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2018年6月9日土曜日

Hellblazer -Garth Ennis編 第2回-

またこれも随分と久しぶりになってしまったのだが、『Hellblazer』また続けて行きます。今回はガース・エニス編 第2回ということで、完全版TPB第6巻『Hellblazer:Bloodline』です。まだ第6巻かよ、トホホ…。まあ、結構昔の作品であり、もう語られつくしているのかもしれないが、自分で読めばそれなりに発見もあるもので、特にこの第6巻私的にはかなり重要でこれについては絶対に語らねば、ということもあったりするのである。そしてそれが、前回のWilliam Simpson実はかなりいいアーティスト、をこの6巻で気付いたように、7巻を読んでそうだったのか、と気付いて形になったものだったりもするので、なおさらちゃんと進めていかなければと思ったりもするところなのですが。まあかなりブランクが空いてしまったことへの言い訳も半分で曖昧なことをいつまでもダラダラ言っとらんで進めて行くと致しましょう。

【The Pub Where I Was Born/Love Kills】(47~48号)

別々のタイトルになっているのだが、こちらは2話続きのストーリー。
ノーサンプトンのコンスタンティンなじみの落ち着いたオールドファッションなパブ。FreddieとLauraの夫婦で永年切り盛りされてきたが、数年前Freddieは亡くなる。悲しみに暮れるLauraだったが、Freddieの”絶対に君を独りにはしないよ”という言葉を支えに、その後も一人でパブの経営を続ける。そして、その言葉通り、死後もFreddieはLauraを見守り続けていた。だが、そのパブの土地を狙う開発業者と結託したギャングが店に火を放ち、Lauraも命を落とす…。

前半はちょっとロマンチックでもあるゴースト・ストーリーだが、後半、事件に不審なものを感じ、調査に動くコンスタンティンが巻き込まれて行く事件はかなり陰惨な様相を呈して行く。
前編のペンシラーは引き続きWill Simpsonだが、後編はゲストとして以前17号を描いたMike Hoffmanが再登場しています。Delanoの【Fear Machine】のコンスタンティンが乗った列車がパニックになる回。(Hellblazer -Jamie Delano編 第3回-)インカーは両方Stan Wochという人で、前半Will Simpsonには合っていたようで結構いい雰囲気で仕上がっているのだが、後半Mike Hoffmanとは相性が悪かったようでちょっといまいちの感じに。Hoffmanはかなり硬い一本調子にも見える線を使う人で、それが独特の雰囲気を作り上げているのだが、Wochのシャープな感じの線と相殺されかなり中途半端な印象になってしまっている。ちょっとペンシラー/インカーの難しさが見える回になっています。
この6巻では表のそれぞれのストーリーと並行し、前の【Dangerous Habit】後半から登場している亡くなった友人Brendanの元妻Kitとの関係が深まって行く過程が描かれています。

【Lord Of The Dance】(49号)

クリスマス、街でコンスタンティンは憂鬱な顔でさ迷うゴーストと出会う。彼は遥か昔、キリスト教から異教として駆逐された神、ロード・オブ・ザ・ダンスだった…。

もはやこの世界に自分の居所は亡くなったと思っていたダンスの王様を、Chasら親しい友人たちとの酔っ払いバカ騒ぎに連れ出し、その力を取り戻させるというクリスマス・スペシャルという感じの心温まるストーリーというところでしょうか。多分そうなのだろうと思ってたけど、ロード・オブ・ザ・ダンスというのもアイルランドからのもののようで、ダンスの王様が元々のものとは違ってしまっていると言ってた同名の歌も調べればすぐに出てくるのだけど、それについては元を全く知らないのでさっぱりでした。ごめんなさい。とりあえず良い心温まるお話でした。
作画は2016年に大変惜しまれつつこの世を去ったイギリス・コミックの大巨匠Steve Dillon。この人については後ほど。いや、面倒なのであとでまとめてなどという意図ではない。何を隠そう実は今回は主にこのSteve Dillonについて語るためにやっているのである。

【Remarkable Lives】(50号)

通算50回記念の大増40ページスペシャル号です。
深夜、洗面台に置かれた鳥の死骸と鏡に血で書かれたメッセージを見たコンスタンティンは、Kitをベッドに残し、外出する。異形の者たちが見え隠れする森を、動く屍に導かれて進んだ先で待っていたのは、人類の歴史よりも長く生き続ける吸血鬼の王だった。彼はコンスタンティンを自らの配下に加えるべく説得を始めるが…。

