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2023年10月28日土曜日

Tom Bouman / Fateful Mornings -ワイルドタイムのど田舎の駐在ヘンリー・ファレル・シリーズ第2作!-

今回はトム・ボウマン『Fateful Mornings』。2016年に第1作『ドライ・ボーンズ(Dry Bones In The Valley:2014)』が日本でも翻訳された、カントリー・ノワールの傑作、ペンシルヴェニア州ワイルドタイムのど田舎の駐在ヘンリー・ファレル・シリーズの第2作です。

2016年に翻訳が出た『ドライ・ボーンズ』を読んで、大変感銘を受け、これはどうせ続きは翻訳されないだろうが、絶対次が出たら読まなければ、と思っていたのだが、まあなんだかんだで遅れ続け、やっと読んだというところ。『ドライ・ボーンズ』既に 日本じゃ絶版やろ。
しかし、『ドライ・ボーンズ』もアマゾンで★3つとか、まあ日本じゃ私以外誰も評価しなかったぐらいのレベルなんだろ。わざわざレビューとか見る気さえ起らんが。
カントリー・ノワール!カントリー・ノワールについては、前回のおまけのクリス・オフット『キリング・ヒル』のところで簡単に説明したので、そっち読んでくれと思ったが、コピペすりゃいいことなんで以下にもう一度。あ、そこで次回やりにくいから、 とか言ってたのは、『キリング・ヒル』ちょっとイマイチぐらいの評価せざるを得なかったんで、ここに一緒にすると殊更余計に評価低く見えちゃうかも、という配慮です。ハイ。

カントリー・ノワールの開祖は、1980年代から作品を発表している、映画化された『ウインターズ・ボーン』などでも知られる作家ダニエル・ウッドレル。この人自身の命名によるジャンルなので、この人が開祖。アメリカの田舎地方・自然を舞台とした 犯罪小説ジャンルで、この辺に属する有名どころでは、ジェイムズ・リー・バークや、ジョー・R・ランズデールなど。近年翻訳されたものではトム・ボウマンの『ドライ・ボーンズ』。あとドナルド・レイ・ポロックなんかもそこに分類される こともある。
80年代ぐらいからずっと続くというよりは、近年犯罪ジャンルの中心が地方・ローライフというあたりに広がるにつれ、注目が高まりややブームぐらいの感じになっている。結構バークやランズデールとかは、後付け的に入った感じ。
こういった傾向は、例えばしばらく前のだけどTVシリーズの『ブレイキング・バッド』なんかも、そのしばらく前からアメリカの犯罪小説ジャンルで、田舎町で頭の悪いチンピラとかが適当な覚醒剤を作ってるみたいなのが、お馴染みの風景ぐらいになってきてた ところで、なるほどこう来たかみたいな感じで出てきたもんで、そういった動きの一環とも言える。
カントリー・ノワールというのは、その辺の動きから再発見的につながっていったものなんだろうと思う。地方・ローライフ傾向がさらにディープとなり、救いようのない貧困やら、ヒルビリーの土着の異なったモラルみたいなものも描かれて行くこととなる。
遡ってルーツをたどれば、フォークナーやフラナリー・オコナーとかのサウザン・ゴシックに繋がるもので、日本じゃあまりにも出ないし情報少ないんで、C・J・ボックスとかとすぐ混乱されるんだが、そういった自然・アウトドア方向のものとは 根本的に成り立ちが違う。むしろ『テキサス・チェーンソー』みたいなもんの方が近いとも言える。

ということ。ちょっと今回色々調べてみて、ドナルド・レイ・ポロックが結構その中心ぐらいの評価も見えてきたんだが、クライム系作家サイドからは、当然リスペクトされているが、文学の方の人というような見方も多いようなので、こういう感じに書いた。カントリー・ノワールの現状については、作品紹介の後、少し詳しく。
日本じゃそもそもノワール自体が、バイオレンス要素の強いサイコサスペンスぐらいに著しく誤解されてて、そこにカントリー乗せて余計に敷居が高くなってんのかもしれない。またその元凶をぶっ叩き始めると長くなるんで省略。前置き長くなりすぎんのよろしくないから。まあ、ノワールについてはクライム全般、場合によってはハードボイルド含むぐらいの範囲で考えればいいんよ。実際のところ。
前から言っとるが、私はまずハードボイルドが大枠で、その中のジャンルとしてクライムやらノワールやらがあるという考えが、一番わかりやすく明確だと思っている。
ハードボイルドとは、日本のJミス脳が思い込んでるような、旧来の謎解き小説の探偵にハードボイルド精神みたいなもんを乗っけたものではない。旧来の謎解き小説が、謎解きをメインにトリックやらそのヒントを出す方法やらという方向でプロットが 組み立てられて作られているのに対し、チャンドラー以降では犯罪をテーマにした小説という考え方に変わり、クイズ的な考え方は縮小し、犯罪そのものの意味や、主題に沿った解決結末が重視されるようになり、その結果現在では主人公探偵が 直接事件を解決する必要さえないというところまで至っている。明らかにそういった進化の現在地点にいるのがトム・ボウマン/ヘンリー・ファレルである。
まーた、前置き長くなっちゃってるけど、それではここからハードボイルド/カントリー・ノワール近年の注目シリーズ、ヘンリー・ファレル・シリーズ第2作、『Fateful Mornings』行きますよ。

