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2021年3月20日土曜日

あれとあれを読んだぞ

なんじゃこのタイトルは。SEO対策にも何にもならんじゃないか、というところなのだが、年末ごろに言ってたあれとあれを読んだので報告いたします。
で、件のあれとあれとは、まずは米国犯罪小説ジャンルで、昨年夏に発行されて以来評判はうなぎ上り、今年は更に決定的に注目度が増すであろうS. A. Cosby作『Blacktop Wasteland』!
そして年の瀬頃、他の本をアマゾンで見てるときにうっかり見つけてヤバいこれ読まなきゃ!と入手して読んだシャネル・ベンツ『おれの眼を撃った男は死んだ』!
どちらも絶対に語っておかなければならん素晴らしい作品なのですが、まあ『Blacktop』多分確実に日本でも出るし、『おれの眼~』の方は日本で出てる翻訳作品やしということで、 ちょっと軽めに2本立てでお送りいたします、ということ今回はね。


【Blacktop Wasteland】
というわけで、まずはこちら『Blacktop Wasteland』から。昨年7月に出版されてからすぐに周辺犯罪小説作家の間で非常に評価が高く、こりゃあ今年最大の話題作やなあ、と思ってて、 11月頃にちょっと雑談的なのを書く機会にこれプッシュしたろうと思い、はーい、コイツが今年のワシらの注目作だようという感じで書きながら、久し振りにアマゾンのページ見に行ったら あれ?なんじゃこれ?ぐらいの騒ぎになっていたという次第。
まあそんなわけで年末ごろはプッシュが今ひとつ中途半端な感じになってしまったわけなんですな。いや、あんなことになってると知ってたら もっと最初から大騒ぎして行くよ。
去年の時点でもう数々の大物作家からの絶賛がずらりと並んでいたんだが、年明けて今日見に行って見ればあっちこっちの昨年のベストミステリって評価が ズラリだ。あっちにゃ載ってないが、私が絶対的に信頼するAnthony Neil Smith先生だって絶賛しとるからね。まあ年内にはなんかの賞にのっかって肩書も付き、 来年ぐらいかな?日本で翻訳も出るのはまず間違いないやろ。またそれ待ってたら読むのが果てしなく遅れてしまう、というわけでここで読んでみたというわけ。
なんかそーゆーの 基本的にはあんま好きじゃないのよ。ほらー、いるじゃん。もうすぐ日本で翻訳出る話題作を一足先に読みましたー。ボク英語読めマスんでー。みたいなヌケ作っぽいじゃん。 ただなあ、やっぱ日本で出るの待ってるとタイムラグでかいのよ。ホント。ちゃんと話題作のうちに読みたいじゃん。
あとさあこんなの当然出るだろってずっと言ってるけど、ホントは3割ぐらい信じてないのよ。
だってよう、ここ数年ぐらいのを見たってマッキンティに、ビル・ビバリーに、ルー・バーニーに、ジョーダン・ハーパーにってハードボイルド-ノワールジャンルから続々すげーの翻訳されてたって そんなジャンル存在しねえみてぇな面してんのがこの国っしょ。なんか結局ワシ一人だけこの辺境で騒いで終わって スルーされちゃうんじゃないの?って可能性もありますんで、せっかく読んだんでちょっと書いときます。なんかいけすかねーと思う人は、日本で出るのが絶望的になったあとで読みにくればいいんじゃないかな。
と、また無駄に前置きが長くなっちまった。今回2本立てだというのに。それではちょこっとあらすじを紹介しまーす。S. A. Cosby『Blacktop Wasteland』!もうすぐ日本で翻訳出る話題作を一足先に読みましたー。ボク英語読めマスんでー。

