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2022年9月22日木曜日

Mickey Spillane / Black Alley -スピレイン最後のマイク・ハマー!-

今回は1996年に出版されたミッキー・スピレイン『Black Alley』。スピレイン本人による最後のマイク・ハマーです。
いや、ここまで来るの長かったな。2年だか3年だったかもしれないぐらい前の正月あたりに、マイク・ハマーを順番に再読し、翻訳されていないこの最後の作品までたどり着かなければならない!と思い立ち、 んまあ思い立ったんだけどその時期翻訳とか日本の本あんまり読めない時期で、特に序盤はモタモタしながら、何とか昨年やっと邦訳最後の『殺す男』まで読み終わり、今年になってやっと念願のこの作品に たどり着いたということでした。今回は、この最終作のみならず、かなり不当に貶められているところの多いこのマイク・ハマーシリーズについてもとことんやるつもりでおります。
しかしながら、ハードボイルドでは有数のビッグネームであるマイク・ハマーながら、現在翻訳はすべて絶版状態。ここは本編に入る前にこのマイク・ハマーについて簡単に再確認しておきたいと思います。

■マイク・ハマーとは何者なのか? Part1

ここでは簡単に概略を説明し、本編紹介の後に、Part2としてさらに深くマイク・ハマーについて考察して行きます。
マイク・ハマーの初登場は1947年『I, the Jury(邦題:裁くのは俺だ)』。スピレインは元々はこのキャラクターをコミックシリーズ用のMike Dangerとして企画していたが、なかなか売れず、金にも困っていて 小説として売ることを考え、マイク・ハマーと名を変え、9日間で書き上げたのがこの『I, the Jury』ということだ。
そして『I, the Jury』は、続く朝鮮戦争のGIなどを中心に大ベストセラーとなる。ちょっと期間などの資料がないのだけど、『I, the Jury』に続く初期のマイク・ハマーシリーズは長期に亘りアメリカのベストセラー リストのトップ数位を独占していたそうである。
しかし、ベストセラーになる一方で、マイク・ハマーシリーズは、その過剰な暴力・エロティック描写で激しい非難を浴びるようになる。また、60年代ぐらいにはスピレインのタカ派、共産主義嫌いのスタンスも 批判の対象となってくる。マイク・ハマーが単純なアメリカンヒーローだったことなどただの一度もない。作中でもその立ち位置はある種メタ的に扱われていて、ハマーはニューヨークのマスコミの有名人ではあるが、 そこには常に「人殺し」などの悪評が付きまとっている。
念のために付け加えておくと、マイク・ハマーの批判の対象となった「過剰なエロティック描写」は、当時としてで今見れば云々、などというエクスキューズは必要なく、なんか想像されるような日本のゲス本の レイプやSMをエロティシズムだと思っているようなものでは決してない。またタカ派というスタンスにしても、日本の論者や作家にしばしば見られるような保守政党にすり寄る政治方向のものではなく、シンプルに敵国ソ連・共産主義勢力に怒りを燃やすというような軍人方向のものである。

以下、スピレインによるマイク・ハマーシリーズ全13作のの一覧です。

1 I, the Jury 裁くのは俺だ 1947年
2 My Gun Is Quick 俺の拳銃は素早い 1950年
3 Vengeance Is Mine! 復讐は俺の手に 1950年
4 One Lonely Night 寂しい夜の出来事 1951年
5 The Big Kill 大いなる殺人 1951年
6 Kiss Me, Deadly 燃える接吻を 1952年
7 The Girl Hunters ガールハンター 1962年
8 The Snake 1964年
9 The Twisted Thing ねじれた奴 1966年
10 The Body Lovers 女体愛好倶楽部 1967年
11 Survival... Zero! 皆殺しの時 1970年
12 The Killing Man 殺す男 1989年
13 Black Alley 1996年


今回の『Black Alley』以外の12作のうち、2を除く11作は早川書房から。全部絶版だけど。2に関してはまあまず手に入らないぐらいのものだが、原書電子書籍版がお手軽に手に入るのでそちらで読むのがおススメです。
シリーズは1952年の第6作『Kiss Me, Deadly』の後一旦中断し、10年後の1962年に『The Girl Hunters』で再開される。『The Girl Hunters』はある事件の調査過程で秘書ヴェルダが死亡し、以来何もかもやる気をなくし 7年間アル中のホームレスとなっていたマイクが、ヴェルダが生存しているとの情報を得て、その救出のために復帰するという形で始まる。かなり雑な分類だが、第6作までが第1期、第7作から11作『Survival... Zero!』 までが第2期、そして残る12、13作が第3期と考えられると思う。第3期については、本編あらすじなどの後に説明する。

ハマー以外のシリーズの主要キャラとしては、まず誰でも知ってる美人秘書のヴェルダ。ただの秘書ではなく、自らも私立探偵免許を持ち、もちろん銃も携帯し、あらゆる面でハマーをバックアップする。ハマーからは 延々結婚の約束も取り付けているのだが…?
そしてハマーの軍隊時代からの親友、ニューヨーク市警のパット・チェンバース警部。基本的にはハマーを信頼し、様々な面で協力するが、ハマーの宿敵である地方検事との間にはしばしば挟まれ、苦しい立場になる。 これは法に則って警察が解決するからな!乱暴なことはするなよ!殺すなよ!と常にハマーには言い続けているが…?シリーズすべての作品に登場するが、中でちょっと異色作であるニューヨーク以外が主な舞台となる 第9作『The Twisted Thing』のみ出番少なめ。
その他、2~3作に連続して登場するキャラもいるが、ハマー以外の主要なキャラクターはこの二人のみ。

マイク・ハマーシリーズの大きな特徴は、そのほとんどが依頼人がいるものではなく、独断での行動での捜査ということだ。それゆえ何物にも縛られることなく、自分の考え・判断で行動できる。事件の発端となるのは、 友人や知り合いが殺されたというものが多く、シリーズ作品の多くはある種の復讐物語という形になっている。
依頼人なしで捜査してマイク・ハマーはどうやって生計を立ててるんですかー、などと言っていまだにリアルからのフィクションへの稚拙なツッコミで笑いが取れると思っているサブカル原人がまだ 生存しているかもしれないので念のために言っとくと、もちろん小説にはなっていない日常での依頼人のいる仕事で稼いでいるのだ。マイク・ハマーはニューヨークでもっとも有名な腕利きの探偵なのだよ。

マイク・ハマーの捜査方法はある意味独特だ。事態の最もヤバい部分に単身乗り込み、これはこのマイク・ハマー様が調べてる事件だぜ!と知らしめ、自分を餌にし、当然自分も命を狙われながら事態を動かして行く。 手掛かりを追っているうちにそうなって行くというケースというのが主なパターンだが、大体最終的にはこの形になり結末へ向かって行く。
日本における主なマイク・ハマーの評価というのは、アメリカのモラル的な批判をそのまま転用した上に、見当違いのクイズ基準評価まで乗せた語る価値すらないようなものだが、その中にはマイク・ハマーシリーズの 欠点はハマーが手掛かりを偶然見つけることだ、などというようなものまである。まあ全作通して読んだが、本当にそんな「偶然」などというようなものがあったとは全く思わない。なんか犯人当てクイズの 探偵が超人的な観察力みたいなチート能力で都合よく見つけるものを、ハマーがたまたま目にして「偶然」見つけるぐらいのものだろう。そんなにマイク・ハマーを貶めたいんかね。