■Fateful Mornings

物語はまず、ある別荘の空き巣盗難事件から始まる。
ファレルは連絡を受け、現場に到着する。賊が侵入のために割ったと思われる地下室の窓ガラスを見ていると、家主の女性がやってくる。
Rhonda Prosser。ニューヨークに住居があり、こちらは夫婦で持っていた別荘だが、現在は離婚し、彼女のものとなっている。離婚後も生活は主にニューヨークだが、自然環境保護的な姿勢で町の行政運営などに何かと口を出してくる、迷惑厄介なグループの 一員だ。
州警察に連絡したはずだ、という彼女だったが、そこからたらいまわし的に最終的にファレルに連絡が来て、ここにやって来たというわけだ。
前にAndy Swalesの地所での騒ぎに連絡したときには何も対処してくれなかったのに、と苦情を言うRhonda。
Andy Swalesはこの土地の旧家の跡取りで、現在は弁護士をやっている。彼の所有する広大な土地の一部を、Kevin O'Keeffeという男に貸しており、O'Keeffeはそこにトレーラーハウスを置き、Penny Pellingsという女性と一緒に住んでいる。 そこから聞こえてくる音楽がうるさいというのが、Rhondaからの苦情だった。
盗難品は大型テレビ、前夫の所持していた拳銃、酒類や地下室にあった道具など。
これは特定の個人を狙った犯罪ではないだろう。おそらくはドラッグを買う金を作るため、手当たり次第にという空き巣強盗犯罪。犯人が見つかる可能性は低い。

その見込み通り、いくらか捜査をしてみるものの、この件に関してはすぐに暗礁に乗り上げる。
それから、前作の終盤から続く人妻シェリー・ブレイとの不倫にいそいそ出掛け、旦那が帰ってきて裸足で逃げ出したり、自宅の地所に入り込み荒らしまわるボブキャットのアンブッシュ討伐ミッションをこなしたり、というようなファレルさんの 愉快な田舎暮らし日常が描かれた後、今作の本編となる事件へ。

早朝までかかった猫との戦闘から戻ると、親友エド・ブレナンから電話が来る。
フィッツモリスに住むエドのの家に行き、彼に案内されてポーチに行くと、そこには建設業を営む彼の雇用者の一人が椅子に座り込んでいた。
Kevin O'Keeffe。Andy Swalesの地所を借り、Penny Pellingsと一緒に住んでいる青年だ。
「俺は彼女を殺していない」O'Keeffeは言う。

O'Keeffeの話は極めて曖昧で、混乱している。
2日前の夜、酔って帰ったら同居しているPennyの姿がなかった。よくあることだ。そのまま放っておいて、翌日は仕事に行った。だが、それから帰っても彼女は戻っていない。Pennyの車も動かされた様子がない。何度も電話をかけ、思いつくところは探し回ったが、 誰も彼女の姿を見ていない。
誰かを撃ったと思うが、酔っていてはっきりした記憶がない。車もどこに置いてきたのかわからない。
「こんな話をしてるのは時間の無駄なんだ。頼む、Pennyを探してくれ。もしかしたらもう死んでるかもしれない。でも俺が殺したんじゃない。」

Kevin O'KeeffeとPenny Pellingsは、それぞれに問題を抱えたカップルだ。O'Keeffeは飲酒。そしてPennyはドラッグ。
O'Keeffeは生活には問題はあるが、それなりに腕のある大工としてエドに雇われている。
Pennyはあちこちのバーで働くが、すぐに辞めたりクビになったり。ドラッグのせいで帰ってこない夜もある。
二人の間には障害のある子供がいる。だが、CPS(チャイルド・プロテクション・サービス)に親として不適格として取り上げられ、何とか取り戻したいと望むも、生活を改めることができない。

ファレルはひとまずO'Keeffeを、保安官事務所へ連れて行く。
事件性のある事態なのか、逮捕の必要もあるのかも曖昧な状態で、とりあえず保安官事務所に彼を預け、ファレルは事件が起こったのかもしれない現場を見に行く。
O'KeeffeとPennyのトレイラーハウスへ。Pennyの姿はなく、車もそのままだ。一通り見て回るが、何らかの事件が起こったと思われる様子はない。
O'Keeffeが誰かを撃ったかもしれないというペニー・ストリートのアパートへ。ワイルドタイムでも荒廃した地域。だがここで暮らす者は基本的には悪人ではなく、ただ貧しいだけだ。だがそこには誰もいない。急に立ち去ったような様子は見られる。
そこにはドラッグの密売人らしき連中が住んでいた、と管理人の男は言う。
誰がそんな連中に部屋を貸した?家主は誰だ?前は家主がいたが、どこかの会社が買い取った。どういう会社なのかはよくわからないが、みんなそこに家賃を払っている、と男は答える。
前夜何かの騒ぎはあったようだが、銃が撃たれたのかはわからない。怪我人、もしくは死人が出たのかもわからない。

何らかの事件性はあるのかもしれないが、現在のところPennyの失踪以外にははっきりしたものはない。それを自発的な失踪ではなく、何らかの誘拐事件と判断する状況証拠すらない。
ファレルは、Pennyの捜索はするからと説得し、O'Keeffeを住居のトレイラーハウスへ送って行く。
その後、フィッツモリスに住むPennyの親族を訪ね、話を聞くが手がかりになるものは得られない。銃があるのかもしれないO'Keeffeのトラックも見つからない。
しかし、数日後、近隣別管区Tioga Countyの保安官事務所からそこを流れる川から、死体が上がったとの連絡が来る。

O'Keeffeを連れ、そちらに向かったファレル。だが死体はPennyではなかった。
Charles Michael Heffernan。当地で前科も多いドラッグ・ディーラーと目される人物。
銃で撃たれていることから、O'Keeffeが話していた曖昧な発砲の件と関係があるかと考えられ、連れてこられた。だが、O'Keeffeは見覚えはないと答える。
O'Keeffeの銃も、それがあるのかもしれない車も見つかっていない時点では、彼らを単純に結びつけることはできない。

ファレルはO'Keeffeのトレーラーハウスの地主であるAndy Swalesにも話を聞きに行く。
当初は協力的だったSwalesだが、彼自身の私生活に関わる話になってくると不快感を示し、次第に冷淡、敵対的にもなってくる。