メインのストーリーと並行し、それぞれ1ページを使って描かれたコンスタンティンと吸血鬼の王の過去から現在までが数回にわたって挟まれるという構成。コンスタンティンについては、Delano編の第2シーズンになる【The Devil You Know】で描かれる若き日の経験不足なままうかつに手を出して悪魔祓いに失敗し悲惨な結果を招いたニューキャッスル事件以後のことが主に語られ、その後精神療養施設に収容されていたというようなエピソードも描かれます。ジョン・コンスタンティンという人のDelanoが書いた過去については、母の胎内で自分より優れた人間になるはずだった双子を結果的に殺すことで産まれてきた、というのや、連続殺人鬼と関わり合いになったせいで父親が殺害され、自らの手で決着をつけるというのもありますが、こちらのニューキャッスルの方が選ばれたのは、エニスがこのエピソードを今後の展開に生かそうと思ったのか、それともシリーズの流れということで編集者と相談して決めたのかとか少し気になってみたりもします。以前いくつか見つけた日本でジョン・コンスタンティンというキャラクターについて書かれたものの中で、どこでもニューキャッスルについては書かれていたのだけど、一人の人間の人生としてはある意味それより重要かもしれない例に挙げたエピソードなどについては書かれていなかったところも多かったように思うので、結局キャラクターの「経歴」というようなものはどこかの時点で意識的に選択されたものになるのだろうな、と思ったり。
そして前回Garth Ennis編 第1回で言ってたWill Simpsonのアーティストとしての本当の実力がやっと見える作品です。まあ、どうやったってこの線の再現は難しいよな。

【Counting To Ten】(51号)

こちらも50号記念のスペシャル企画なのだろうと思うのだけど、エニスは1回休みで、ゲストにこちらも英国コミックを代表するライターJohn Smith(2000AD『Indigo Prime』など)と、まあ日本でももう紹介の必要もないだろう作画ショーン・フィリップスを迎えたワンショットです。

ちょっとした身近な厄介事を避け、気分転換に洗濯物をもってコインランドリーを訪れたコンスタンティン。一見平和に見えるコインランドリー、日常風景…。だが…。

淡々と、という感じで静かに話が進むにつれ、徐々にずれや歪みが拡大して行くように、日常風景の下に隠れていた不条理的な恐怖が姿を現して来る。この世界のあらゆる場所に恐怖は潜んでいてどこにも逃げ場はない…。
John Smithという人については自分もまだ最近の『Indigo Prime』を少しというぐらいで全然知らないレベルなのですが、活動はほとんど英国内に限られているものの、『Indigo Prime』や『Devlin Waugh』といった作品を中心に「The Smithiverse」というものも形作られているような作家らしい。ちょっと事情は分からんのだけど最近はあまり作家活動をしていないようで、2014年から3年ぶりに2017年秋期に2000ADで『Indigo Prime』が始まったのだが、なぜか3回目以降はKek-Wとライターを交代している。ウィキペディアを見ると、ウィリアム・バロウズからの影響などといったことも書かれていてかなり気になる作家であります。ちなみに前述の最新『Indigo Prime』にはそのバロウズも登場。しかしこのウィキペディアのJohn Smithと『Indigo Prime』書いた人かなりSmith氏に入れ込んでるようだな。そういう読者を作ってしまうような作家なのだろう。私もかなり気になってきているのでなるべく早く『Indigo Prime』あたりから手を付けてみるつもりです。
一方Delano時代から時々登場しているショーン・フィリップスだが、その時にも書いたけど、今とかなりタッチが違う。まあそれでも圧倒的に上手いのは変わらないし、こっちはこっちで好きなのだけど、どういう過程を経て今の画になったのかちゃんと追っていかなければと思うアーティストです。

【Royal Blood】(52~55号)

政財界の黒幕的立場であり、秘密地下クラブを経営するSir Peter Marstonがコンスタンティンに助けを求めてくる。彼のクラブの客のさる重要人物が、クラブ内で遊び半分に召喚した悪魔に取りつかれてしまい、行方の分からないその人物は今も残虐に人を殺し、その肉を貪っているという。
そして、その重要人物とは、ロイヤル・ファミリーの一員だった…。

