大きな流れをそらすことなく、おそらくはアドリブ的なエピソードも枝葉として膨らませながら、常に次へと読者を引き付けて行く。こーいうのって例えばTVの連続サスペンスドラマみたいなところで活かされるような技能なんだろうな、とか思うけど、今どきの日本のTV辺りじゃそれを使えるキャパもないんだろうね。その辺が映像化を引き付けるところなのかもしれないけど。『不能犯』もそっちはそっちで好きなのだけど、宮月新の才能資質は短編連作よりも、連続した長編ストーリーの方が活かされるんじゃないかなと思う。
ちょっと今回書くこと多すぎて、あまり作画の方に言及する余裕が無くて申し訳ないところなのだが、やはりここで特筆しておきたいのは、この作品の向浦宏和の作画の素晴らしさ。真琴少年の今にも世界に押しつぶされそうなギリギリの存在感を本当に見事に描き出している。以前の作品を見てみると割とコメディ寄りで、どっちかというとそちらをやりたいのかな?これ良かったんでまたこんなのも頑張ってください。

と、やっと3作やってきたところなんだが、もういい加減長くなっちまってるので、続きは後編へ。→


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■内藤死屍累々滅殺デスロード:宇津江広祐

前編の3作を並べて、しばらくの間こんな感じでやろうかな、みたいなことを考えてたのだけど、そんなうちにまた見つけちまったのがサンデーうぇぶり連載中のこの作品。まあ当然見つかるわな。いつだって新しい才能は現れるのだ。

その事態の中心にいたのは一人の男。名古屋在住の医療保険のコールセンターに勤めるごく普通の会社員、内藤徹夫。日常に様々なストレスを抱える彼は、ある日コンビニ店員の雑な客対応にそれが頂点に達する。彼の姿は異様に変形し、突き出された触手がコンビニ店員の頭蓋を貫く。そしてそれはそのままコンビニの外へと広がって行く。膨張・分裂・変形を重ねながら「内藤」は名古屋を覆いつくし、死の街へと変えて行く。

時を同じくし、東京で暮らす高校生村越奨は、ろくに口もきいたことのなかったクラスメイト久路剣介とともに超能力を得る。名古屋で勃発した事態に、久路は自分たちはこのために超能力者になったと興奮するが、村越は懐疑的だ。
そんな中、報道された名古屋の街のモンスターの姿を見て、これは内藤だと確信した昔の友人が、内藤が学生時代に書いた映画用のシナリオをネットにアップする。「死屍累々滅殺デスロード」と題されたそのシナリオのストーリーは、名古屋で起こっている事態と酷似するものだった。そしてモンスターと闘う5人の超能力者。その二人の能力は明らかに村越と久路と同じものだった。

彼らは内藤の意志により、そのシナリオから造られたのか?そして、内藤は彼らの世界の「神」なのか?

さてどうしたものか。なんだかこの作品について語ろうとすると、どうもうっかり重大なネタバレに踏み込みそうな気がする。あらすじもなんかここまで書いていいかなあ、とちょっと考えながらだったり。まあ現在まだ単行本3巻で物語も結構序盤な感じもあるからなのだけど。
とりあえず、この作品は結構メタフィクションというような言われ方をしているんだが、自分的には主に意識とか認識の問題をテーマにするメタSFというような分類の方がいいように思えるのだけど。別に細かい形式的なことにこだわってるわけじゃないんだけど、この辺のニュアンスの違い分かるよね?
作者宇津江広祐については、まだ新しい作家なのであまり情報なし。この作品の前にゲッサンで短期連載があったそうなのだがそちらは未見です。人物の表情をギリギリぐらいまで抑えたタッチと、時に横書きでコマと同等の存在感にまで至るモノローグの組み合わせが独特の没入感を持った読ませ方を導き出す、パッと見の印象ぐらいでは侮れない実力を持った作家です。表面で繰り広げられるパニックホラー定石通りの内藤モンスターとのバトルの裏側で、ひたすらキャラクターたちの内面へと沈んで行くストーリー。高校生が主人公の話だが、ラノベというよりは初期筒井康隆ジュブナイル、時かけ・七瀬あたりを思わせるテイストもあり。いやー、何とかここでやっと現在進行中!これから!の注目作品について書けた感じでやんす。