エドを通じ、O'KeeffeからPennyの疾走に関係あるかもしれない人物のメモを受け取ったファレルは、それに基づいて捜査を進める。
近郊の都市ビンガムトンにある、治安の悪い地域にあるバー。
そこを探るうちにファレルはある犯罪状況に巻き込まれることになるが、その結果当地の警察とつながりを持つことができる。
Pennyの失踪事件にも親身になってくれるビンガムトン警察の警官だが、何か関連のあることが出てきたら連絡するぐらいが精一杯の対応だ。

だが、そちらからのアイデアで、GPSを使いPennyの携帯の場所を探すことを思いつく。
Pennyの携帯は、彼らのトレーラーハウスからさほど遠くないところで、捨てられたと思しき状況で発見される。
そして、O'KeeffeはPennyの失踪を含む複数の件で、証拠不十分のまま逮捕拘留されることになる。


ヘンリー・ファレル・シリーズ第2作となる今作は、以上のようにすべてが曖昧だ。
同様のことを繰り返している感じになってしまうが、この国のガラパゴスミステリ感覚に対しては、何度でも言っていくしかない。
この作品は根本的にJミスのような、謎が用意され、そのクイズを解くことによって事件が解決されることにより物語が終わる、というような考え方によって書かれていない。
むしろ逆に、いかに事件が解決されないか、ぐらいの発想で書かれているというものかもしれない。
ファレルが暮らすワイルドタイムは、かなり大きくアメリカサイズで見れば、ニューヨーク近郊ぐらいになるのかもしれないが、法の手が届かないというようなものではないが、かなりいい加減にぼやけてなし崩しにフェイドアウトしてしまってるような ど田舎である。
そこを担当する巡査はただ一人。前作で死亡した助手の代わりは補充されていないし、その予定もないようだ。主人公であるその巡査ヘンリー・ファレルは、まあ言ってみれば普通の田舎のおっさんで、卓越した観察力も推理力もなく、とにかく 思いついたこと総当たり式の捜査方法しか持たない。
そもそもが都会から死体を分からないように捨てに来るような辺鄙な田舎で、こんなおっさん一人しかいなきゃ、まあこうなるわなってもんだ。
だがそれはそういった場所での犯罪をリアルやドキュメンタリズムで描くことで、地方の警察力の欠落みたいなわかりやすうーい社会問題テーマでやってるわけでもない。
雄大な大自然を背景にとか、牧歌的な田舎生活みたいなもんも、まあこじつければ何とかなるかもしれんけど、基本的にはそれ目的で書かれているわけではない。
そんなアメリカの果てみたいなど田舎で、まあ人間的には魅力あるけどそれほど切れ者ってわけでもないただ一人の駐在が、曖昧に事件を解決出来たりできなかったりするミステリというのが、このヘンリー・ファレル・シリーズなのである。
なんでそんなもんを書くのか?ミステリは探偵なり警察なりが謎を解いて犯人を当てて事件を解決するものだろう。なんでそういう風に話を作るのかが根本的にわからない、ってえのがJミス感覚だろ。
言っておくがこれは君らが信じる「ミステリ」へのアンチかなんかでこういう手法を使ったわけでもない。根本的にそんなもん眼中にねえんだから。
なんでそういうことになるかといえば、そりゃあこの国でそうやって進化して行くハードボイルドジャンルがまともに読まれることもなく、阿呆らしいクイズ基準で無視され続けてきたからだ。
例えば、かなり古い話だが、パコ・イグナシオ・タイボの名作『三つの迷宮』。作品のテーマから作者が意図的に二つの解決を用意したなんてことはちゃんと読めば明確なんだが、これに対し二つ解決があるのはミステリ失格、あたかも作者が どっちにするか決められず二つとも書いたかのような低レベルのこき下ろしが、ボンクラ座談会でお馴染み下卑た半笑いで垂れ流された。
そして近年では、こっちジャンルへの若い世代の入り口ともなりうる長く読み継がれるべき名作ビル・ビバリーの『東の果て、夜へ』に対しては、自称ミステリ評論家による「純文学ノリといちゃもんをつける」なんぞというイキッた中学生の感想文 レベルの幼稚発言が平然と発せられる。
ケン・ブルーウンすらまともに評価できないこんな愚物どもと、クイズオタクカルトと、視野の狭いJミス感覚により、進化変貌し続けるハードボイルドジャンルの実相が正しく伝えられることが妨げられ続けてきた。あー、本格通俗から 男の生き様マッチョ説教、セニョール・ピンクになり果てた日本のハードボイルド複合誤解もあるか。
そういった愚行の積み重ねにより、ちゃんとわかっていればある種流れの必然として、こいうものが出てくることは明確なんだが、そういうものが全然見えてないJミス感覚では、理由もわかんないまま失敗クイズみたいな扱いをされるわけだ。
結局のところさ、小学生が高校生の問題解けないようなもんなんだよ。そこに至る勉強してないんだもん。いや、勉強とかいう言い方も例えも好きじゃないんだけどさ。
あーまだ途中だし、こんな長々と書きたくなかったんだけど、このくらい言わなきゃこれが何でこういうものなのかわかんない人もいるだろ。言ったってわかんないようなのもいくらでもいるだろうけどさ。最も基本的なことを言えば、そもそも本を読むということは 自分の中にある基準みたいなもんに合わせて評価することではなく、まずあるものをあるままの形で理解しようとする事だなんて当たり前のことなんだがな。
まー自分は謎解きがされるミステリが好きだからとでも何とでも言って無視するのは勝手だが、そうやっているうちにこの国じゃどんどん狭い範囲内にあるような本しか入って来なくなって、規格内の決まった面白さしか得られなくなるからね、ってことは言っとくよ。