降霊会で悪魔を呼び出し、名を聞き出して正体を突き止めたり、魔方陣を作ったりと、このシリーズをよく知らない人が思い浮かべる「魔法探偵」とかぅてこんな感じなのかもしれない。しかしそういうのについて回るなんとなくスタイリッシュみたいな要素は全くなく、コンスタンティン、悪魔、黒幕のどのサイドもひたすらダーティーなのがいいですね。でもそれが「スタイリッシュ」的なイメージがあるのは日本だけなのかな?オカルト探偵ということでは結構ハードボイルド寄りらしいドレスデン・ファイルとかもずっと読んでみようとは思ってるのだけど。いやもう何年も。Comixologyで買ったDynamiteのコミック版のシリーズもあるし。
ガース・エニスの『Hellblazer』は旧来からのホラー/オカルトストーリーに見られるような形の超常的な悪魔などの世界観が使われていて、そういう意味ではDelanoのものよりもシンプルでわかりやすい部分もあるのだけど、その一方でそこに関わってくる人間の底知れない残虐さといったものはエニスならではの恐ろしさがあり、このあたりからその辺が顕著に見えてくるようになってきます。それは「結局一番怖いのは人間だね」というような底の浅い教訓的なものではなく、悪魔などの異世界の「悪」は想像を超える程に恐ろしいものとして描かれる一方で、モラルが磨滅し、様々なロジックの混乱する中で悪とも考えず悪を行う人間の「悪」はその空虚さゆえに時にはオカルト的な暗黒より恐ろしいものとして現れる。やっぱりこういうものを書ける人だからこそ、あの悪意のみの「ゾンビ」、『Crossed』を創り出せたのだな、と改めてかなり後付け的に思ったりもします。
そういったガース・エニスのバイオレンス・シーンには、かなり色々なの見てる私でも時々は「度を越した」ぐらいに言いたくなるものもあるのだが、この全4話ではWill Simpsonがインカーまで一人でこなし、その辺をかなり迫力のある作画で見せてくれます。Simpson『Hellblazer』を代表する作品ということになるでしょう。あとストーリーの方では、この作品から、Kitとの同棲生活が始まります。

【This Is The Diary Of Danny Drake】(56号)

「俺は娼婦を買った!」突如地下鉄で自らの暗い秘密をわめき始める男にコンスタンティンは出会う。だがその言葉の中に魔術書グリモワールの名を聞きとがめ、男の後を追う。そしてその男Dannyがかつて悪魔と契約し、追い詰められていることを知るのだが…。

『Hellblazer』では以前25、26号のグラント・モリスンのを描いた『V for Vendetta』のDavid Lloydをゲストアーティストに迎えてのワンショット。カラーも含め、様々なテクニックを駆使した作画は本当に素晴らしい。このくらい自分のスタイルを持ってる人が途中で入ってくると、描き手によって読者とキャラクターの距離まで変わって見えるものができるというのが如実に見えてくる例でもあったり。バイオレンス要素は少なめのストーリーだが、やはり先に書いたようなガース・エニスの一つのテーマでもあるのだろう人間の暗黒が現れてくる作品です。

【Mortal Clay/Body And Soul】(57~58号)

Chasの叔父さんが急死。葬儀の後、墓地を散歩していたコンスタンティンとChasは埋葬されたはずの棺を掘り返し、遺体を運び去ろうとしている一団を目撃する。阻止すべく挑んだ二人だったが多勢に無勢で敵わず、遺体はいずこかへ盗み出されてしまう。車の行き先を突き止め、向かったコンスタンティンとChas。そこは政府委託の兵器メーカーの研究施設で、盗み出された遺体は兵器の人体に対する効果のテストのために使われていた…。

ここで再びSteve Dillonが作画担当として登場。49号ではゲストアーティストのクレジットがあったが、ここでは外されており、この少し後、DillonはSimpsonと交代し、エニス『Hellblazer』のメインアーティストを担当し、このコンビはその後あの『Preacher』を産み出すことになる。(私的にはまだ未読。すんません…。)
ではまずSteve Dillonとは何者なのか?1962年ロンドンに生まれる。コミックの仕事を始めたのは、16歳からという早熟の天才。結構初期、1981年頃のJudge Dreddを読んだのだが、まあDillonの名前は知っていて上手くても当然ぐらいに読んでいたのだが、この時まだ19歳ぐらいか。すでにかなり完成度の高い画を描いていて、当時メインのアーティストだったBrian BollandやRon Smithと完全に肩を並べるくらいのレベルである。1988年にBrett Ewins(Bad Company)らとアンダーグラウンド・コミック誌「Deadline」を創刊。その後のイギリスのそのシーンを牽引し、かの『Tank Girl』もこちらに掲載されたそうである。ガース・エニスとの出会いは1989年で、熱くコミックについて語り合い、それがのちの『Hellblazer』や『Preacher』につながることになる。えーっと、「Deadline」を始め自分ではまだ目にしていない部分も多くWikiからの部分が多いのだけど、経歴としてはこういったところです。
そしてこの作品。実際私はここに至るまでのDillonの作品の多くはまだ目にしておらず、かなり推測になってしまうのだが、この時期の彼の仕事はこの『Hellblazer』だけであり、少ないながらもいくらか見ている作品などから考えて書いてみるのだけど、私の考えではSteve Dillonの作風はこの作品をきっかけに変わる。そこんところについて語る前に、まずこのストーリーの続きを。申し訳ないのだがこれに関してはネタバレしちゃいます。