俺の怒りで俺が裁く!マイク・ハマーのテーマはシンプルだ。そしてこの「俺が裁く」イズムは、アメリカのエンターテインメントにその原型として大きく影響を及ぼして行く。ハリー・キャラハン、ポール・カージー、 そしてランボー。これらはすべてマイク・ハマーの末裔だ。
マイク・ハマーのヒットにより、多くの模倣作品が生まれたと言われている。それについては後述するが、この「俺が裁く」イズムを引き継いだ作品として重要なのは1969年から開始される『The Executioner』死刑執行人 マック・ボランシリーズだ。このヒットによりアメリカにメンズアクションアドベンチャー小説ブームが広がり、現在のマーク・グリーニー グレイマンシリーズなどにもつながって行くのは動かしがたい事実である。なんかさあ、これを言うとそれはウェスタンやフロンティアスピリッツに由来するもので~とかもっともらしく言ってくる奴いそうじゃない?だがマイク・ハマーのそれは、社会や集団の意思や利益には関係なく、 俺の怒りで、俺の正義で俺が裁く、それが法に合わなくてもこの手で銃弾をぶち込むというもので、これをやって歴史に残るほどのベストセラーにしたのはマイク・ハマーが最初なのだ。反論するなら、TVとかの「社会学者」程度の曖昧なイメージではなく、ちゃんとした例証を持ってきてもらおうじゃないか。あーなんなら鳥獣戯画起源説でもいいよ。

以上、かなり長くなってしまったが、これがマイク・ハマーの概要ぐらいのものである。ハマーに関連してはまだ山ほど語らねばならんことがあるのだが、とりあえずは今回のスピレインによるマイク・ハマー最終作『Black Alley』について語った後に。

【Black Alley】

マイク・ハマーは死の縁より戻ってくる。

ニューヨークのマフィアPontiファミリーの調査に携わっていたハマーは、そのボスLorenzo Ponti襲撃計画の情報を聞きつけ、港へ向かう。だが、その情報は既にボスには筒抜けになっていた。ボスが安全にその場を 離れる一方で、現場では銃撃戦が勃発。ボスの息子Aziがハマーの姿を見つけ、腹に二発の銃弾を撃ち込む。ハマーも常に手放さない45口径コルトオートマチックの銃弾でAziの頭を吹っ飛ばすが、その場で意識を失う。
そしてそこへ、様々な事情から職を去り、アルコールに溺れていた元医師のRalph Morganが通りかかり、瀕死のハマーを発見する。ほぼ絶望的に見えたマイクの状態だが、もしかすると助けられるかもしれないと、 ほぼ気まぐれのように思ったMorganは、フロリダにある自宅にハマーを運び、治療を施し彼の命を救う。

冒頭、意識も朦朧とした状態で目覚めたハマーのモノローグから始まり、徐々に回復しながら状況を把握して行くという流れで、以上のような経緯が語られる。何とか意識もはっきりし、自分の今の状態を把握したところで、 本来なら大きな病院に移って治療をすべきだろうが、現在は医師免許を持っていないMorganが治療をしたことが明るみに出れば彼が罪に問われることになる。そんなわけでハマーはMorganの家にとどまり、彼の世話を受けながら 治療回復に専念することになる。

Morganが持ってきてくれた新聞によると、ハマーは港での銃撃戦の中で撃たれ、海に落ちて死亡したと報じられていた。しばらくは死んだことにして静養するしかないな、と思っていたところで、Morganの家の電話が鳴る。 そこから聞こえてきたのは、パット・チェンバースの声だ。
よう、マイク。なんで居場所が分かったかって?警察をなめるなよ。

彼らの軍隊時代の情報部の上官であるMarcus Dooleyが撃たれた。それがパットからの連絡だった。
犯人と目されているのは、ハマーが関わっていたPontiファミリーのUgo Ponti。そしてDooleyは近年Pontiファミリーで仕事をしていたらしい…。

まだ動ける状態ではない身体を引きずり、ハマーはニューヨークへ戻り、Dooleyが入院している病院へ向かう。
もはや生きているのが不思議ぐらいの状態で、Dooleyはハマーと最後に話すために辛うじて命を繋いでいた。
そしてDooleyはハマーにのみ伝えられる秘密を話し始める。

この時代、マフィアのドン共は心配している。世代交代を待ちきれない若い世代が、奴らの得意なコンピューターを使ってファミリーの財産を自分たちのものにしちまうことをだ。
それで奴らは考えた。すべてコンピューターから届かない現物に換えて、奴らから見つからないところに隠しちまおう、ってことだ。
俺は情報部時代からの腕を見込まれ、そのためにPontiファミリーに雇われ、表向きは地所の管理ってことで働いていた。そして俺は奴らの財産を隠した。
だが、俺は奴らに対しても、ちょっとした仕掛けをした。
あっちで少し、こっちで少しと位置をずらして行って、奴らは絶対に本当の隠し場所にはたどり着けない。
こんな話は警察のパットには話せない。お前にだけだ。マイク、お前に任せたぜ。

そして、僅かな手掛かりを残して、Dooleyは息を引き取る。
隠されたマフィアの財産は推定890億ドル!そして戦友Dooleyの仇Ugo Ponti!満身創痍のまま、マイク・ハマーは動き始める!

書かれたのが1996年で、なんだかんだ言っても24年、四半世紀近く前となってしまうし、1918年生まれのスピレインもその時点で78歳。技術進歩も目覚ましい部分でのそのくらいの「昔」はより古く見えるものだろう。 まあ、1996年の時点でも、ネットで金を奪われないよう全部現物化して隠すというのがジジイの発想、とか言って嗤いたいチープなオレ最先端気分野郎はテクノスリラ~とかでも読んでりゃいいんじゃない。
要点は、この作品、というよりこの7年前『The Killing Man』でマイク・ハマーを19年ぶりに復活させたスピレインが、何を考えたかということだ。47年初登場のマイク・ハマーがその時何歳だ?今のマイク・ハマーを どう書く?単純に考えて思いつくのは、この時代に年を取った老人マイク・ハマー、あるいは回想された全盛期のマイク・ハマー。だが、スピレインという男はそこがわかっていた。そんなものはせいぜい書評家や 野次馬の類いを納得させるぐらいのもんだ。マイク・ハマーを待っていたファンが見たいのは、そんなマイクじゃないだろう。そして登場したのが、年齢や正確な年代を曖昧にしたまま、「現在」のニューヨークを 我が物顔に闊歩する、昔ながらのマイク・ハマーというわけだ。
しかしマイク・ハマーというのは誰もが知ってるオールドタイマーだ。コンピューターや、最新式の防弾服が登場する一方で、第二次大戦の戦友や、果ては禁酒法時代の話まで出てくる。いつの時代だなんて 小さいことに頭を悩ますような奴は、マイク・ハマーのニューヨークにはお呼びじゃないんだよ。