ということで、中断ぐらいになってしまったけど、続きです。
第1作では、まあ通常のミステリ的な短期間で、事件が解決したりしなかったりしたのだが、今作はかなりの長期間、始まりから終わりまでで一年以上が経過するというロングスパンのものとなる。Pennyはおそらくは死んでいるのだろうと、誰もが 推測しているが、死体も見つからず、実際のところは事件があったのかどうかすらわからないという状況が続く一方、ビンガムトンの犯罪に関わりがあるのか、ないのかもはっきりせず、しかし、甚だ曖昧ながら確実に何かがあったという状況が 続いて行く。
そしてKevin O'Keeffeは、その中心なのか、あるいは巻き込まれたかもわからない状況に置かれ、救いも得られないまま、世界から見捨てられたように拘留され続ける。
アメリカの果てのような地に住む、底辺の誰からも見捨てられた人々に関わる、誰も真剣に取り組んでくれないような犯罪。
まあもうちょっといいのもいるかもしれんが、とにかく世界にはヘンリー・ファレルのような、そこそこ実直で人情味のある男が必要なのだ。

今作では、前作では親友と紹介されていたがそれほどは出てこなかったエド・ブレナンがかなり多く登場する。O'Keeffeが逮捕されてしまったことで、人手不足となってしまった建築現場をファレルが手伝いに行く。いや、だからこれそういう小説だから。
実際のところ、中盤以降ぐらいからファレルが駐在の仕事が終わった後、ちょくちょくエドの仕事を手伝いに行く話にかなりのページも割かれる。エドは結構芸術家タイプの職人大工で、古い納屋を再現的に建て直すため、使える古くいい材木を探して 解体される古い家屋を渡り歩くようなタイプで、エドの工事が無事に終わるかみたいなのもこの作品の二番目か三番目かぐらいの重要なラインとなってくる。
そして、エドと奥さんのリズとファレルの三人でやってるカントリー・バンドについては、話ぐらいしか出てこなかったと思うが、今作ではちょくちょく練習し、ちょっとしたライブハウス的なバーでの演奏場面も描かれる。
それから、まあもしかしたらそっち気になってる人もいるのかもしれないファレルの人妻シェリー・ブレイとの不倫なんだが、まあネタバレになるんで詳しくは書けんが、まあうまく行かんよね。今作ロングスパンなんで、他の出会いとかもあります。
そして前作からの関係で言うと、前作では事件の中心ぐらいにいたスチュワード一家とその三兄弟が、今作では中盤~後半ぐらいで、非公式にファレルの捜査に協力。縄張りで厄介事は御免なんでスタンスで。ところでスチュワード一家なんだが、 実は原文での綴りはStiobhardで、最初に出てきたときには読めなくて前作の人と気付かなかった。アイルランド系の姓のようだが、日本で言えばむつかしい漢字の名前とかかもね。
あと、うっかり忘れそうになってしまったが、最初の空き巣事件も、後で中心の事件と関わってくるのだが、詳しく書くとネタバレになるので。
その他、今作でもちょくちょく靴脱いで裸足になったり、玄関見えるところでなんとなく一人キャンプ飯など、ファレルさんのゆるい田舎おっさん生活なども満載です。

ここまで書いてきて今更そんな期待をしている人もいないとは思うが、この作品でもなんか凝ったクイズ的謎解きなんてものはなく、いくらか曖昧な部分を残しつつ終わる。
かなり悲壮で暴力的でもある解決部分が、地形的には「崖下」的なところで起こるのも、日本のものとは対極にある「ミステリ」ともいえるかもね。
日本以外の世界のコアなミステリ読者が注目のジャンル、カントリー・ノワールの正統派ヘンリー・ファレル・シリーズ第2作『Fateful Mornings』、いろんな意味で期待通りの素晴らしい作品でしたな。

さて、その後のトム・ボウマン/ヘンリー・ファレル・シリーズだが、2017年のこの作品に続き、2020年に第3作『The Bramble and the Rose』が出版されている。第1作が2014年なので3年おきというペースで、そろそろ次が出るかもしかすると終わりか というとこだろう。3作契約とかでそれまでとかよくあることだからね。何とか続いてほしいと願うものではあるが。
ちょっと気になるのが、第1作約300ページ、第2作約350ページと続いてきたものが、第3作が約200ページと縮小しているところ。この作品に関してはまあぶっちゃけて言っちまえば、事件とあまり関係ない大工パートがやや長すぎるかという部分もあり、 そういうところバッサリ捨てられたとかでは、みたいな心配も起こってくる。そういうのも含めてのこのシリーズの魅力なんだけどねえ。
やっと読めたところで、この先どうなるかわかんない情報しかなく申し訳ないんだが、とりあえずそこで終わりだったとしても第3作も必ず読んでこちらで報告するつもりですので。できればいい加減ジジイになって森でのお昼寝パートが増大するくらいまで 続けてほしいものなのですがね。

■カントリー・ノワールの現状

カントリー・ノワールについて、最初にいくらか説明は試みたが、カントリー・ノワールはこれこれこういうものだ、というようなお勉強型思考に便利な定義なぞするつまりは全くない。そういったどこまで行っても昨今の状況範囲ぐらいのことしかできない 「定義」の有害さは日本のノワール誤解という形でも繰り返し言ってきたことである。ジャンルを理解把握するには、そこに属する作品をなるべく多く読み続け、その変遷を見ていく以外に方法はない。
まあそんなわけで、以前にもリンクぐらいは紹介したはずの、アメリカの大手・有力・有名な?(多分どれか合ってるやろ)読書サイトGoodreadsのカントリー・ノワール人気ランキングを元に昨今の注目作・作家を少々紹介して行きます。