そもそもゾンビ・コミック特集で始まったもんでもあり、ここで国内のゾンビ作品について少々。近年最注目は佐伊村司『異骸-THE PLAY DEAD/ALIVE-』だが、ちょっと前に終わっちゃったんで、また次の機会に。あったらだけど…。佐伊村新作はゾンビ物ではないようだが、日本のマンガのホラー・ジャンルでは今後も常にチェックしておきたい作家であることは間違いない。その他忘れてるのとか色々ありそうだが、ここでは現在注目の2作家がゾンビ・ジャンルに参戦というところを。
■ゾン100~ゾンビになるまでにしたい100のこと~:麻生羽呂/高田康太郎

経歴とかを見ると結構異色作家という感じの麻生羽呂なんだが、2010年からの『今際の国のアリス』のヒットの後、スピンオフ作品『今際の路のアリス』ではネーム原作に転身、どちらも熱い物語を見せてくれて、まあ私的には麻生羽呂にハズレ無しぐらいの印象の勢いを持って、再び原作担当で『ハレルヤオーバードライブ!』(スマン、未読…)の高田康太郎とのコンビで始まったのがこの作品。『内藤死屍累々~』と同じくサンデーうぇぶり連載中。
ブラック企業で精神的にゾンビ状態まで追い詰められていた主人公が、ゾンビ発生による社会崩壊で生気と人生を取り戻す、という従来のゾンビ物からすると逆転の発想ぐらいの感じで始まるストーリー。麻生羽呂の前2作から見ると、日常からの解放に始まり、主人公がより困難でヘビーな状況に追い込まれ、そこを乗り越えることで成長して行くというのがパターンだが、今作はどうなるのか?まあ最近のSAでの展開あたりで文句言ってた読者はこの辺で置いて行っていいんじゃないのかね。
■キングダムオブザZ:はらわたさいぞう/綿貫ろん

バトル物であったり、特にギャンブル物なんかで一番盛り上がる読みどころと言えば、お互いの思惑=戦略の読み合いみたいなところじゃないだろうか。その<戦略/読み合い>に特化したようなのが、はらわたさいぞうのスタイルなんだと思う。かの『ワンパンマン』『モブサイコ100』のONEと同様に、ウェブコミックとしてやってた『出会って5秒でバトル』がみやこかしわ作画でリメイクされるという形で世に出る。(ウェブコミックとして発表していたところまでで原作からは降板。現在のクレジットは原案。)続くヤングガンガン連載中の『導国の魔術師』(作画:鈴木匡)は、王道ファンタジーにいかにもはらわたさいぞうらしいひねりを加えた作品。そしてそれに続くのが、アダルト作品で人気の綿貫ろんとのコンビによるこの作品。コミックデイズ連載中で、最近はマガポケでも掲載が始まったけど、これって講談社的には昇格なんかな?
ゾンビ発生から5日、校内に隠れながらほぼ生存をあきらめていた高校生佐藤は、絶体絶命のピンチを美少女二人組に救われる。ゾンビで崩壊した社会に自分たちの王国を築く、と豪語する彼女らに徴用された佐藤だったが…?見た目はエロ巨乳ミニスカ、頭脳は諸葛亮な美少女JKが、今後どんな戦略とサービスシーンを見せてくれるのか、期待の高まる一作。なんだかうっかり「カリスマ編集者」とかいうのにひっかかると、「大人」が安心して褒められる無人島で拾っても読まないジャンルとかに曲げられそうなスキル持ちのはらわたさいぞうだが、このままJKのパンツとゾンビというような正しい方向に突き進んで欲しいと願うものであるよね。