ここで改めてマイク・ハマーというのは何者だったのかと考えてみよう。マイク・ハマーが登場したのは1947年。196年に出版されたこの最終作は惜しくも一年足りなかったが、そこから約50年ということになる。 その登場から一貫して批評家からは貶められ、攻撃され続けながら、50年にわたって愛され、再び登場することを待たれ続けていたマイク・ハマーというのは、読者にとって何者だったのか?
あくまで私見だが、ファンにとってマイク・ハマーというのは、例えばビートたけしや立川談志のような存在だったのではないか?こっちもいい加減オールドタイマーだしもうTVなんて見ないんで、古くて申し訳ない。 今ならそれなりにもっと適当な例えもあるのかもしれんけど。別に庶民の声を代弁して権力の腐敗に立ち向かってくれるなどというものではない。だが、世間がどうだからとか、道徳がどうだからとかいうことに 左右されず、思ったことをズバリと言ってくれる。期待に応えてくれるやつ。やってくれるやつ。巨悪と闘い民衆の不満鬱屈に応えてくれるなどというものではない。ハマーならやってくれる。それがマイク・ハマーが 50年間愛され続けてきた理由なのだと思う。
今回のハマーは、序盤に死にかけ、回復も途上のままの復帰で何度も傷の痛みに倒れ、時には数日意識を失うぐらいの状態で、酒さえも控えている。だが、どんな状態でも彼は我々の知っているあのマイク・ハマーだ。 序盤、ニューヨークに戻ったばかりのハマーは、ヴェルダとレストランへ出かけるが、常に肌身離さなかった相棒.45口径を持って行く力もなく、気分的なお守り代わりにその弾倉だけをポケットに入れて行く。 そしてそのレストランで、仇であるマフィアが我が物顔で振舞っているのに出くわす。ハマーはそのテーブルに歩み寄り、ポケットから.45口径の銃弾を一発取り出し、テーブルの上に置く。俺はいつでもどこでもやってやるぜ。 そしてマフィア共は無言のまま店から立ち去る。これがマイク・ハマーだ。

ここで先に言及したこの作品と前作『The Killing Man』を第3期としたことについて説明する。日本でも翻訳された前作の解説には書かれていなかったが、この2作は米Playboy magazineに同タイトルの短編として掲載された後、 長編として出版されたもの。いずれも出版されているのが掲載されたのと同年であることから、単純に短編を長編として書き直したというより、長編の出版を前提としたある種の企画だったものと考えた方が良いだろう。 この2短編は後に2004年出版の『Byline: Mickey Spillane』という短編集に収録されているようなのだが、すでに絶版で今のところは電子書籍版も発行されていないようなので、比較して確かめることは難しくなっている。 想像されるのはマイク・ハマー待望の声に応えて企画され19年ぶりに復活したのが前作『The Killing Man』で、その7年後第2弾として同じ形で出版されたのが今回の『Black Alley』ということなのだろう。
この『Black Alley』、最前から書いているようにハマーは大怪我からやっと回復しながらという状態で、その体の不調・困難について度々記述される。スピレインも78歳で、何か大きな病気などで死にかけたぐらいの経験を したのかな、と想像されたりもするのだが、それ以前にこの作品のあらすじを読んでいる時点で、ハマーシリーズを読んできた読者の人ならある過去作とのある類似に気付かれたのではないか?それはこちらで第2期と書いた、 10年の中断の後ハマーを復活させた最初の作品『The Girl Hunters』。この作品はアル中のホームレスとなっていたハマーを、パット・チェンバースがある事件の関係者でマイク・ハマーにしか話さないと言ってる瀕死の 男と会わせるために引っ張り出し、そこでヴェルダが生きているという情報を得て、なかなか元の力を充分に出せないリハビリ状態で復活して行くというストーリーだ。
前作『The Killing Man』は結構古くからのファンのためのサービスのようなつもりでスピレインは書いたのかもしれない。そしてその反響に、ここはマイク・ハマーをもう一度復活させてやろうと、以前の復活劇を なぞって書かれたのがこの作品ではないか、これこそがマイク・ハマー第3期のスタート作品であったのではないか、というのが私の考えだ。
タイトルの『Black Alley』とは、死に瀕したハマーが見た完全な「死」へと続く忘却と絶望の黒い路地。日本風に言えば、賽の河原か三途の川か。そこから戻ったハマーの新たな冒険がここから語られ始められる はずだったのではないか。
ミッキー・スピレインはその10年後、すい臓がんでこの世を去る。だが『Black Alley』の後ハマーシリーズの次作を用意しており、未完に終わったその作品はその後マックス・アラン・コリンズにより『The Goliath Bone』として 完成させられ出版されている。もちろんスピレインの真意はわからないし、こんなのただの私のこじつけかもしれないが、少なくとも「迷宮」と「鏡」なんて大して意味もないもんよりは、夢もあって気も効いてると思わない?

こちらのスピレインによるマイク・ハマーシリーズ最終作『Black Alley』は、もちろんこの作品でシリーズを初めて読んだ読者にこれでマイク・ハマーの全てがわかるというような作品ではない。だが、シリーズを読んできた ハマーを愛する人には、スピレインよ最後にもう一度あんたのマイク・ハマーに会わせてくれてありがとう、と心から言える作品である。

だが、マイク・ハマーはまだ終わらない!

前述の通り、スピレインの未完のハマーシリーズ作品は、スピレインの弟子、または一の子分を自認するマックス・アラン・コリンズにより完成され、その後もコリンズによりスピレインのアイディアぐらいかもしれないのを 元にしたのや、コリンズオリジナルの作品により継続されている。現在までに12作に及び、もしかしたらスピレイン先生のオリジナルより多くなったらあの世で怒られるかもしれないと思ってここで止めてるのかもしれない。 コリンズによるシリーズ作品は、これはオリジナルのあれの後の話とか、すべてオリジナルシリーズをクロニクル的に補完しているのかもしれない形で書かれているようだ。ちょっとここからまだ長くなるので、ここで詳しくは 説明できないが、こちらも読み続けて行くので、いずれまたもう少し詳しく書けると思う。しかしコリンズも日本的には今ひとつちゃんと紹介されていない作家なので、その前に『Quarry』とかやっときたいんだが。いや、 ネイト・ヘラーも悪くないけどさ、やっぱコリンズはQuarryからだろ。