その研究所の所長は狂った男。研究のためという名目でいつの間にか破壊される人体を眺めることに喜びを感じていた。コンスタンティンとChasは捕縛され、その研究所の中で死者の魂が苦悶し、消滅するのを目撃する。離れた肉体が安らかにねむることを妨げられたため、その魂は次のステージへと向かうことができなくなってしまったのだ。

先に書いたようにDillonの画はかなり早い時期である種完成した画力の域に達していた。そして少し前の【Lord Of The Dance】でも以前に見たのと同様のタッチが見られる。だが、この2連作はそれまでのものと少しタッチでが変わっている。ベタによる陰影表現が減り、全体的には少し白っぽく見え、以前に比べるとスピードを殺したような線で形をとって行くように描かれている。最初はこれはまた何回か書いているペンシラー/インカーの齟齬だろうかと思ったのだが、ここではSteve Dillon:Artistのみのクレジットで、インカーは使われていない。推測されるのは、これは今回のストーリーに沿った少し実験的でもあるタッチなのではないかということ。
このストーリーではDillonは3つのタイプの人間の様相を描き分ける必要があった。まず、生きている人間、肉体を離れた魂としての人間、そして魂が去った後の物体と化した人間。この中で一番難しいのは、生きている人間と魂の去った後の死体を描き分けることであろう。Dillonが死体から描き始めたというわけではないだろうけど、描いていくうちにでもいかに魂が抜けて物体となった人間を描くかについては試行錯誤したものと思う。その結果、線のスピード感を殺し、ベタの陰影による立体感を減らし、動きの少ない構図を取るというような手法が使われたのだろう。しかし、そこまでタッチの違うものを死体にだけ適用したのでは全体的にはそこだけ浮いたアンバランスな画になってしまう。そこで、当然ながら全体にそのタッチを適用する。ここでひとつの逆転現象が発生する。そもそもは生きている人間をベースに物体となった死んでいる人間を描き分ける作業として始まったものが、物体である人間の身体をベースにそれに魂の入った生きている人間として描き分けるという形に変化して行くのである。では物体に魂の入った人間はいかにして生きている人間になるのか?それは身体の各部分における力や運動という形で表現されるものになるだろう。そしてそれを描き分けるという作業も常に人間の身体の構造を考えながらというものになる。その過程でDillonはある認識に至ったと私は考える。それは人間というものは骨格の上に、筋肉諸々を含んだうえでの皮膚が乗った構造物であるということ。ただね、これは特別に新しい認識ではない。おおよそ画を描く人間ならば、そして特にマンガ/コミックやアニメーションなんかもそうだろうけど、様々なシチュエーション、構図やアングルで人間の動きを連続して描く必要のある者なら、どこかの時点で必然的にたどり着くひとつの認識であり、ましてDillonほどの天才ならかなり昔に一旦は気付いているはずの事実であろう。だがDillonはそこに新たな意味を見出す。このガース・エニスによって書かれたストーリーの中で。
この二連作には何かうまく言えないのだけど、何かしら不安感というようなものを感じる。人間の肉体には魂が宿っていて、死ねば魂は肉体から離れ、別の世界へと昇って行くというのは太古から続く宗教とかを越えた一つの考え方である。だがここでは常にその考えの中で感じられた人智を越えた世界の無限な広がりは否定されているように感じる。骨格としての構造として描かれた人間は、そのまま世界の構造としての骨格を表象する。世界はお前に見えているよりはるかに広いけど、それは無限ではなく、行き止まる。何かずっと無限だと信じてた空が実は世界がそこまでのドーム型の天井で、その世界の果てが閉じられちゃったような不安感。これって実存的恐怖感ってやつじゃない?つまりこの天才アーティストSteve Dillonは物質であり構造であるという極めて実存的な「形」で人間-世界を描くことでオカルト・ストーリーの中に誰も見たことのない新たな世界を作り上げたのではないかというのが私の考えなのである。

そしてそのストーリーを語るのはガース・エニスである。物語の最後、その研究所で行われていることを知ったコンスタンティンは、壁に血で門を作り、研究所を取り巻く苛まれた魂をそこから導き入れ、施設内にソウルストームを引き起こす。嵐の過ぎた後には魂を抜かれたように立ち尽くす者ばかりが残される。兵士の一人から銃をもぎ取ったChasが所長の元へ向かうと、完全に正気を失った所長は自らの手で両目を潰し笑みを浮かべて感謝の言葉を繰り替えしながら立ち尽くしている。一旦は銃口を向けたChasだったが、思い直しその銃床を所長に向けて振り下ろす。繰り返し。血みどろになり壊れて行く銃床のみが描かれる。ここでは何が描かれているのか?Chasはその怒りで所長の肉体を魂もろとも破壊しているのだ!これがガース・エニスだ!