さて、「最近の日本のマンガのホラー・ジャンル作品」という括りで色々な作品について語ってきたわけなんだが、まああらかたの人が気付いてるところだろうが、どれも別に読んだら夜一人でトイレに行けなけなくなる!とか言うような怖いもんではない。なんかその辺の言い訳に最後に日本のマンガのホラー・ジャンル概観みたいなのを書いてみようかと思ったんだけど、ちょっとまだ先に書くことあるし、面倒なんでやめちゃいました。とりあえずは特集とか言ってゾンビ・コミックについて書いてきた流れで日本のマンガについても書いてみようかな、と思って最近読んだので面白かったやつの中からホラー括りのできるやつ並べただけというところでやんす。怖くないからホラーじゃないぷんぷん、という人にはごめんねー。
で、その概観みたいなのを考えてるときにちょっと思ったこと。最近の日本のマンガである意味伝統的な流れの王道とか思うやつというと、ひよどり祥子『死人の声をきくがよい』や中山昌亮『後遺症ラジオ』あたりが思い浮かんだのだけど、このあたりって日本の本格ホラーの優れた作品であることは間違いないけど、海外でのホラーってジャンル分けからするとやっぱり異色作ということになると思う。まあ水木しげる、楳図かずを、日野日出志から、犬木加奈子、御茶漬海苔、伊藤潤二まで連なる日本の恐怖漫画は歴史的にも質・量的にもホラーの中で独立した一ジャンルを誇れるものだろうけど。一方で日本のマンガでは、一般的にはホラーに分類されてない作品でもかなり多くホラー的表現が取り入れられていたり。『嘘喰い』とか『賭ケグルイ』みたいなギャンブル物は表面的には相当ホラー的だったり、『テラフォーマーズ』は、うーん、ホラーSF的な仕分けしてるとこもあんのかな?そんな風に一方では王道が異色で、また一方ではホラー的表現が広く拡散している日本のマンガで、海外のコミックを語ってきた流れでホラーというと、いまいちどこに焦点を当てるべきか迷ったりすることになるんじゃないかな、と思うのだ。という言い訳でした。


というところで、ホラーマンガについては終わりなんだが、ここで今回のもうひとつの裏テーマ的なことをもう少し語ってみたいと思うのであります。で、その前に話のフリとしてこの作品について少し。

■アラクニド:村田真哉/いふじシンセン

両親を亡くし粗暴な叔父の家で暮らし、学校ではおとなしいが何かに気を取られやすく空気を読めない性格ゆえに苛めに遭い、内でも外でも虐げられた苦しい生活を送る少女藤井アリス。謎の”組織”の手により叔父が殺害され、自らの生命も奪われそうになった時、それまで自身の欠陥だと思っていた資質がアリスを救う。
先天性集中力過剰。
その資質を見込まれたアリスは、殺し屋”蜘蛛”から殺しのテクニックを強制的に習得させられる。

ある人物を殺すために…。

別れの時、師となった蜘蛛はアリスに告げる。

何者にも名前を奪われるな。

その名を奪われ一匹の蟲=殺し屋になることを拒んだアリスと、”組織”との果てしない闘いが幕を開く!

しばらく日本のマンガから離れていたもんで、昨年になってようやくこの作品を読んで、ああこんな面白いの読み逃してたんかい、と大いに喜んだものだよ。こちらは2009年~2016年に「ガンガンJOKER」に連載された作品で全14巻で完結。
組織の殺し屋たちはそれぞれ蟲の名前を持ち、そのスキルによって仕事を行う。蟲と蟲との戦いになると戦闘で使われている蟲の能力とかの解説がズバッと入る感じが格好いい。『テラフォーマーズ』でもやってるのとおんなじ感じね。ちなみに言っとくけど作品発表時期ではこちらが先。似てるの見つけたらすぐにパクリーとか鬼の首取ったように騒ぐのって、もはや中高生レベルのがやってることなんだろうけどさ。実在する知られざる蟲の意外な能力が追い詰められた劣勢のバトルを逆転勝利に導く。魅力あるキャラクター群による奇想天外なバトル。時にダークな領域まで広がるストーリー。果たしてアリスは学園全体を巻き込む”蜘蛛狩り”を生き残れるのか?
村田真哉は漫画家としてデビューした後にネーム原作者に転身。漫画家としての単行本は無いが、原作作の単行本巻末あとがきなどでよく画は見られる。こういう感じの線は割と好きだけどね。代表作はこの『アラクニド』シリーズの他に、月刊「ヒーローズ」で、TVアニメ化もされた『キリングバイツ』(作画:隅田かずあさ)と、『ヒメノスピア』(作画:柳井伸彦)の2本を連載中。時にかの圧倒的マンガ演出力を持つ柴田ヨクサルにも迫るかというポテンシャルのネームを描ける実力派作家である。先に『アラクニド』シリーズと書いたが、本編であるこの『アラクニド』の他にも、決して後退しない蟲、芋虫を主人公としたスピンオフ作『キャタピラー』(作画:匣咲いすか→速水時貞)と、舞台を戦国時代に移した前史ともいえる、蟲の忍者による闘いを描いた『蝶撫の忍』(作画:速水時貞)がある。そして更に、遂に待望の『アラクニド』の正当な続編が1月下旬発売の「ガンガンJOKER」誌より連載開始!作画はシリーズから引き続き速水時貞!そしてタイトルは『BLATTODEA(仮)』!?え?まさかのゴキちゃん主人公昇格ですのー?楽しみナリ~♪