■マイク・ハマーとは何者なのか? Part2

えーと、まず申し訳ありませんでしたと反省告白してしまうのだが、私マイク・ハマーを読み違えていた…。ことは結構遡ってしまっていつ書いたんだったか自分でも忘れてしまったのだが、以前マイク・ハマーシリーズを 再読していることを書き、その中でまあもう翻訳が手に入る見込みはない第2作『My Gun Is Quick』を初めて原書で読んだが、これ初期の中では傑作というようなことをお知らせした時のこと。
これがやっぱり初期の中でもなかなか優れた作品で手に入らないから読んでいない人も多かろうというのはもったいない、というのは変わらないんだが、問題はそこで評論家みたいなことを言うのはなんだが、 と言い訳しつつ、シリーズ初期の作品は荒いというようなことを書いてしまったこと。やっぱ評論家なんて奴らの言うことは基本クソだから、ちょっとでもそう思ったら書くべきではなかったな。
で、どこどう読み違えていたかというと、私はマイク・ハマーをある種のプロトタイプとして読もうとしていたのだ。まあその辺についてはこれから書いて行くところで少し長くなるのだが先に少し話すと、私は日本で 流通しているハードボイルドの歴史的なものに常々あちこちに疑問を持っていて、その辺を考えるためにというような考えもあって「歴史に是認されていない正統、またはプロトタイプ」としてマイク・ハマーを 再読してみようと思ったところもあるのだよね。いや、もちろん抜けてるやつや未読のを読んでコンプリートしたいというオタクコレクター的側面も大きいけど。
で、読んでるうちに気付いてきたのは、実はマイク・ハマーのような探偵はいないのではないか、自分はなんとなく浮かんでいた架空の「プロトタイプ」の枠に当てはめてマイク・ハマーを読んでいたのではないかということだ。 マイク・ハマーの大ヒットにより、それを真似た作品が数多く出版されたという話は知っているし、早川のポケミスあたりに僅かに残っていたそれに属する作品はいくつか読んだ。だが、それも含めて私が 今日まで読んできたハードボイルド作品で、本質的にマイク・ハマーのような探偵が登場する作品はひとつもない。
ではここで、マイク・ハマーのヒットの後、続いて出版された模倣・追随作品に何故マイク・ハマーのような作品がないのか、またどこが違っているのかについて考察してみる。
まず考えられるのは、1).マイク・ハマーを模倣したそれに近い作品はあったが、現在はすべて失われている。ここで思い浮かぶのは日本の大藪春彦の事例である。大藪春彦も模倣・追随作品が非常に多い作家だが、 ほとんどの作品(個人的に知る限りは全てだが、読んでないのもあるかもしれんので)は、とても大藪を継承するなどとは言えない劣悪作品で、世に出回っている期間も短い。まあ私が一括してゲス本と呼んでるやつやね。 これと同じような経緯で、暴力・エロスにだけ満ちた模倣作は多く出されたが、劣悪過ぎて現在我々が目にできるような形で残っていないという可能性。
そういえば昔、アメリカで表紙にハードボイルドなどと謳ってるのは大抵エロ小説だというような話も聞いたことがあるが、そういうのがゲス本なのかもね。ただまあ、そんなのおしり探偵を卒業したばっかのお子様でなけりゃ引っ掛からないようなもんじゃない?日本だって表紙にでかでかと「ナゾトキ」って書いてあるクイズ本と「本格ミステリ」ってやつをそれほど悩まずに見分けて買ってるんでしょ?内容大して変わんないか?
そして2).マイク・ハマーが模倣・再現が不可能な作品であった。まあ結局大藪のケースと同様で、この事情により1).のような作品が存在したとしても到底オリジナルに及ぶこともできないまま失われているということになるのだけど。では、その他の現在残る…まあその辺も 全部絶版なのだけど、ミステリ評論家共に「通俗」ハードボイルドのレッテルを張られたハマーに追随したとされる作品は、どこが違うのか?この「通俗」については後ほど別に書くが、その他にこの辺の作品群は「軽」ハードボイルド とも呼ばれている。まあ全部じゃないのかもしれんけど、これは「軽」じゃなくて「通俗」!なんてクソ分類があったとしてもそんなもん果てしなくどーでもいい。自分が読めたその辺の作品については大体「軽」という印象があった。 だがな、マイク・ハマーは「軽」じゃないだろ。すべてのハードボイルドを見たって、マイク・ハマーという探偵は様々な意味でヘビー級、重量級で、「重」ハードボイルドだろう。
それではなぜマイク・ハマーを目指して書かれたはずのものが「軽」になったのか?それは彼らの多くがそれ以前からパルプ誌などを中心に曖昧な意味での謎解きミステリー、犯人当てクイズ小説を書いていた者だったから ではないかと思う。まだほんの微々たるものだがWildside PressのMEGAPACKとかで昔のパルプ作品を読んでみると、日本で思い込んでいたのとは全然違い、ハードボイルド、クライム、謎解きミステリーなどを書く作家の境界は 曖昧だ。日本で調べてみると「本格ミステリー」指定されている作家があまり謎解きのないクライム作品を書いていることなどざらにある。この辺の事情について日本では、本当はちゃんとした本格ミステリーを書きたいのだが 金銭的に恵まれず、そういう雑誌にも金のためだけに嫌々書いた作品を売っていた。気の毒に。とかゆーてたんだろうね。アホらし。まあそういうミステリ全般ぐらいで幅広く、出すとこごとにそこに合わせてテイストを 変えてたような器用な作家が、その今売れてるジャンルに手を出したのが「軽」ハードボイルドだったのではないか。マイク・ハマー風の挑発的な軽口を叩き、ちょいと荒っぽく、お色気もマシマシで加えてみたけど、 根本的な資質で追いつかずハマーの「重さ」を表現できなかったような作品が「軽」ハードボイルドだったのではないかと思う。
ではそのマイク・ハマーの再現不可能な「重さ」とは何なのか?それはハマーに内在する怒り・感情的な暴力というようなものではないかと私は考える。もっとわかりやすくこれと同様の形で、現時点でもそしておそらく将来的にも、 その暴力性により再現不可能な作家を我々は知っているだろう。それはジェイムズ・エルロイ。エルロイを模倣しようと試みた作家・作品はいくつか知られているだろう。しかし、そのいずれも、エルロイの自己破壊にまで至る 強烈な暴力性には追い付かず、自身のナイーヴさというようなものを露呈するに終わっている。まあそれはそれで読む価値がないわけじゃないけどね。ただまあもっと基本的に言えば、どんな作家作品だろうと、本質的には 模倣でそれに準ずるクオリティのものを作ること自体不可能なのではないか。多分美術品のような「贋作」という考えに立てばそれは別ものかもしれないけど。要は模倣される価値のある作品のみがその事実を露呈するという ことかもしれんけど。ちなみに模倣作品がゲス本だらけになる大藪春彦作品については、またスピレイン-エルロイとは別の考えがあるのだけど、まだ書くこと多いしそれはまた別の機会があったらということで。
断っておくが、これはエルロイがスピレインから直接影響を受けたというように二者を単純に線で結ぶというような意図の話ではない。またそれぞれに内在する暴力性というのも別種のものだと思う。 そして、しつこく「内在する」という表現を使っているように、これは表面に見られる暴力描写というものについて言っているわけではない。ずいぶんと激しい暴力描写も数多く見られるように思われるエルロイだが、 例えばスプラッタパンク・エクストリームホラージャンルなら更に過激な描写はいくらでも見られる。しかしエルロイ独特のシンプルな文体であっさり書かれた暴力描写の下には、そういった作品をさらに上回る 暗くドロドロと煮えたぎった暴力の発生源が常に垣間見える。
マイク・ハマーはいきなり襲われて、力の加減ができずうっかり相手を殴り殺して、クソッこれじゃ何も情報が聞き出せねえ、ぐらいのことが確か2回ぐらいあったような危険人物であるが、やたらと力を誇示するような 安手のマッチョではない。やる時はいつでもやる一触即発の滲み出るような暴力で悪党を威圧する。特に初期作品ではただちに暴力へと移行するようなハマーの怒りがむき出しになっており、何かプロトタイプというような 考え方や、また再読ゆえ知っているシリーズの先のそれらを冷笑や挑発的な軽口の裏にひそめるようになった(「成熟」?「安定」?)イメージも加わって、初期作品のそれを「荒さ」と安直に誤認してしまったのだろうと思う。 大いに反省しております。実はそれこそがマイク・ハマーの本質というようなものかもしれず、ゆえにその温度を持たずにマイク・ハマー的な類似作品を作るのは不可能だったのではないか、というのが私の考えなのだ。