Goodreadsのカントリー・ノワール人気ランキングなのだが、実は2種類ある。Country Noirは、現在331作がリストアップされていて、全て見ることができるが、 Country Noir Booksは517作のうち上位50作のみ見ることができる。多く見られる方がいいだろうというのが普通の考えだが、ちょっとそこが落とし穴。 331作全て見られる方では、上位作品がほとんど翻訳されていない一方で、ある程度下がるとC・J・ボックスやネヴァダ・バーといった、日本でも知られたアウトドア系の名前が出てくる。上位のものがほとんど把握されないまま、そういった知ってる 名前に飛びつくのはジャンル理解の面から見て大変よろしくない。
日本的に知られてる名前から入る、日本人向けに、というのは結局のところ「商売」向けの考え方。その安直な考え方から長く誤解が続き、どうしようもなくなっているものは山ほどある。実際、日本でカントリー・ノワール傾向の作品が 翻訳される機会があっても、本来ダニエル・ウッドレルや、ドナルド・レイ・ポロック、コーマック・マッカーシーあたりから考えるべきところが、安直なC・J・ボックスと比べれば批判をされる傾向にあるわけっしょ。
入門用としては50作の「Country Noir Books」の方をよく見て作品傾向を理解したうえで、「Country Noir」の331作を、こんなのも入ってるんだなあと見るという方が正しい。まあ上位に関してはそれほど違いはないんで、こちらとしては 双方見ながらでピックアップして行く感じになります。あー、あと事前に言っとくと国産作品を無理やりこじつける気は毛頭ありません。常にそういうのがC・J・ボックスと比べれば以上の誤解につながんだよね。

まずリスト全体の概要から行くと、圧倒的に上位を占めるのは開祖であるダニエル・ウッドレルで、そこに並ぶのがまだ作品数は少ないのだがドナルド・レイ・ポロック。そしていつになったら翻訳出るんだいもう出ないんかい?のLarry Brown、 もうちょい若手のFrabk Billあたりが定番として続き、もう少し下にコーマック・マッカーシーが出てくる。あ、これ作品の総合的評価じゃなくて、あくまでカントリー・ノワールというジャンル方向での評価だからね。
以前見た時はジェームズ・リー・バーク、ジョー・R・ランズデールのハプレナ、Anthony Neil Smithの『Yellow Medicine』あたりも入っていたのだが、多くの新しい作品に押され後退して行ってる感じ。まあ新しいジャンルとして注目され始めた 時で、作品数増やすために後付け的に近いのをあれもこれもと入れて行ってた状態だったのだろう。それに代わり新しい作品が多く上位を占めているということは、ジャンルに動きが多く注目も高いということなのだけど。
あとちょっと興味深いのは前回翻訳のについてちょっと書いた『キリング・ヒル』のクリス・オフット。ミック・ハーディンの前に書いた初期作品が高評価。察するにミック・ハーディンで知名度が上がって、旧作が再版され現在高評価という 事なんだろう。なんかこういうの売れないからでミック・ハーディン始めた感じのあるクリス・オフットなんだが。ちなみにハーディン・シリーズはやや下位にランク。
それではここからは、上位傾向にある作品・作家を個別にピックアップして行きます。

まずドナルド・レイ・ポロックについては、とにかく新潮文庫から『悪魔はいつもそこに』翻訳出てんだからそれ読めよということ。まあ新潮文庫はすぐ絶版になり、まず再版されず都市伝説化するので早めに絶対手に入れとくべし。もしかすると 低評価付けてる見る目もないやつが早々に売って古本手に入るかもよ。

そしてダニエル・ウッドレル。カントリー・ノワールと言えばウッドレルで、翻訳2冊出てるんだが、どちらも入手困難。まず圧倒的上位でカントリー・ノワールを代表する作品とも言える『Winter's Bone(邦題:ウィンターズ・ボーン)』(2006)なんだが、翻訳出てるけど 絶版で、買い逃しちゃってずっとチェックしてるんだが古書でも値段下がらず、最近諦めて原書Kindle版買った。500円ぐらいだったしな。改めて言うけど『悪魔はいつもそこに』は絶対買っとけよ。
そして、さらに遡ったデビュー作である『Under the Bright Lights(邦題:白昼の抗争)』(1986)が、谷口ジロー画伯のカバーで出てる。88年の発売だが、文庫なんでまだ手に入りやすそう。そしてこれなのだが、ずっと知らなかったのだけど、実は 三部作の最初の作品らしく、現在は第3作である『Muscle for the Wing』(1988)と第4作『The Ones You Do』(1992)と合わせた『The Bayou Trilogy』として販売されておる。こちらについてはずっと読まなければと思ってきたやつで、いつか必ず読んでやる。

そして続いていつまでたっても日本で出ないLarry Brown。1951年生まれ、2004年没。1980年代後半ぐらいから消防士として働きながら作品を発表。6冊の長編と、短篇集が3冊あり。やっぱアウトロー文学というような分類なんかな?サウザン・ゴシックに 連なる重要な作家。初期からの『Dirty Work』(1988)、『Joe』(1991)、『Father and Son』(1996)あたりが特に評価が高い。ブコウスキーみたいになんかきっかけぽいやつでもあると、次々出たりすんのかね。もう翻訳期待しないで原書読んだ方が いいだろうけどね。

Frank Billに関しては年齢などちょっとよくわからなかったのだけど、ここまでに書いた人たちよりは明らかに若い世代。2011年に短篇集『Crimes in Southern Indiana』でデビュー。2013年には初の長編作品『Donnybrook』を発表。この辺が特に カントリー・ノワール方面で評価が高い。初期の頃はポロックと並べて名前出ることも多かったように思うが、ポロックより更にクライム、ノワール寄りの作家だという印象。その後も2作の長編小説を発表。他にコミック『The Crow: Pestilence』の シナリオもあり。現状翻訳出る可能性まずなさそうやし、ずっと読まなきゃと思ってる作家なんでなるべく早く読むつもり。

あと、気が付かなくてうっかりこの先の未訳の新しい作家セクションに入れちゃいそうになったのが、トム・フランクリン。なんだよ邦訳3冊も出てるじゃん。うち評価高めなのが最初の短篇集『Poachers(邦題:密猟者たち)』(1999)と長編第3作 『Crooked Letter, Crooked Letter(邦題:ねじれた文字、ねじれた路)』(2010)。まあただちに注文しましたんで早めに読もうと思います。それにしても『ねじれた文字、ねじれた路』は時期的に気が付かなかったの多い頃だなと思うけど、もしかしたら 『密猟者たち』持ってて未読のまま忘れてどっかに埋まってるかも…、ま、いいか。