で、『アラクニド』を引っ張り出してきて何の話がしたいかというと、ネーム原作というやつについてである。それ及び関連作品を読んでいるうちにあることに気付き、そこからネーム原作というものについて考えるようになったというのが発端なので。
『アラクニド』を大変楽しく読んだ私は、当然それを横に拡げて他の村田真哉作品にも手を出して行く。そして確か『キリングバイツ』を読んでいた時に、ちょっとした既視感を覚える。同じ原作者の作品ゆえやはり非常に大雑把に分類すれば、可能であれば似た傾向の作画担当が起用されるものかもしれない。だが私はちょっと似たような画を安直に見間違えるほど惰弱なマンガ読みではない!そして改めてじっくり見てみて気付く。ああそうか、これは村田真哉自身のマンガが透けて見えているのだ、と。

一体何を言いたいんだかよくわからないかもしれないが、順を追って説明していきますんで。まずネームというのが何かを蛇足とは思いつつ説明すると、マンガの、映画で言うところの絵コンテに相当するもの。マンガと同様にコマを割り、簡単に人物や吹き出しの配置、情景の説明などを描いた漫画の設計図のようなものである。ネームというのは日本独自の呼称だが、同様のものは海外のコミックでも大抵は作られているようである。一番の使用目的は自身の作品の設計図だが、編集者や原作者との打ち合わせにも必要になる。映画の絵コンテとの大きな違いは、映画のものがこれから撮影するための大まかなイメージであるのに対し、マンガのネームの最終決定稿はほぼそのままの構図や人物配置で実際の作品になるというところ。あそうかアニメにもあるんだよな。アニメの絵コンテの方が実際の完成品との近さという意味では近いのかもしれない。ただ、それら絵コンテとマンガのネームの一番大きな違いは、それら絵コンテが常に一つの画面であるのに対し、マンガのネームはコマの大きさや配置といったマンガ演出の重要要素がそこで決定されるということである。ちょっとくどくどとわかりにくくなっちゃってるかもしんないけど、あとでここ重要になるかんね。PCのスクリーンにマーカーでマークを…、あ、いやそれはやらん方がいい…。
その先のことについて説明するのにわかりやすいかと考え、ちょっとネームを中心としたマンガ制作の作業過程に関する図だか表だかを作ってみました。以下はこれを使って説明して行きます。



念のために言っておくと、「原作」「ネーム」「作画」などの帯の中での幅は、単に不自然でないバランスと見やすさを考えただけのデザインで、実際の制作過程での何らかの時間配分などを示しているものではありません。その辺考えすぎないようにね。

①はストーリー、作画ともに同じ漫画家のものであるオリジナル作品の場合。こちらはネームが作られた後に作画作業に進む。まあ説明の要もないもんだがね。

②は原作者+作画担当、漫画家という場合の例。ちょっとそういう言い方の方が分かりやすいかと思って作画担当というような書き方をしてきたのだけど、ここからは特に必要がある場合を除き漫画家という呼称で進めて行く。まず原作者による文章で書かれた原作があり、漫画家がそれを受け取った後、そこからネームを作り作画作業へと進んで行く。
そこで、先に映画との比較も少し書いたのだが、例えば映画やTVドラマなどを観て、なんだか漠然と極めて曖昧な内容を指す「おはなし」を役者が演技しているというものを観ていると思っている幼稚なお子様レベルでなければ、情景が画面というフォーマットでどう切り取られ、ひとつのカットがどのくらいの長さになり、それらをどうつなげ、何を強調するか、といった映像の上での演出がいかに重要であるかは当然わかっているだろう。そしてそれらを決定するのが監督である。これをマンガの制作過程に置き換えれば、そういったマンガの演出をネーム制作で行う漫画家が映画における監督であり、原作者の文章による原作は、脚本という立場になるのである。