そしてお馴染み「本格通俗」について。日本のハードボイルド言説の負の遺産ともいうべきこれがいつ作られたのかなどの正確な時系列は知らんのだが、まあこれはどう見たってマイク・ハマーと続く作品が 発生要因なのは間違いないだろう。第二次大戦をはさんで戦後という特殊な状況ゆえ、ハメット、チャンドラーからあまりタイムラグもなく、マイク・ハマーが入ってくる状況で、一部の編集者であったり評論家、あるいは 作家もいたのかもしれない、自分たちが考える「正しい」ハードボイルドを区別するためにでっち上げたのがこの「本格通俗」という奴なのだろう。
そもそも「通俗」などと称されるものがなければ、「本格」などという概念自体が無用だ。これは明らかに「正しいハードボイルド」というものを考える輩によりそれを隔離保護するためにでっち上げられたものだ。 まあその「通俗」についてはこれから色々と見て行こうと思っているところだが、何より問題なのはこの「本格」という奴。これが後々、現在に至っても日本のハードボイルドの考えを混乱させている最悪の元凶である。 この「本格」の中身となったのが、当時米か英の誰とかいうミステリ評論家が提唱したハメット-チャンドラー-マクドナルドスクールというやつ。だがな、よく考えてみれば推測できるんだが、これって多分 ロス・マクドナルドが評価され始めてきたころに出たこういう形でロスマク持ち上げるための評論やろ。まあひいき目に判断して、これからはこれを軸にしてハードボイルドを考えて行こうという提唱だったかも しれないものだが、日本の「本格」などというのはそもそも隔離保護を目的としたものだから、この3作家を「本格」というところに殿堂入りさせたような形で終わる。さてこの「本格」をどうするかと考えた でっち上げ犯連中は、これを共通する「ハードボイルド精神」というもので解釈しようと試みる。このハードボイルド=精神論という考えがその後の日本のハードボイルドに関する考えを停滞混乱させ続ける最悪要因と になる。ハメット、チャンドラー、マクドナルドは、それぞれに明確なスタイルを持った作家であり、そのスタイルによりハードボイルド史の中に位置付け、変遷を見て行くことには意味がある。だがこれに共通するような 精神論でハードボイルドを定義づける?で、なんちゃらスクールと並べてはみたけど、連中の考えていたのは主にチャンドラーだったわけで、この「ハードボイルド精神」というのを見出すために、チャンドラーの著作の中から それらしいセリフを抜き書きし、マーロウのこのセリフがハードボイルド精神を表してるとか、3つ並べちゃったからとハメットやマクドナルドからもそんなセリフを見つけてきて抜き書きみたいなしょーもない ハードボイルド精神定義研究を続ける。結局中身もないくせに意味ありげな基準面した「本格ハードボイルド」という概念だけが居座り、しかもそこに新たな作家や作品が加えられることも一切ないという停滞混乱状態に ハードボイルドは投げ出されることになる。あー、これに入ってないのは全部通俗なんやね。そしてわかったようなわかんないようなオッサン格言のような「ハードボイルド精神」もなんか宙ぶらりん状態で放り出されて いるうちに、なーんか精神論で書いてるようなロバート・B・パーカーが登場し、ハードボイルドってかっこよさげ~と思ってた連中が、これぞ男の生き様ハードボイルド!と持ち上げ、精神論で説明しやす気で、しかも 当時流行りの父と子の物語もおまけに付けちゃうで、『初秋』が現代ハードボイルドを代表する名作ってことになっちまったわけね。
そして付け加えると、この日本の「本格ハードボイルド」がもたらした弊害として挙げられるのが、前から言ってる極端なロス・マクドナルド偏重である。なんかさあ、よくわかんないんだけど日本のミステリってとこ やたらロスマクが好き。結局どこぞのこじつけ屋が言ってるらしいハードボイルドにして「本格ミステリ」みたいのに尽きるのかもしれないけど。日本のミステリでハードボイルドに分類されてるのでも、ロスマクに 深く影響を受けたと言ってるのもあるし、果てはもうそれこそごく最近に至るまで「ハードボイルドはロス・マクドナルドだけ読めばよい」みたいな妄言を吐いて団塊スタイルでふんぞり返るような見当違いが 横行したり。まだいるのかねえ、迷惑ミステリご意見番気取り。団塊スタイルじゃ聞きかじりの受け売りも「引用」に分類されっからね。えーとめんどくさいから簡単にはっきり言うけど、ロスマクだけ読んでも ハードボイルドなんて全然わかりませんから。わかるのロスマクのことだけです。あたりまえだろ。この馬鹿げたロスマク偏重は結果として近年日本でのロスマク評価を下げ始めています。まあ後期のリュウ・アーチャーなんて ただの傍観者とかツッコミどころ満載だもんね。ただまあロス・マクドナルドというのは読む価値のある作家ですので、いくら気持ち悪い感じに見当違いの持ち上げ方されてても「ハードボイルドでロス・マクドナルド だけは読まなくてよい」なんてことにはならないようにね。まあすでにこれもほぼ絶版か。
評論家研究者レベルが、その思い上がりによりジャンルに基準を設けコントロールしようと試みるようなことは、必ずジャンルに深刻な被害をもたらす。性懲りもなくこれをやったのが、近年のノワール原理主義者 によるノワール統制である。その思い込みによる定義により、まともに新しいノワール作品が入ってきにくくなったばかりでなく、国内的にはノワールがバイオレンス要素が高めなサイコサスペンスぐらいの理解を されているという事態に陥っている。もしまたこんなことをしようとする不届き者が我々のハードボイルド/ノワール村に現れたら、徹底的に袋叩きにしてぶっ潰すのじゃ!
このように今も日本のハードボイルド観に大きな害をなし続けている「本格通俗」だが、先に述べたようにこれの発端となったのは、マイク・ハマーの登場である。とまとめたかったところなのだが、なーんかよく 考えてみると、ハマーがなかったとしてもこういう連中のやることなんてやっぱこの程度で、結局延々とチャンドラーを精神論で読み解くというようなところで行き止まっていたのかもしれんけどね。

こんなところが私の考えるマイク・ハマーとは何者か?というところです。マイク・ハマーというのはハードボイルド史においてその登場以前・以後を作ったような重要な存在であり、その後ハードボイルド内に 留まらない大きな影響を広く及ぼしたターニングポイントというべき存在です。そして欠損・欠陥だらけの日本に流通しているハードボイルド史の再考のために、マイク・ハマーを中心とした視点はひとつの 重要なポイントになると考えます。
というわけで、最後に今後考えて行きたいハードボイルド史の疑問点について少し書いて行こうと思います。