この後、続くSimpsonよる3作の後、『Hellblazer』のメインアーティストはSteve Dillonへと交代される。そこでもここで変化したタッチが引き継がれ、一旦はかなり細くした線を太くしながらスピードを殺し、世界の骨格構造の見取り図を正確に示すような水平垂直の構図を多用して行く。Dillonの画にベタによる陰影が戻るのは、続くTPB7巻の後半、おそらくは新しいタッチを完全にものにしたと確信した時点からになる。そしてここから始まったこのコンビによる「実存的オカルト世界」(仮称:この考えで正しいのかまだ確信がない)は続くTPB7巻にて恐るべき問題作【Fear And Loathing】へと到達する。そして『Hellblazer』のさらにその先には『Preacher』が?うー、まだまだほんの入り口に立っただけだよ。さらなる努力研鑽を続けねば。
と、説得力あるのかないのかぐらいなことを延々と書き続けてきたわけだけど、私もこの2作を読んだ時点でこれらのことが見えていたわけではなく、何か漠然とした違和感と不安感みたいな印象程度のことで、その【Fear And Loathing】にたどり着いたところで、うわ、Dillonがやってたのはこういうことだったのか、と気付いたぐらいのものである。やっぱり画というのは1作二十数ページぐらいでは見えにくいものなのかもしれない。そして、これらが私の個人的な推測であることを置いといても、おそらくはDillonはこんな形の理屈によって画を作っていったのではないと思う。別にDillonがこういった言葉上の理屈を組み立てられなかったというようなことを言っているのではない。画というのは常に描き手の目と手を軸とした身体で作られ、それはこんなくどくどした小理屈より遥かに高速で一つの結論を作り上げ、それはそれについての言葉が構成されるよりも遥かに早く次の結論を導き出し、更に上へと組みあがって行くものなのだよ。つまりマンガ/コミックというのは極めて身体性に近いという意味で一つのライブパフォーマンスであり、またそれぞれが別の人間の手によるものであっても、常にアーティストの手を通して完成されるという形で画とストーリーというものは不可分のものなのである。
うぐぐ…、書かねばならんと思ってたこととはいえ少々このパートが長くなりすぎたか…。まだ続きあります。

【Guys & Dolls】(60~61号)/【She's Buying A Stairway To Heaven】(62号)

こちらは前回の【Dangerous Habit】の続きとなるストーリーで、コンスタンティンはまた地獄の王と相まみえることになるのだが、その前にあるキャラクターのことを確認しておかなければならないのだけど、前回のを見てみたらやっぱり書いてなかったか…。実は43号で、天使ガブリエルに助けてもらおうと会いに行くところの前に、コンスタンティンは黒髪のEllieと呼ぶ女性と会って、地獄の様子を聞いているシーンがある。こいつは最後に恐ろし気な笑みを浮かべたりして、明らかに魔族関係者らしいのだが、あれー?こんな人以前に出てきたっけ?と正体がわからず、読んでいるときも保留という感じで、前回はそこのところも省略してしまっていたのだが、やっぱり以前に出てて私が忘れていたわけではなく、ここでやっと正体が明らかになるわけだったのである。こちらガース・エニス『Hellblazer』のメインストーリーの続きで、書いとかないとあと説明しにくくなるので、またしてもネタバレしちゃいますのでよろしく。

彼女は地獄の片隅のわびしい自分の庭園で花を摘む。そしてそこに地獄の王が現れる。遂に彼女とコンスタンティンの関係がばれてしまったのだ。大急ぎで行く先も確かめず現世へと脱出した彼女は、テムズ川の底へと落下して行く…。

Ellie-Chantinelleは魔女Triskele配下のサキュバス。地獄の王はTriskeleにChantinelleを捜すよう言いつける。だが、TriskeleにもChantinelleの行方はわからず、彼女もChantinelleとコンスタンティンがどういう関係なのかはわからない。
一方、地上ではコンスタンティンが逃亡して隠れているChantinelleを見つける。経緯を聞いたコンスタンティンは自分に考えがあると言う…。(60号)

ちなみにTriskeleは【This Is The Diary Of Danny Drake】でDannyが契約した悪魔。美女の頭に脊椎の蛇のような胴体の化け物。そして続く61号では過去のコンスタンティンとChantinelleの関係が語られる。