そして③がネーム原作者+漫画家、というケース。と言っても実際にはこのようにネームを原作者がすべて担当し、漫画家がそのままそれに沿って作画を行うというケースは現状まだ極めて稀なのではないかと思う。結局漫画家の手により大幅に描き直されたり、場合によっては②と同じことになっていたり。わかりやすくするためとは言え、この図が結構強引だってことはわかっとるから、とにかく私の話を最後まで聞いておくんなまし。
つまり上で書いた「村田真哉自身のマンガが透けて見えている」というのはこういうことだ。マンガの演出となるネームを村田が作ることにより、村田自身の語り方のリズムや、演出上の好みや癖が、作画担当が代わっても同様に作品上に再現されているということである。例えば少し前には村田作品で多用されていた、複数人が同じ場所にいてその中心で起こった事態や人物の発言に対するそれぞれのキャラクターの反応を小さなコマに並べるというもの。別に村田真哉作品独自の表現ではないが、明らかに彼自身のタイミングや癖というものが見て取れる。もちろん実際の作品にどのくらいまで村田によるネームが直接反映されているのかは不明だが、かなりこの図に近い、つまり共同監督ぐらいのところまでは行ってるんじゃないかと思う。そしてそれだからこそ、かの柴田ヨクサルのマンガ演出と比較するというようなことができるのだよ。

海外のコミックに全く触れたことがない人でも、『ウォッチメン』などで知られるアラン・ムーアという作家の存在は知っているだろう。ムーアはそのアイデアやストーリやその背景となる思想まで含めて突出した作家なのだが、もう一つ彼の作品を圧倒的なものにしているのは、彼自身によるコミックの演出なのだ。ホントずいぶん遅れてやっとだけれど、数年前ぐらいにあの有名な『Swamp Thing』でムーアがそれまでの設定をひっくり返した回を読んで、コイツは本当にスゴイと思った。スワンプシングの真相が非常に理論的に解き明かされて行くモノローグの背景でもう一つの物語が進行して行くその一連のシーンは、なんかもはや盛り上がりに向けて音楽が聞こえてくるような印象も受ける、まあ圧倒的ぐらいにしか表現できないものだった。語彙貧弱ゆえ繰り返しになっちまってすまん。なんかうまく言えてないけど、私にとってはそういう感じで本当にすごいやつからは音楽が聞こえてくるのだ。それはまるで映画みたいとか言うことではなく、マンガ=コミックという形態のまま響きだすのである。そしてその言葉のリズムを基調とした構成は、明らかにそちらを書いた者によるもので、一体どうやっているのかまでの詳細は不明だがアラン・ムーアというやつはコミックの演出部分まで手掛ける「監督」という立場でコミックを作っているのだ、と私に確信させたのである。
ムーアやニール・ゲイマンといった一流のライターは、作品を読ませるのが非常に上手いのだが、それは自身の語りのリズムを持ち、それで作品を読ませてゆくスキルに長けているからである。そしてムーアは特にそのリズムに執着する。以前にもちらっと書いたけど、ムーア作品で多用されるページを9、または6などの均等なコマ=パネルで区切り、時にはカメラを固定した同一の構図が続くという手法は、読者に自分の思い通りのリズムでの読みを強制するためのものである。ページ内でコマを均等に割れば、そこには一定の均等なリズムが生まれる。ムーアはそのリズムの上に物語であるメロディを模せて行くのだ。もしかしたらこれって区切られた五線譜の上に楽曲を作って行くのに似ているのかもね。ただしこれはコミックの文法、リズムというものが把握できている者でなくてはこんなことはできない。ただ延々と会話が続いてしまうからというような理由でこんな表現をやってみても、二流映画のアートシアター気取りの役者丸投げ長回し程度の効果も得られないものだ。しかし、残念ながらこの辺の言葉を中心としたリズムは翻訳となるとどうしても崩れてしまう。例えば小説の翻訳ではそもそも全体を変えてしまうので、語りのリズムの誤差は見えにくい。映画の吹き替えでは時には意味を無視することになってもシーンの流れやタイミングに合わせた形のセリフの翻訳がなされるのだろう。そしてマンガ=コミックでも、もちろん紙であれ他の媒体であれ実際にそのページからは音は出ていなくとも、読んでいる人の頭の中で再生されるという形で、常に画面にシンクロしている音が出ている。だが実際には出ていないその音と画を翻訳でシンクロさせるのは非常に難しく、大抵の翻訳された海外のコミックでは何か画とテキストを別々に読むような読み方をするしかなく、ムーアの演出も本来のままには伝わりにくくなってしまっている。
ここで再び村田真哉作品に戻ろう。今秋全5巻にて完結した『蝶撫の忍』。時代劇調のセリフのやり取りを音や息継ぎ的タイミングで区切り、複数の吹き出しに分けるなどの手法で語りのリズムが作られているのが見て取れる。中でイレギュラー的なキャラクター百地丹波がそのリズムを全く無視した話し方(もちろんキャラクターを際立たせるための意図的な演出だが)で話し始める時、それまでいかに巧みに維持された語りのテンポで読まされていたのかに気付くのだ。ここにおいても、原作者による言葉を中心としたリズムを軸とするマンガの演出の一例が見られる。しかし、マンガに於いてのセリフ、モノローグ、解説文などのテキストは、映画、小説などのそれとは少し意味が違っている。マンガにおいて文字は常に、キャラクターや背景と同等の比重を持った「画」である。その認識でセリフをどこで区切り、どこに配置するかでどのような読ませ方ができるかは、マンガの文法や演出が分かっていなければできるものではない。例えばセリフの長さと物語内質量が、映画なら時間、小説なら具体的なスペースになるので、そちらからの発想で原作を書けば、長いセリフには大きいコマが必要になることは考えられるだろうが、それらとは全く違うマンガならではの発想で、最大になる見開きページで極大文字による短い一言を最大限に強調して見せた柴田ヨクサルのような演出はなかなか出てこないものだろう。