■ハードボイルド史についての疑問点

まず、こっちで言ってるハードボイルドだが、アメリカにおけるその語源や意味、文体などについての考えは、こちらでは一切無視する。こちらの目的は、ハメット、チャンドラーを起源とする小説ジャンルの 進化発展の流れを追って行くというものだ。語源意味文体などの見地で言えばもう終わったものだが、小説ジャンルとしては連綿と続いているものだからである。
今回参考になるかと考え、英語圏のウィキペディアでHard Boiledを検索してみたが、ほとんど何も書いていないも同然の状態だった。まあ推測される理由としては、先に書いたように語源意味文体に関する考えでは既に終わっている一方で、小説ジャンルとして幅広く考えると膨大になりすぎるので手を付ける人がいないのだろう。
例えば、ハードボイルドはその語源や文体から徐々に乖離して行ったため、ある時期からPI小説と呼ばれるようになったという説もあり、自分もそれでいいかと思っていた時期もあったが、進化発展を続けてきた 現在の状況はまた逆にPI小説という考えでは括りにくくなっている。これらは全体的にはミステリという大枠で、個々に考えればいいかというのが海外の状況かもしれないが、日本のミステリの状況は 特殊であり、ハードボイルドというカテゴリ分けは必要なものであるというのが、私の考えである。ちなみに念のために言っておくと、ハードボイルドは意味文体的には終わっているものでも、アメリカで 死語になっているわけでもなく小説ジャンル的な説明宣伝文などにも普通に使われているものなんで。
ちょっとこの辺であらかじめ断っておいた方がいいかと思うのだが、Hard Boiledの英語圏のウィキについて書いたが、もちろん日本語でも同項目はあり、むしろ英語圏のものよりも詳しく書かれている。 国内のものについては基本的には意見を言うつもりもないので無関係だが、海外の物については、これから書くことがその内容を攻撃しているように見えてしまうかもしれないが、全くその意図はない。 これはそちらに書かれている内容が、私もよく知る一般論であり、こちらはその一般論に対してに異議を唱えるということを行っている結果であり、直接その文章内容を攻撃する意図などは全くない。 自分も誰彼構わず噛みつくかなり頭のおかしい危険人物であることは自覚しているが、どこのどなたかは知らんが、善意により無償で自身の時間労力を使って作成したものを無闇矢鱈に攻撃するほどの 狂人ではないので。私はそういうのではないところを無闇矢鱈に攻撃するタイプの狂人ですから。
で、何故日本にはハードボイルドというジャンルカテゴリ分けが必要かということ。例えば日本で特にミステリファンではないぐらいの人が何を求めてミステリを読むか?必ず事件が解決されることにより物語が 終わり、世界が復旧してめでたしめでたしになること。そしてちょっとしたナゾトキパズル気分を楽しめること。まあ日本に限らず、世界中でもこんなもんやろ。しかし日本ではそれらのニーズに応えるお手軽 犯人当てクイズ小説の上に、「本格ミステリ」という犯人当てクイズがクイズの難易度かなんかでその頂点に立っているという幻想を抱いている。そして更に誇大妄想を拡げて、そもそもそんな概念すら存在しない 日本以外の全ての世界のミステリの頂点に「本格ミステリ」が君臨してると思い込んでる。そしてそんなミステリ観を支えるミステリ評論家やら読書のプロやらが選んだランキングにから見る海外ミステリの 2000年代ぐらいからの歴史は -まずは大ジェフリー・ディーバー時代が長く続き、少々の北欧ミステリブームを挟み、この数年はアンソニー・ホロヴィッツ一強時代!世界最高峰のミステリ!ホロヴィッツ以外に 評価すべき作品が見当たらない!更にはお隣中国台湾からも華文が参戦!世界は本格ミステリ一色に塗りつぶされようとしている!- ってとこだろ。
こんな国で自分の好きな本を求めるにはジャンルを主張するしかないだろ。そして、ハードボイルドというジャンルはここまでに書いてきたように、この国に入って来た初期の段階から歪みが入れられ、多くの作品が 読まれる以前に低い位置に置かれるような不当な扱いを受け、更に言えば、その後に起こった日本独自指定のネオ・ハードボイルドってやつの後には、これでハードボイルドは終わってPI小説になったということにされて、 そこに評論家やらの無能怠慢が加わり、80年代以降も数えきれないほどの優れた作品が翻訳されているにも関わらず、現在に至るまでまともに整理すらされていない状態が続いているのだ。
これらの理由により、日本にはなんとしてもハードボイルドというジャンルが必要だし、そのかなりその時の都合でゆがめて伝えられてきた歴史の見直しが必要であるというのが私の主張である!