1984年のクリスマスの近づくある夜、コンスタンティンの住むアパートのドアがノックされる。そこに立っていたのは一組のカップル。女の方は臨月で大きな腹を抱えている。「ジョン・コンスタンティン、あんたの助けが欲しい…」
そして二人は人間の装いを捨てて真の姿を現す。二人の背には翼。白い羽を背負う男は天使のTali。そして彼女、サキュバスのChantinelleの背には黒い翼。
天使を誘惑しようとしたChantinelleだったが、Taliの純粋さに心を奪われ、二人は禁断の恋に落ちてしまう。そして今、Chantinelleの腹の中にはTaliの子供が宿っている。天にも地にも逃げ場を失った二人はコンスタンティンのうわさを聞きつけ助けを求めに来たのだ。こんな状況を面白がって手を出して来るのは奴ぐらいだと。
コンスタンティンは廃屋に二人を匿い、印を刻み彼らを隠す。そして地獄の情勢を探りに行くのだが、二人を追っている気配もない。何かがおかしい。彼らは何に追われているのか?そして二人を隠した廃屋に戻ってみると、Chantinelleは出産が近づき苦しんでいた。
その時、廃屋の荒れ果てた庭に天使の一団が現れる。
彼らを追っていたのは地獄からの追手ではなく、天使たちだったのだ。コンスタンティンの印は悪魔から彼らを隠すことはできたが、天使には効き目はない…。天使たちの矢はTaliを一瞬で焼き尽くし、そしてChantinelleの産み落とした赤子は彼らの手でいずこかへ連れ去られる…。
だが、それらはすべてコンスタンティンの印により地獄からは隠されていた。そしてChantinelleは地獄に戻り、コンスタンティンとの関係も知られることなく過ごしてきた。今日までは…。地獄の王はコンスタンティンを捕えるため、Chantinelleの居所を捜し、残された時間はもうわずかしかない。そしてコンスタンティンは計画を実行に移す…。(61号)

地獄。王とTriskeleは亡者の腹に作り出した鏡でChantinelleの行方を探る。そして遂にその居所が映し出され、二人は地上へ向かう…。
廃屋の中には大量の血痕が残されている。既にChantinelleの姿は無く、シャツを血に染めたコンスタンティンは少し憔悴した様子で外に出て煙草をくわえる。
そこに地獄の王とTriskeleが現れる。
だが、彼らもChantinelleの居所を掴めない。問い詰める地獄の王にコンスタンティンは答える。
彼女の魂に印を刻んだ。もうお前らにはどうすることもできない。そして彼はさらに続ける。
俺はこれで3回あんたをやり込めた。ハット・トリックだ。これでもうあんたは俺に手出しできないんだ。
地獄の王は怒りにたぎる眼でコンスタンティンを睨みつけ、そして去って行く…。

Chantinelleの身体からはもう傷は消えている。だが、魂には確実に印が刻まれ、これで彼女はもう地獄へは戻れず、地上で暮らし続けるしかない。コンスタンティン、この借りはどう返したらいいの?
「ああ、俺には計画がある。」
そしてその計画を聞いたChantinelleは悪魔の笑みを浮かべる。あんた狂ってるよ…。

かくして【Dangerous Habit】で起きた地獄の王との諍いは一応の決着を見る。しかし人間コンスタンティンにここまで馬鹿にされ、このまま引き下がるとは到底思えないわけで、いずれまた何らかの展開があるのでしょう。最後に出てきた今は明かされないコンスタンティンの計画については、続くTPB7巻で。ちなみに3回負かされたら手が出せなくなるというらしいルールについては、申し訳ないのだがよくわからない。相変わらずオカルト関係には弱いもので。まあ、そう言うんだからそうなってるのでしょう。
作画はWill Simpsonに戻るのだが、今回はペンシラーのみで、インカーはMike BarreiroとKim De Mulderという二人の名前がクレジットされている。Simpsonも【Dangerous Habit】の頃と比べると、随分インカー前提の作画に慣れたようだけど、やはりどうしても【Royal Blood】に比べると迫力に欠ける画になってしまっている。だがこの二人のインカーが悪いと言っているわけではない。それなりに実力はある人たちなんだろうけど、ペンシラーSimpsonとの相性があまりよくなかったというだけのことなのだろう。Will Simpsonという人はなかなか自分に合ったインカーを見つけられず、この『Hellblazer』ではいまいち実力を発揮できなかった人なのだろう。これ以降はSteve Dillonと交代となり、結果的には前述の【Royal Blood】が『Hellblazer』における代表作ということになるのだろうが、繰り返し言うが、同作はかなりのグロテスクな迫力に満ちた素晴らしい作画であり、Will Simpsonというのは大変優れたアーティストであると私は思っております。