ここで一応言っとくが、私は原作ありであれ、漫画家一人によるオリジナルであれ、これまで日本でアラン・ムーアのものに匹敵するマンガが描かれなかったなどとは全く思っていない。しかしながら、一昔前の小説家を目指していたが挫折してというような経歴の多かった日本のマンガ原作者の中からは、なかなかアラン・ムーアのように監督というべきポジションでマンガ作品を創る作家は出てこないだろうと思っていた。だが、今回の中でも度々登場してきた漫画家として出発した後転身した、マンガの演出力を身に着けたネーム原作者の台頭。これはいつか日本でも「アラン・ムーア」が出てくるんじゃねーの?ってところが私がネーム原作者に期待し、注目しとるところです。

そしてまた、海外の方にも戻るんだが、アメリカではコミック制作でライター+作画という体制が長く続き、日本と比べれば確立されすぎてしまっているがゆえに、ここからネーム原作というものが出るのは、こちらはこちらとして難しいんじゃないかと思っていた。だが奴がいた。ウチの方じゃ割とお馴染みの、アメリカでオリジナル作とライター、作画担当もあり、とマルチな活動を展開中のあのJeff Lemireである。TVシリーズ化も進行中であるライター担当の近年の話題作『Gideon Falls』。常々必読作家だと言いつつも読むのが遅くてなかなか進まず、ある日思い付きでこれどんなのかなあ、とComixologyのプレビューを見てたところ…ん!?作画のAndrea Sorrentinoの緻密な画風はLemireとはかなり違うのだが、その中から浮かび上がってくるあのLemire独特の雰囲気?ただちに1話を読んでみたのだが、それはもう明白にわかるぐらいにLemire独特の構図、間、空気感というものが全くタイプの違うAndrea Sorrentinoの作画で再現されている。とにかくまだ読み始めたばかりなので、全編にわたってなのかどうかは不明なのだけど、明らかにこの第1話はネーム原作的な方法によるLemireのSorrentinoへの作画指示により描かれている。オリジナルとライター両面での創作活動の過程で出てきたのか、結構今どきだと日本での情報が伝わって試してみたというのも十分にありうるわけだし、Lemireがいかにしてこの方法にたどり着いたのかは興味のあるところだ。Lemireがやってるとなると、同様の活動を続ける盟友Matt Kindtは?とか、また一方では『バクマン』とかも英訳されているわけだからそっち経由でその方法を使い始めているのもいるのではとか、『ラディアン』みたいなのも出てきているフランスでは?とか、ネーム原作をめぐる状況ももっと調べて行けばいろいろ興味深いもんが出てきそうですね。ところで結局いまだにほぼ日本未紹介ぐらいのJeff Lemireなんだが、いくらか紹介され始めた途端にあの素晴らしい画が「いわゆるヘタウマ」みたいなチョー雑な分類をされてしまうのではないかと危惧してるんだが、それだけは勘弁してよね。