追加でちょっと書くぐらいの気持ちだったのだが、既に前置きで結構な量になっちまってるな。で、ここからが日本で流通しているハードボイルド史への疑問点である。と言っても長年不満に思っていた「本格通俗」は すでにブッ叩いたので、あとはネオ・ハードボイルドぐらいか?このネオ・ハードボイルド、小鷹信光氏による命名で、日本独自のまあある種企画的な感じのものかぐらいの認識だった。なんかもうその存在自体が当たり前 ぐらいになっていて、日本独自で言ってることだけど、実際にそういう作品あるんだしまあそういう動きもあったんだろうなと考えていた。
ネオ・ハードボイルドについて、割と最近ぐらいに疑問が発生する原因となったのは、こちらではなかなかちゃんと書けないままちょこまかおススメしているラルフ・デニスのハードマンシリーズ。まあはっきり 言わせてもらって、これネオ・ハードボイルドって言われてるやつあたりとくらべても圧倒的に面白いんだが、ほぼ同時期に翻訳出てたにもかかわらずこちらは現在ではほとんど忘れられているぐらい。 まあ評論家なんてもんにはなんも期待してないけどさ、さすがにこれほどになると、このネオ・ハードボイルドってやつもホントかよって気になってきちまう。
ネオ・ハードボイルドに関する疑問点は、整理すると次の2点。1).ネオ・ハードボイルドはいかにして発生したか?そして2).ネオ・ハードボイルドはどの程度の影響力があったのか?である。
まず1).ネオ・ハードボイルドと言われているものの発生だが、この大きな要因となったのは日本ではあまりにも評価が低すぎ、下手をすればその歴史について書いても言及すらない1964年から始まる ジョン・D・マクドナルドのトラヴィス・マッギーシリーズと見て間違いないだろう。私立探偵免許も持たない盗品回収を生業とするフロリダでボートに暮らす自由人。設定もそれまでのハードボイルドとは 全く違うもので、会話やらモノローグの中で結構な分量で社会や文化に関する批評的意見が語られるこのシリーズが、作品内容的にも、従来のものとは違うタイプの作品が発表しやすい市場を作るという意味でも、 これら「ネオ・ハードボイルド」と呼ばれる作品の登場の元となったものである。
日本においてハードボイルド史的なものが語られる時は、いつも「本格通俗」の後はネオ・ハードボイルドってことになっていて唐突感があったのだが、最近やっとトラヴィス・マッギーをちゃんと読むようになり やっぱこれなんだろうな、と確信した。なんか下手すると日本ではネオ・ハードボイルドというのは、日本のパロディのつもりでハートボイルドやらソフトボイルドと言って便乗商売やるような奴と同レベルの 軽い「反」ハードボイルド気分のスタンスでやったものぐらいに思ってる奴いるんじゃないのか?それ違うぞ。ネオ・ハードボイルドと呼ばれる一群の作品は、トラヴィス・マッギーのヒットにより、従来と違う 作品の市場が拡大され機会を得た作家が、新たなハードボイルドを目指して模索したものである。
そしてここでさらに疑問は広がる。トラヴィス・マッギーはその内容・影響力から見てこの時代の里程標と見るべき作品だが、他には何もなかったのか?例えばレイモンド・チャンドラーって別に死後になって評価された 作家ではなく、その時代に高く評価されていた作家だ。となれば当然同時代にチャンドラーのように自分の作品を書きたいと思った作家はいたのではないか?つまり、ネオ・ハードボイルドに至る道は、細くてももっと 緩やかに続いていたのではないか?
前述の通り、ネオ・ハードボイルドの命名者は小鷹信光氏である。今となってみると、このネオ・ハードボイルドというのは後のちゃんとハードボイルドを見ようともしない評論家によって悪用されているぐらいに見えないでも ないのだが、当時小鷹氏はハードボイルドを広めるきっかけになればと思っていたところも大きいのだろう。その後、80年代ぐらいになってからは新しい作品の紹介といった方向にはあまり関わらなかった小鷹氏だが、 上の疑問に答えてくれるような形で、アメリカン・ハードボイルド全10巻を編集している。これを足掛かりに、ウェイド・ミラー、トマス・B・デューイなどからそっちの探索を拡げて行けばもう少し大きな流れが見えて くるのかもしれない。しかしジョン・エヴァンズとか原書電子書籍化されてなくて絶版なんだよなあ。いやオレ翻訳出たの早川のも含めて全部持ってるけど~。じまん~。どこのスネちゃまだよ!
今回マイク・ハマーの方の関連で、映画からの印象もありアーネスト・タイディマン/ジョン・シャフトとかハマーに近いかもと思い、もう内容も忘れてたんで引っ張り出して翻訳2冊出てるうち唯一手に入った第4作 『シャフト旋風』を読んでみたんだが、ハマーの方はやっぱ違うかなと思ったのだけど、こっち関連では意外な発見があった。この時代に属する1970年から開始され、映画化され大ヒットしたシリーズなのだが、 読んでみると一人称のスタイルではなく、敵方ギャングメンバーの描写にも多くページが割かれるクライムノヴェルの形式に近いものだった。同1970年には、とにかく日本以外でこのジャンルのオールタイム必読書リストを 作成すれば必ず入るぐらいの名作ジョージ・V・ヒギンズの『エディ・コイルの友人たち』も出ている。やはりこのネオ・ハードボイルドに至る道を見る過程では50~60年代の犯罪小説に属する作品も、一つそういった視点も 加えて読んでいかなければと思った。例えば個々の作品に私立探偵小説、犯罪小説、ノワールなどのジャンル分けをしてレッテルを張って行くのは、読む側としてもわかりやすくて便利だろう。だが、現実の話として、それらはこのように交互に影響を与えているのだから、ハードボイルドは私立探偵が登場する作品のみというような形でそれぞれのジャンルを語ろうとすること自体に無理があるだろう。また、ウィンズロウやエルロイ、グレッグ・ルッカといった作家は、ハードボイルドから出発し、その後それぞれに独自の別ジャンルというような作品を創り上げて行くことになるのだが、やはりこれらの作家を総合的に語って行くうえでも、軸としてハードボイルドという考えが一番わかりやすく合理的だと思う。
そして2).ネオ・ハードボイルドはどの程度影響力があったのか。実際のところ、先から言っているようにこれは日本独自の企画物的分類だし、この辺の作家や動きから影響を受けたなんて話は聞かない。トラヴィス・ マッギーに関しては、最近の作家でもインタビューでハメットかチャンドラーか?(定番の質問。もちろんロスマク入ってない。)と聞かれて、俺はマッギーだと応えるようなのもあるんだけど。日本じゃこの中で ホントにマイクル・Z・リューインが大好きで、リューインこそがネオ・ハードボイルド以降のハードボイルドの見本!ネオ・ハードボイルドはリューインだけ読めばよし!ぐらいのこと言ってるバカいそうだけど、 なんかチェックしに行く気も起きん。もう日本のそういうバカに腹立てたりすんのもウンザリだ。リューインは自分も好きな作家だけど、あんまり他のハードボイルドの流れとは関係なく個性派独立独歩の人やからね。
ネオ・ハードボイルドの影響については、同時代に他にどんな作家作品があったかというところで考えるべきなのだけど、残念ながら現在その辺の作品については絶版のままで、電子書籍などの復刊もあまりなく、 そういった方向から調べるのは現状難しい状況。アーサー・ライアンズとかもっと読みたかったのだけど今は入手困難みたい。あっでもジェイコブ・アッシュなんか昔古本屋でたまたま見つけて買っといたペーパーバック 一冊だけ持ってる!またスネちゃまモード?
そしてネオ・ハードボイルド以後と言えば、79年にグリーンリーフ/ジョン・タナー、80年にエスルマン/エイモス・ウォーカーが登場し、81年にはジェイムズ・エルロイ降臨!また80年代には大エルモア・レナードが 評価され始め、もはや現在のこのジャンルの小説ではすべて原材料にレナードがあらかじめ含まれてるぐらいの多大な影響を与えて行く。こうしてみると、やはりネオ・ハードボイルドというのは一時期のちょっとした ブームぐらいではあったかもしれないけど、その後に影響を与えるほどのものではなかったと思う。なんか深く内面が描かれるようになったとかこじつける奴いそうだけど、「通俗」とかと比較しても意味ないし。 そのために遡ってもっと大きな流れとしてみたいと言ってるんじゃない。あと、マット・スカダーはたまたま近く歩いてて入れられちゃった人で、ネオ・ハードボイルドじゃないから。スカダーは明らかにその先の 80年代ハードボイルドとして評価されるべきシリーズである。
そして、これはもう疑問点ではなく文句なのだが、ネオ・ハードボイルド以降はPI小説となったという形で、80年代以降の作品群について一切まとめられていないのはこれ以降の出版業界寄生虫共の犯罪行為に等しい 怠慢である。重ねて言うが、これは日本のハードボイルドウィキへの批判でなく、一般論としてそうなっているのである。チラッと80年代からのさわり書いただけで、80年代以降のハードボイルドがどれだけ激動激震の時代になって行ったか一目瞭然だろう。
80~90年代辺りは日本では翻訳バブルで、結構多くの作品が翻訳されている。ちょっとこのブログとしてはイレギュラーだけど、翻訳作品並べてその辺まとめてみるといいかなと思ってる。出来たらだけど…。

なんか大仰に歴史とか言ってるけど、まあ私自身で「ハードボイルド史」みたいな著作を著そうとかまでは思っていません。まあテーマや関連作品に沿ったちょっとした地図みたいなもんが作れればいいかと。 なんかね、しまりんやなでしこちゃんがきれいな景色見て、おいしいもの食べて、温泉でのんびりできるみたいな。そんでイヌ子のデマとか交えてね。
例えば、最近注目しているのはやっと#0、#1読んで未訳お勧め一覧に追加したブレイクのThe Wolfe Familyシリーズなんだけど、メキシコの麻薬カルテル方面の話って、ウィンズロウのカルテル三部作につながるし、 その辺のカルテル関連というのはちょっとブームのようでいくつか関連作品もあるし。またメキシコ国境という方では、ジョニー・ショーなんかも関連するし、前から注目して早く読もうと思ってるのにJ. Todd Scott っていうのもあるし、でScottちょっと調べていたらCraig Johnsonって名前も出てきて、これはハードボイルドとはちょっと違うのかもしれないけど、ネットフリックスでやってるWalt Longmireシリーズの原作で、 翻訳出てそうだと思ったけど未紹介だったり。The Wolfe Familyに戻れば、やはりウィンズロウと同じくクロニクル的に犯罪小説を作るという手法で、これは更に遡るとエルロイがL. A.で始めたやつで、さらに関連では ローレン・D・エスルマンのやっぱり未訳なデトロイト犯罪史シリーズも読みたいし、と地図なんて直近のものからだっていくらでも広がり、しまりんも原付であちこちに行けるようになるわけですよね。

で、マイク・ハマー。結局マイク・ハマー。マイク・ハマーは本当に偉大だ。ハマーのことを書こうとしたら、ハードボイルド全体のことを考えることになってしまった。マイク・ハマーはハードボイルド史の 最重要地点の一つだ。誰もが知っているが、決して本当の意味では近づくことのできない頂点である。別にマイク・ハマーを読めなどと誰にも薦めるつもりはない。だが、君がハマーを読むべき人間だったら、 いつの日か必ずハマーを手に取ることになるだろう。
なんかね、ここから続くコリンズによるハマーについて不安になるようなことばっか書いた感じするけど、私はマックス・アラン・コリンズという作家も信頼している。コリンズなら見当違いの「俺のハマー」ではなく、 正しい「ハマーの贋作」を目指してくれると思う。コリンズという作家だからこそできることだ。では、またコリンズによるマイク・ハマー第14巻でお会いしましょう。