いやはや、Garth Ennis編 第2回TPB第6巻『Hellblazer:Bloodline』もこれで何とかやり遂げたわけでありますが、しかしこれずいぶんバランスの悪いことになっちまったな…。とにかくSteve Dillonのアレについては書いておかなければ、と思い延々語ってしまったのだが、普通に読めばこの第6巻はSimpson画による【Royal Blood】、【Guys & Dolls】がメインとなっている本なのだよね。個人的なこだわりで本全体の印象を間違って伝えてしまったのではないかと心配しとるのだが、まあそういうものがあるからこそこんなことを続けているのだ、ということで勘弁してやってください。Dillonについても本当は本格的に活躍する次巻で書いた方が良かったのかなと思ったりもするのだが。とにかくチラッと予告した通り続く第7巻ではエニス-Dillonによる衝撃作【Fear And Loathing】も登場するので、今度こそあまり間が空きすぎないうちに次回Garth Ennis編 第3回をお届けする所存であります。

なんかまたしてもえらく遅れてしまったのだが、今回は実は5月GW終盤ぐらいに引っ越しのタイミングが悪くて延々遅れていた部屋へのエアコンの取り付けがやっと完了し、それに伴いしばらく中断していた片付けを再開していたりしたためだったのでした。にゃんか今日こそは書かなければと開いてはおくのだけど、なんだかんだで時間も体力も尽きて果たせず、みたいな日が2週間ぐらい続いてしまったのですよ。申し訳ない。まあまだ完全には終わっていないのだけど、とりあえずやっと部屋のドアも閉められるようになりひと段落というところです。早く次にかからねば、というところなのだけど、まあ遅れついでというところでちょっと気になってることを書いておきます。
つーのはあのティリー・ウォルデンさんのこと。日本版『スピン』が出たのってこっちが引っ越しでバタバタしてた頃なのかな。えらくそこのページビューが増えた時があったのでその辺なんでしょう。ともかくこの素晴らしい才能が、日本の状況からすると比較的早くぐらいに紹介されたのは喜ぶべきことなのだが、ちょいと気になることもあったり。いや、何もアマゾンとかで見た感想とかにケチを付けようとか言うことではないよ。まあうっかり深く探ってくと文句言いたくなるのも見つかりそうで怖くて2,3チラッと見ただけだけど、まじめに読んで自分の思ったことをきちんと書いてる人に文句を言うつもりなどはない。こちらもそこまで頭おかしくないから。ただこれがLGBTの女性が自分のことを書いたバイオグラフィのマンガという部分でしか紹介されて読まれていないように思うのが少し心配なのだよ。なんか世の中には「よいマンガ」と「悪いマンガ」があるみたいなことを言い出す本当に迷惑な人も多くて、そんな類いの人がよく「文学性」みたいなことを言い出すのだけど、まあその「文学」っちゅうのがほとんど私小説のことでトマス・ピンチョンのことすら入ってない場合も多くて、またそんな私小説至上主義から進化しない文学観のその一方で、実話をもとにした、みたいなのをさしたる考えもなく構築されたフィクションよりも上位に置く「現実とフィクションの見分けがつかない人」も多い日本の現状でしょう。うが、また罵倒モードに入りかけてるか?いやさ、『スピン』を優れたバイオグラフィ方向の作品として読むのが間違ってるとは言わない。しかし今また私が拳を振り上げそうになって頭を掻いてごまかした風で書いたような日本の「よい本」を取り巻く現状で、そういう読まれ方に偏ってしまうのはこの優れた才能の日本での受け止められ方を狭めてしまうのではないだろうか、つーこと。ティリー・ウォルデンはもっと広くマンガを読む人に読まれるべきであるということ。例えばさ、ティリー・ウォルデンっていうのは多分90年代ぐらいだかに少女マンガが女性マンガへと分化する辺りで双方から失われたか引き継ぐ才能が現れなかった少女マンガのある可能性だって表現できてるかもしれない作家なんだぜ。しかもそれは彼女の才能から見れば、日本のマンガ好きがいくらかなぞれた一部分で、彼女がこれからどれほどのものを表現できるのか計り知れない。日本も海外もよいも悪いもカンケーねえ、オラは優れたマンガがあれば必ずそこに行くのじゃい!という正しいマンガ愛を持つ人はどうかティリー・ウォルデンを読んでおくれよ!あと、ティリー・ウォルデンも時々というかよく使う手法でマンガ/コミックでよくみられるやつで、なんか画を描かない人の多くが勘違いしてるのをよく見かけるので一言言っとく。あれ。ページを均等にコマ割りし、同じ構図を続ける奴。なんか単純なコマ割りだとか言ったり、中にはカメラを動かしたりアングルを変えたり見たいなカット割りができないからやってると思ってたり、ひどいのになると手抜きだとか言い出したりするんだけどさあ、まず基本。別にちゃんと画なんか描けなくたっていいからおんなじ大きさの四角を二つ並べて、一方に丸に手足棒でいいから、頭から足まで入った人間描いて、もう一方に同じ人間描いてみ。