ずいぶん長くなっちまった今回もそろそろやっとエンディングなのだが、なかなかまた日本のマンガについて書く機会もなさそうなんで、最後に今回のどのジャンルにも属してないけど個人的最注目のこれについてついでに。『堕天作戦』(山本章一)!これは私が何度も書いてきてる英2000AD『Brass Sun』(Ian Edginton/I.N.J. Culbard)やら『The Manhattan Projects』(Jonathan Hickman/ Nick Pitarra)みたいな海外のSFコミック最前線と完全に肩を並べる日本のSFコミック作品である。だから言ったろうが!日本でもムーアに匹敵する作品は描かれていると!ちょっと前まで単行本入手困難だったが、今は増刷で比較的手に入りやすいぞ!とにかくマンガワンでは無料で読めるから今すぐ読めよな!あー、どちらさんも既に読んでますか。ごめん。


というわけで、長々と続いてまいりましたブログ5周年特別企画第3弾 ゾンビコミック特集 (第1弾 21世紀ハードボイルド/ノワールベスト22、第2弾 バカでも効いた!神経ブロック療法で坐骨神経痛から回復中)も今回の番外編第2回を持ちまして完全終了です。いや毎度おなじみ後付け設定ですが、なんか問題でも?常々海外のコミックを日本のマンガと同じ目線で語らねば、というようなことを言っていて、それならば日本のマンガについてもどんな風に見てるのか一度ぐらい書かなきゃダメじゃん、という思いがあり、このゾンビコミック特集の最後にやってみるのもいいんじゃないか、という感じでやってみたのがこれ。まあ考えてからモタモタしててずいぶん時間も経っちゃって、現在進行中のをというコンセプトを始め色々破綻も出てしまったのだが…。で、やっと書き始めたところで例の坐骨神経痛による中断。なんか中断が長引き動けないままでいるうちに、オレが日本のマンガについて書く意味あんのかな、とか考えて一時はやめちまおうかなと思ったり。でも結局のところはどうせ私なんぞがやる意味なんてやらない意味と同じぐらい無いんだから、そんならせっかくやろうと思ったんだからやればいいじゃん、ぐらいのあたりまえのところに気付いて何とか形になったというわけです。まあ体の調子が悪いとマイナス思考に陥りがちでさして意味もないことを真剣に考えすぎちまってよくないよ、ていう一例ですね。
内容に関してはまたここであれこれ言い訳しても大して意味ないところなんだが、どうも今回書くことが多すぎたのと、また一方で後半に書いているようにネーム原作というのに注目しとるところで、あまり作画の方についてコメントできなかったのは作画担当、漫画家の皆さんに本当に申し訳ないと思っているのです。曖昧な「おはなし」ばかりに言及し、作画を蔑ろにするなどというのは私のスタイルではない。海外のコミックであれ、日本のマンガであれ常に作画が作品を成立せしめている最も重要な部分なのだ!今回登場の漫画家もいずれもそれぞれに個性を持った優れたアーティスト達である。もし機会があるようなら次はもうちょっとちゃんと書きますんで、今回はお許しください。
あと、後半ネーム原作の部分については、随分長くなっちまってるから早めにまとめないとなー、みたいな気分があって少し急ぎ足でわかりにくくなってしまったかなあとちょっと心配しております。もう少しわかりやすい例を増やすとか、いつものようにしょーもないギャグや北上次郎の悪口なんかを挟んでいけば、もう少し読みやすくなったかもと反省。
で、話は戻るんだが、これ書くのに意味あんのかなあ、とか考えてしまったもう一つの要因は、私は本当はもっとあんまり他の人が書いてくんない海外のコミックについて書かなければならないんじゃないのかな、ということ。なんだかなかなか書けなくなっているのをこじらせて、結果的には更に更新が遅れるような方向に進んでしまっていたのだが、ここで軌道修正し、コミック、小説両方向で、まあ時間かかってモタモタでも作品ひとつずつを地道に語ってゆこうと思っております。ホント書かなきゃならないもん山ほどあるんだからさ。『Gideon Falls』についてもいつかもっと詳しく書くからさ。
なんだかんだで2019年も最後の最後になってしまい、ここで普通ならよいお年をとか言うところなんだろうけど、結局こんなタイミングじゃ多くの人が見てくれるのは年明けになっちまうだろうから、明けましておめでとう、がいいのかな、などとも思ったり。まあ2020年はもう少し頑張りますですよ、ということで、ではまたね。


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