それから、1935年生まれで70年代から2000年代ぐらいの間で多くの著作のある米国サウザン・ゴシックに属する作家Harry Crewsの『A Feast of Snakes』(1976)が、両方のリストで上位に入っている。日本じゃ大昔にエッセイ集が一冊出て絶版ぐらいだが、 結構重要な作家らしい。特にこの一冊が入ってるというのは、トンプスンの『Pop.1280』が一冊入ってるのと同じ現象かもね。これも読んでみたいなあ。

大体これにコーマック・マッカーシーを加えたあたりが、カントリー・ノワールのもっとも代表的な作家。あとコンセプト的にはフォークナーや、フラナリー・オコナーとか。
で、ここからは最近注目の集まっている新しい作家・作品という方に移ります。

まずBrian Panowichの2015年作品『Bull Mountain』。これがデビュー作だが、ジョージア州東部を舞台としたこの作品で一躍注目に。ちょっといまいちわからんのだが、とりあえずこれと続く第2作『Like Lions』(2019)は、Bull Mountainシリーズになって いるらしい。のだが第3作『Hard Cash Valley』(2020)もBull Mountainというところが舞台となってるみたいだし?というところ。スペイン、フランスでも翻訳が出版され、TVシリーズのオファーもあったそう。2024年発売の第4作も既にアナウンスされており、 ここからどんどん勢いづいていきそうな、早めに押さえとくべき作家。

David Joyの『Where All Light Tends to Go』(2015)は、エドガーにもノミネートされた作品。『ウィンターズ・ボーン』+ブレイキング・バッドなんて宣伝文句もあり。1983年生まれでまあまあ若手というところか。現在までに小説は5作で、割とコンスタントに 作品も発表出来てる感じ。その他ノンフィクションの著作もあり。内容までちょっと把握できないんだが、ヨーロッパ作品の翻訳結構多数。『Where All Light Tends to Go』はビリー・ボブ・ソーントンらの主演で映画化進行中らしいので、そっちからの翻訳の可能性 あるかも?ないかも?

ここでまた、翻訳出てたの気付かなかったが出て来ちゃうんだがが、ロン・ラッシュ。『Serena(邦題:セリーナ)』(2008)は、映画化されたんで翻訳出たケースのやつ。あー、これまずワシがスルーしちゃうタイプやな。とりあえず古本見つけたら読んでみっかな。 なんかこれだけ扱い違くない?いや、ちゃんと読むよ。でも読まなきゃなんないものさすがに多くなりすぎて…。1951年生まれで、1998年の短篇集『The Night The New Jesus Fell to Earth and Other Stories from Cliffside, North Carolina』でデビュー。 2002年『One Foot in Eden』からは長編も出版され始め、現在までに8作。詩作も多く、短編小説の評価も高い。

William Gayは新しい作家かと思ってたんだけど、1941年生まれで、2012年には亡くなっていた。1999年長編作『The Long Home』でデビューし、亡くなるまでに短篇集なども含め、7冊の著作を出版。だが死後に見つかった作品が、その後5冊も出版されている。 これも絶対ちゃんと押さえとく必要のある作家だな。必ず読むです。

というあたりがカントリー・ノワールというジャンルの現状です。ここから色々読んで、もっと深く探って行かなければというところ。
最初の方で言ったけど、誤解を広げるだけの国産作品の強引なこじつけはやるつもりもありません。なんだが、前回にやったクリス・オフット『キリング・ヒル』の解説…。いい加減気力尽きてたし、話にもならないんで無視したけど、なーんか カントリー・ノワール横溝正史みたいなデタラメな誤解が広がりかねないレベルのこの国のミステリ言説なんで、やっぱりここはきちんとバカにしとかないと。
そもそも書かれた時代・時代背景が全然違うんで、どういうレベルでもそんな単純な比較できるわけない。もし横溝正史持ち出すんなら、もっと時代の近いサウザンゴシック、フォークナーやフラナリー・オコナーあたりと比較できるんなら比較して、 というような段階踏んでやっと出せるもんだろ。いつまでもお馴染みの知ってる本列挙が通じると思うなよ。こいつらのワンパターンの「○○を連想させる」が、マーク・グリーニーに比べればみたいな底辺レビューの発生の源なんだからさ。 ずいぶん前のヤングアダルト爺もそうだけど、後先考えず適当な思い付き並べてんじゃないよ。子供向けクイズじゃねえんだから、イマドキ見立て殺人なんてある方が異常だわ。異世界転生レベルのファンタジーやろ。話にもならんよ。 こんぐらいでいいだろ、無駄な時間使わすなや!
まあなんだかんだ言っても、どうせ日本じゃカントリー・ノワールなんて定着しないし、新し物好きが飛びついてみても安直な日本的解釈に歪められて行って、誤解に誤解、いい加減なパロディのつもりを重ねて、いつの間にかセニョール・ピンクに なり果てていたみたいなもんが精々なんで、もう入って来ない方がましなんだろうね。下手にカントリー・ノワール=横溝正史みたいな解釈が流通して、まーたJミスクイズ感覚で「ミステリとして」失敗クイズ扱いされたり、「見立て殺人もトリックもない」 なんて見当違いの戯言で批判される惨事が起こるぐらいならない方がましだわ。ん?アンタそんな意味で言ってない?ああ私アタマ悪いんでそう聞こえました。こーゆー風に歪められっからいい加減な思い付き「解説」なんてところで垂れ流すなって話。