頭の大きさから手足胴体のバランスまできちんと一致させるの結構面倒なのわかるだろ?もっと画が描ける人間だって同じことなんだよ。一つ絵描いて、隣のコマは全く別の構図を描いた方がはるかに楽で、作業時間も短くて済む。だからな、これは自分の狙った効果を出すためにわざわざ手間暇かけてやってることなんだよ。そのくらいわかれよ!ティリー・ウォルデンはその手法でミニマル的に物語を進めつつ、その後ろでは静かなメロディーが低く流れ続けていてそれがコマが大きくなるにつれ徐々に大きくなって行ったり、一気に響き渡ったり、あるいは突然ミュートされブレイクが入ったり。音楽的な比喩で言えば、ティリーさんの文章は歌詞というよりもむしろメロディーのようにも感じられる。そしてそれが遥かな天空の高見にまで登って行く美しさにはもう涙せずにはいられないよ。でもさあなーんかティリーさんに関してはこーやって技法的に解読しようとしちゃったりするのが却ってその世界を限定して狭めちゃってるような気もするんだよな。あと同じ大きさ構図のコマが並ぶテクニックについては、ティリーさんについてはミニマル的って方向の使い方だけど必ずしもそれだけではなく、例えばかの天才アラン・ムーアについては、作品を完全に自分の組み立てたリズムで読ませるための手段としても使っており、最近では同じテクニックをよく使うトム・キングなんかもその方向かと思う。こー並べて書くとトム・キングがムーアみたいな恐ろしい人に見えてしまうかもしれないけど、もう少し温厚な人だよね。多分。まあとにかくせっかく翻訳されたこの新しい素晴らしい才能を独りでも多く読んでくださいということでで延々と書いてきたわけだが(え?そんな真っ当なことを言ってるようには見えない?)、私的には以前に書いたように原書TPBを発売日に予約して買ってしまったので、日本版については持っていない。だからおめー何言ってんだよ、んなこと本の解説やあとがきでもっと理路整然と上品に書いてあるよバカ、ってことになってたらごめん。まあいつものもったいないで少し手を出さないでいるうちに引っ越しもあったりとバタバタして、ようやく最近読み始めまだ4分の1ぐらいというところなのだけど、まあティリーさんの「もしもし?お姉ちゃんの買い物メモ読めないんだけど…。コーフって何?豆腐を買えばいいの?それとも高野豆腐の略とか?え?コーラなの?これコーラって書いてあるの?」的な手書き文字を時々は「解読」しながらぐらいののんびりペースで読むのはいい感じでやんす。まあさ、以前はこんなすげーのがあるのに日本で誰も何も言ってないのはまずいじゃん!ってことで準備もないまま勢いでティリー・ウォルデンのことを書いたわけだけど、こうしてちゃんと翻訳出るってことは、どういう形にしろ読んでるところは読んでるってことでしょ。例えばさ、昨年最大の話題作といえば今年のアイズナー賞にもノミネート中の、恐るべきテクニックを駆使しつつ罫線の入ったノートにボールペンでというマンガ/コミックの初期衝動のような形で作られたEmil Ferrisの『My Favorite Thing is Monsters』だなんてことは世界のコミック・ファンの常識だけど、日本じゃ一向にせいぜいサム・メンデスが映画化権取得を交渉中(あれをホントに映画化する自信あるのだろうか?)みてーな2次情報ぐらいしか見つからんのだけど、まあ読むとこじゃ読んでてもしかしたらひょっこり翻訳も出るのかもね。あれはデザイン的に相当難易度高そうだが。しかし本当に素晴らしい作品なのだけどテキスト量とかも多くてまだしばらく読むのにかかりそうだよな。Fantagraphicsものじゃまずの『Love & Rockets』だってまだ兄弟それぞれの最初のを半分ぐらいだしなあ。色々読み散らかしてんのが悪いのもわかってっけど読むのが遅いからこうするしかないんだよう。とまたぼやきモードに入ったところで、本当はお引っ越しで発掘し一気読み再読(所要時間約2か月だが…)した池上遼一『男組』のことも書くつもりだったのだが、案の定ティリー・ウォルデンのことで相当長くなってしまったので次の機会に。いや、いらんと言ってもいつか必ず書くからな!ということで、ではまた。
書き終わってプレビュー見てみたらコミックの事書いてんのに延々と字ばかりで、さすがにまずいと思って『スピン』足してみたけど焼け石に水だな…。もうちょっと考えるっすよ、スマン。
あと『Hellblazer』のリストは多くなりすぎて面倒なので私担当の旧作だけにしました。ごめんねー。


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■Hellblazer

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●John Constantine, Hellblazer



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