■新刊情報、その他

やったぞ!奴が帰って来た!冗談ハーパーの新刊だ!あ、ごめん。どうしても一回言ってみたくて…。日本では『拳銃使いの娘』という果てしなくぱっとしないタイトルで翻訳された『She Rides Shotgun』の ジョーダン・ハーパーの新刊が2冊も発表されました!アメリカとイギリスからってことで、またタイトル違いで出るのかと思っていたら、別の本だそうです。『The Last King of California』がもうすぐ、 今月9月29日、『Everybody Knows』が来年1月10日です。その後出ないけどどうなってるのかなあと思っていたけど、やっぱコロナ関連の事情で遅れて、ここに来ての2冊発表だったのかね。

そして、私のイチ推し!現代ノワール最強作家にして無冠の帝王Anthony Neil Smith先生の、待望の『Slow Bear』の続編!『Slower Bear』が先月8月18日英Fahrenheit Thirteenより発売されました!これで完結しているのかは 不明ですが、今度こそちゃんと書きます。
Smith先生と言えば、つい最近Down&Out脱退後、自費出版で販売されていたBilly Lafitteシリーズ2冊がAmazonより消えており、また何かブチ切れたのか?とTwitterなどを即座に確認しに行ったところ、特に何か 怒っている様子も無し。アカウントも無くなってないし。これはどこかで販売が決まったのかな、と思っていたところ、つい先日、新しい出版社Bronzeville Booksへの顔見せとコンベンションに参加するためにL. A.に 来てるぞ、とのお知らせが。更にそこから新刊『Trooper Down!』も出版されることが伝えられました。Billy Lafitteがそこから販売されることになるのかはまだ不明ですが、販売が再開された暁にはこちらの方も 速やかに修正する予定です。

今回マイク・ハマーに続く40~50年代ぐらいの作家をいくらか紹介する予定だったのですが、全体の量がかなり多くなってしまったため、余裕がありませんでした。その辺はまたいつかやれればと思うのですが、 今回これだけはと思ったのが、リチャード・S・プラザーのシェル・スコットシリーズ。しばらく前に他のところから出ていたのですが、販売が終了してしまいどこかからまた出ないかなと思っていたところ、 今回かなりお得なやつが販売されているのを発見。6~7作ずつのセットで全6巻。1作100円以下の超低価格で全作揃います。主にウェスタン作品を出版しているWolfpack Publishingより。
その他、最後の方で勢いという感じで雑に並べちゃったけど、この辺は気になる人もいるかと思うので、J. Todd ScottのChris Cherryシリーズと、Craig JohnsonのWalt Longmireシリーズの方は巻数が多いので 最初のだけを下のリストに入れときました。せめておススメ一覧にぐらいは早く入れられるよう頑張ります。

なんか戸梶先生の方は、久し振りに新刊発行より先に更新できたな。ちょっと今回は関連で色々読んでたのもあって新しく読めたのはありません。すんません。りんご町シリーズ5巻の方は少し長めになるそうですね。


マイク・ハマーについて書いてるうちに、あれについても書いとかなきゃ、ならこれも言っとかなきゃで思いのほか長くなってしまいました。本当はもう少し「通俗」として踏みにじられているあたりについても 書くつもりだったのですが。「通俗」で腹立てるなら日本のゲス本とか言うなよ、という考えもあるかもしれませんが、あの辺は根本的に作者のモラルが低すぎ、都合のいい善悪の線引きやら、あんなSMエロ描写を サービスと思えるほどこっちは下劣じゃない、などの理由で読んでいて心底不快になるので勝手にそう分類させてもらいます。日本のパルプを探求しようという意気込みで私がどんだけのゲス本読んだと思ってるんだい。 国内だとあんなもんでそこそこ稼いでるのも見えちゃうんで余計に腹立ちます。少なくとも復刻され現在読めるような「通俗」は、内容的には犯人当てクイズぐらいでも、読んでて不快になるようなことはなく、 ちゃんと楽しめるものです。つーかさ、アメリカとかにもきっとゲス本レベルってあるんだろうから、ちょっと読んでみたい気もある。色々さぐってるうちに本物のゲス本にぶつかったら、これがアメリカのゲス本だ! って騒ぐかもしれません。ただカバー見てエロだってわかるのわざわざ読むほど暇じゃないしな。犯人当てクイズ小説みたいなものも別にバカにしたり見下したりしてるわけでもありません。お気楽な娯楽として 楽しむことは全然悪いことだとも思いません。ただ、日本ではそんなもので誇大妄想で威張りくさる救いがたい層が存在するので、そういうやつらは徹底的にバカにします。なんかさあ、謎解き=頭脳労働=ホワイトカラー、 ハードボイルド=肉体労働=ブルーカラー、ぐらいの幼稚極まりない発想で上下つけてる層ってまだ存在するぐらいでしょ?まあ色々言い訳してみても、全体的なことで言えば、書いてる奴がどうしようもなく性格が 悪いということなので、やならもう見に来んな。
80年代以降のハードボイルドがまるで存在しないかのように全くまとめられていないのは重大問題である!→じゃあ言い出しっぺのお前やれ。という流れになってしまったと思うのでその辺についても何とか 努力していこうかと思います。色々書かなきゃならんことも山積みだけど…。もしかしたら本当にやるかも、ぐらいの微かな期待レベルぐらいでお待ちください。人生何があるかわからんしね。明日ダンプにはねられ異世界に転生するとか。


【追記】
なんかごちゃごちゃ面倒なことになっていた少し前のマッキンティの追記部分を削除しました。色々と錯綜した怒り任せの乱文を読ませてしまってすみませんでした。一時の勢いで感情的に書いてもろくなことにはならんのだけど、かと言って腰を据えてじっくりと批判文を書くほど価値のあるものではないしね。
結局、もう腐りきって倒壊寸前の既存のものに接続する形で新しいものを打ち建てようとして、接続部分の腐食を修正しようと無意味で無駄なあがきを続けてきたのだと思う。日本の翻訳出版にのみ存在する評論家などが好き勝手に自分勝手な意見を書いて読者の読ませ方まで偏向させる「解説」などというものは絶対に廃止すべきだというのが私の主張ではありますが、今後はそういったものについては一切言及せず、日本での翻訳出版についても特別な事でもない限りあまり触れない方針になると思います。
今回書いたあたりが自分が前から考えていたり、最近気づいたことで、今後はこういった方向で書いて行ければと思います。エルロイが暴走し、アンドリュー・ヴァクス、ジェイムズ・リー・バークが登場し、エルモア・レナードが注目を集め、その一方でブラック・リザードがぶち上げられる80年代から、ランズデール、ウィンズロウ、ルヘインが現れる90年代、そしてケン・ブルーウンの2000年代から現在のマッキンティに至る、日本では放置されたままの「ネオハードボイルド」以降のハードボイルドについても、誰かがまとめなければ。まあご覧の通り、80年代ぐらいは少しまとめ始めているので、そのうち書けるかな。
最近、やっとブルーウン ジャック・テイラー第6作『Cross』を読み始め、あまりの素晴らしさになんかこんな一人相撲頑張ってみてもどこにも届きゃしねえしぐらいの色々めんどくさくなって全部ぶん投げようかぐらいの気分が収まり、心が洗われました。こんな素晴らしい本読むためならオレ生きてる意味あるし、これが本当にすげえんだぞ、と叫んで一人か二人でも届けばこれも続ける意味あるんだろうね。ねえ、ジャックさん。



■ジョーダン・ハーパー新作!

■Anthony Neil Smith/Slow Bearシリーズ

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