「カントリー・ノワール・ブーム」というようなものは、外的、読者サイド的には映画『ウィンター・ボーン』や、ドナルド・レイ・ポロックのような作家の登場により発生したものだろう。だが、作家、創作サイドから見れば、近年のローライフ、地方 というような視点でアメリカ社会を見るというハードボイルド/クライムジャンルの傾向・流れが必然的ぐらいにたどり着いたものとも言える。ジャンルとしてはちょっと別物ではあっても、ウィンズロウのカルテル三部作を含む、メキシコ国境周辺作品の増加や、 更に広く見れば、前回やったエルロイの社会の底辺の毒のような偏見・憎悪が社会全般に影響し動かしていくというような見方もそれらの動きと無縁ではない。
カントリー・ノワールはこのブームによりある程度は定着し、これからもこのジャンルに新しい作家・作品が登場してくるだろう。だが、これはハードボイルド/クライムジャンルの終点というわけではない。あちこちで小規模に同人誌的に出されるアンソロジーなどを 見れば、様々な方向に新しい模索が試行錯誤されている。ウィンズロウの現在進行中の新三部作も、後に振り返ってみれば新しい動きの里程標ぐらいになるのかもしれない。
現在この地点のカントリー・ノワールは、そういう未来を見て行くためにも大変重要なポイントだ。本当はハードボイルドジャンルだけじゃなくて、ミステリ全般という視点においてもなんだけどねえ。まあどうでもいいや。



■神は俺たちの隣に/ウィル・カーバー

直感ナリ!
もう10月ぐらいになってくると、書店に行っても年末クソランキング向けの本が、恥も外聞もなく業界事情内幕はらわたまで晒す感じで並んでるんだが、そんな紅白クイズ合戦に埋もれる感じで新刊に並んでたのがこいつ。こっち向けジャンル関連の、ハードボイルドやらノワールやらの キーワードは一切書いてないが、直感的にこいつは私が読んで面白いやつ!と訴えるものがあり、直ちに購入し、帰って読みかけのやつ一時停止にして、すぐ読み始める。
こうして英国ノワールの挑戦的意欲作と出会うわけである!日本のアマゾンでは現在もはやお約束通りの★2.5の低評価作品だ!何言ってんだか見てないが大笑いだぜ。

まあもしかしたらちょっとわかりにくいのかもしれない、この作品の構造みたいなもんから説明してみよう。あ、やっぱこれある種のネタバレなんでご注意を。
中心となるのは「俺」という語り手。こいつは爆弾の入ったバッグを持ち、いつスイッチを押すかと考えながら、来る日も来る日も環状線の地下鉄に乗り続けている。
そしてこれとは全く無関係に見える、実際無関係な三つのストーリー。こっちの内容についてはとりあえず今はいい。
そして最終的にはこの三つのストーリーの中の人物たちが、この爆弾犯の地下鉄に乗り合わせることになるが?という話。

これは「神」についての話。これについては「俺」の語りの中でもそういった方向が何度も言及されている。あらゆる宗教的な方向ではなく、漠然と創造主的な意味での神。
まずこの作品を批判してるような人も思い浮かべたのかもしれない、上のあらすじから想像されるような一般的な「正しい話」みたいのを考えてみよう。
地下鉄で爆弾テロが今にも行われようとしており、そこに全く背景の違う数人の人物がたまたま乗り合わせる。そこでそれまで全く関係のなかったそれぞれの人たちの地下鉄に乗るまでの経験や、直前までの行動、思考がピタゴラスイッチ的に組み合わさり、 テロが阻止される。
この奇跡はどうして達成されたのか?それは神の采配であり、神の意志!もしかしたら作中でもそんな風に説明されるかもしれない。
でも、その神は何処にいる?それがフィクションである限り、常に「神」=「作者」なのだ。

これはそんな「神」が、存在はしてるけど仕事を放りだしちゃった世界。
そこで、まず「俺」。こういったサスペンス傾向の作品では、犯人の正体を隠す目的で、一人称の語りがよく使われる。その一方で、一人称で語られる作品では語り手=作者という短絡的な読まれ方をすることが多い。そこで本来なら作品傾向的にはそんな読まれ方をされることがまれなタイプのこの一人称に、作者=「神」が混入される。そこで語られるのは、自分の本来の役割と全く無関係に「神」の代弁者の役まで押し付けられた、どうやってもその役に一致しない「俺」の混乱。
そして、そもそも同時多発テロであることが最初から読者に知らされているこの作品中で、この「俺」はなんで何日も今押すかと考えながら爆弾を抱えて地下鉄に乗り続けているのか?
それは他の話が終わらなくて何日もかかっているから。本来ここのつじつまを合わせるべき「神」が、仕事を放棄し、それでも結末地点が決まっているこの世界では、その役割が決まっている「俺」は、あらかじめ決められているその行動を続けるしかない。

そして二つの天使の話。良い天使と悪い天使。
例えば、感動の実話とか、奇跡の実話とかあるだろう。だがその「実話」には必ずその伝え手、執筆者=作者=「神」の手が入っている。
これは単純に嘘の情報が書かれているというようなことではない。中心テーマとなるものが読者にストレートに伝わるような形での強調、理由付け、誤解を招きそうな部分の修正、省略などなどは、こういう作品には付き物だ。
「神」が仕事を放棄してしまったため、そういった加工がなされず、ただあったことがそのまま放り出されたことによる、いまいち感情移入もできないのが良い天使の「感動の実話・奇跡の物語」。
もう一方の悪い天使の物語でも、それをサスペンスホラーとして読ませるような調整がなされず、また善悪の対比、モラル的な安心やカタルシスが得られるような解決もグズグズなまま放り出される。
そして脳の故障によりもう一人の自分と闘争し続けるデイブ。こちらについてはのちほどで。

この三つのストーリーからの人物たちが、もはややっつけぐらいの理由付けで、問題の地下鉄へと集合する。
ちゃんと「神」がコントロールしていれば、絶対に起こらない小便漏らしキャラ被り。
後にこの物語について回想する形で語り手になるのかもしれない「目撃者」はおざなりに確認だけしてとっとと帰る。
そして結末へ向かい、そこに存在する「神」の思考が溢れ出す。多数の「if」。パラレルワールドのこうなったかもしれない彼らの運命。その洪水により、しばらく時間を置けば、それぞれがどうなったか忘れてしまいそうな勢いで 埋め尽くされる。

最後にデイブの話。
ドストエフスキー的自己との対話みたいなのを、錯乱しぶっ壊したようなドタバタも面白いんだが、ここで重要なのは時々出てくるその隣人。
悪意はなく、実際にはいくらかも心配はしている、壁越しの野次馬。こいつは我々「読者」だ。
それはもう最後の数行で明らか。このくらいの興味と関心で本読み終わってる野次馬の皆さんいません?というような作者からの悪意もやや感じられたり。
しかもこの「隣人」、時々デイブ側から、結構バカっぽい日常も暴露されてるぞ。え?そっちから聞こえんの?いやーん、それは勘弁してくださいよ。
作者によるあとがきでは、このデイブの物語を加えることでこの作品は完成したということだ。まあこんな意味でこの作品の原題は『The Daves Next Door』となったわけだね。

書棚がいくら馬鹿げた手を触れる気さえ起らない紅白クイズ合戦になろうと、なんかまぐれ当たり的に出たこういう作品に巡り合えることもあるから、書店に行くのを諦められない。今買うべき作品はこれだぜ。

話は分かったけど、それにどういう意味があるんだ、とかなにがなんでも否定する抵抗を試みてるご意見番気取りもいるのかもしれん。そんなこと言ってっからお勉強要素と教訓要素がなけりゃ本もまともに褒められない「ダメな大人」になっちまうんだよ。
新しい試みはいつだって面白い。そしてこの作品は、作者の意図さえ把握できれば、そういった方向ではあまりブレもなくきっちりできており、大変楽しく読める。
あっ、もしかしたらそれを読み解くクイズがこの作品の趣旨だったか?うーん、そうするといくら何でもネタバレしすぎたか…。ごめんよう。
まあとにかくこれで正しく、遂にノワールの謎解きがナンカを超えた!ってことで。

あと、私がこの本のどこにも書いてないノワールを連発してんのに引っかかってる人いるのかも。いや、あんた曖昧に理解したつもりになってる雰囲気レベルでしかないもんや、ノワール原理主義者どもの言ってたキョーハク観念云々みたいな話にもなんねえ 定義に引っ張られてるだけだよ。
単純に言えば、英国ノワールの鬼才ニコラス・ブリンコウの延長線で考えればいい話。
そして、何より既存の予定調和の物語の破壊というのは、全てのノワール作家に内在する衝動だってこと。
安直に、お勉強感覚で簡単にノワールを理解できると思うのは諦めろ。なんとなくの雰囲気や、過去のもんしか規定できない定義や、うっとおしいサブカル世代の「カメラに向かってオナニーするなんてすごい!」レベルの結局私小説至上主義価値観基準やら。
ノワールを便所の裏の石ひっくり返して出てきたジメジメした暗黒みたいなもんと思い込むのはもう勘弁してくれ。
とか言ってみても、結局この国じゃ日本風に捻じ曲げられた思い込みを重ね続けるうちに、結局ノワール版のセニョール・ピンクか、腐女子向けのかっこつけなんちゃってぐらいになり果てんのがオチだろうけどさ。

作者ウィル・カーヴァーについては、訳者あとがきでいくらか説明もされてるが、こりゃまた何とか読まなければならない作家を追加されたようだ。どうせ、扶桑社は他の作品出してくれないだろうしな。多分この時期紅白クイズ合戦の裏番組として、変わり者しか 読まないだろうけど、って感じで出したんだろうけどな。ほらっ、変わり者大喜びしてるよ!
カーヴァー作品については、2009年から3作プラスが出たInspector January Davidシリーズが最初だが、大手ランダム・ハウスからでなんか高いし、そっちで打ち切られてから5年後インディーで再開したあたりのから読むのがいいかと思ってる。現在4作まで出てる Sergeant Paceシリーズや、単独作品など。なんか今回だけでどんだけ読まなきゃなんない本積み上げてんだか、という話なんだが、こっちのウィル・カーヴァーも新しい英国方面の突破口として注目して行きたいと思いますのだ。


なんか色々書いてたらまた長くなってしまった。あれの関連でこれ、これも面白かったから書いとこうとか、まあいつものように計画的無計画でやって行ったわけですが。なんか自分内でごたごたしてたわけですが、新しい作品を紹介して行くという方で いくらか軌道に乗って来た感もあるんで、もう少しペースを上げなければと思っております。翻訳作品については、新しいので書く意味がありそうなのがあったときに。そもそもそっちの方にあんまり時間使えずたいして読めない現状だしな。わりとこの辺で年内終っちゃって年明けまで沈黙みたいなことも多かったけど、今年はもう少し頑張るので。またです。


※追記
これ書き終わって数日後、今日本屋行って来たら「カントリー・ノワールの現状」のとこで翻訳ないと嘆いていたハリー・クルーズが出てました。『ゴスペルシンガー』。扶桑社紅白クイズ合戦の強力な裏番組第2弾!あれ?アマゾンで見たら明日発売となってるけど、今日11月1日 に買えたぞ?まだ出たばっかなんで、お約束の低評価★2.5ぐらいも付いてないっすね。まあどうせそうなんだろけど。買ったばかりなんでもちろん読んでないけど、これは必ず買いです!次回やろうかと思ったけど、もったいないんで急いで読むようなことしたく ないし、これが必読なんて当たり前のことなんで。まだ今年も2か月あるし、まだ紅白クイズ合戦の裏番組あるかもね。ちゃんと毎週一回は本屋に行こうっと。



■Tom Bouman / Henry Farrell

■Will Carver

●Detective Inspector January David

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