主人公はBeauregard Montage、通称”Bug”。ヴァージニア州の田舎町レッド・ヒルで自動車整備工場を営んでいる。妻と幼い二人の息子と暮らし、 離婚した前妻との間にもハイスクール卒業を間近にした娘もいる。
近年近くにオープンした新しい同業のお陰で、彼の整備工場は経営困難に陥っている。ホームに入所中の母親のためにも新たな出費が必要になった。遂に金策も尽きた。
昔の仕事に戻るしかない。…一度だけだ。

彼の父は一流の運転手だった。ホイールマン。犯罪現場からの逃走車やヤバいブツ運搬のプロフェッショナル。
Bugが子供の頃、何も告げずに姿を消し、そして2度と戻ってくることはなかった。
彼は父が好きだった。
唯一父が残したチューンナップされた愛車ダスター。彼はそれを守り続け、今も整備工場のガレージの一画で雌伏している。
彼には父から受け継いだ運転の才があった。廃棄物処理場を経営する、地元の犯罪の元締めである叔父の元、数々の仕事をこなし、ミシシッピ以西最高のホイールマンと呼ばれた。
だが、それは昔の話だ。彼は犯罪の世界から足を洗い、今は夫として、父親として、平和な家庭を守って暮らしている。
しかし今、その普通の暮らしが危機にさらされ、そしてそれは一回の違法な仕事で賄える。
一度だけだ…。
そして彼は再び銃弾と裏切りの非情の世界へと戻って行く…。

かつて彼の父は言った。
-人は同時に2種類の獣でいることはできない。
家族を愛する良き父親であるBeauregard。
冷酷非情なプロフェッショナルBug。
果たして彼は2種類の獣でいることができるのか?

名作!恐るべし!終盤辺りじゃ読んでて何度もプチめそめそした。会社で昼めし食いながら読んで。S. A. Cosbyはこの犯罪小説の歴史の中で繰り返し書き継がれてきたストーリーに新たな息吹を与えた! ってとこだぜ!こんな素晴らしい作品日本に翻訳される必要全くなし!!
どうせあれやろ、こんな傑作読ませたって、「よくある話」だの「ありきたり」だの言ってりゃ格好付くと思ってる脳死気取り屋まだ山ほど生き残ってんだろ。【意味:現実の刑事が一生出会わない不可能犯罪でも、 スケールのでかい(笑)国際謀略でもなく、現実にありそうな犯罪を描いた作品に、こういう言い方をすればなんか見識があるとでも思われると勘違いした底辺阿呆が捏造した決まり文句。同じ口でリアリティが どうのとか言い出す自分の言ってることすらわからない○○(さすがに自粛)。なんかそんなのを見てワーカッコイイーと思った間抜け共によって使い続けられている。ちなみに「ありきたりの 犯罪小説ではない」、「ありきたりの設定ではあるが…」なども同レベル。「ありきたりの犯罪小説」なんてもんが本当にあるってえなら、今すぐここで30個ほど並べてもらおうじゃねえか!そんな 安い常套句よく考えもせずに平気で使ってるレベルで評論家だの研究家だのを自称するたあとんだクソ笑い種だぜ!】新罵倒手法。

優れた作家は常に既に書き尽くされたと思われたラインに新たな物語を創り出す。 昔ながらの手法を踏襲しつつ、新たな鮮烈な輝きを見せるケイパーストーリー。家族愛。そしてその対極にある現代の犯罪小説では 見慣れた風景となったトレーラーハウスのローライフ。これまでに創られた犯罪小説の集大成にも見え、そして同時にここからの新たなスタート地点にも見える。

一通り読み終わった後に、 あらすじを組み立て直して自分が何を読んだか考えるみたいな、小学校で教わった感想文の書き方から卒業できねえ奴なんてお呼びじゃねえ。どっかで一つ二つ似たような話を見たことがあるってんで 途端にマウント取れたと思い込んでるんじゃ、昨日今日本を読み始めたお子様でーすって触れまわってるだけだぜ。そんなこともわからんかい。まあ、ボクたち読書のプロ!スティーブン・キングなんて ただのホメホメおじさん!作家なんかがいっぱい本読んでるボクらに敵うわけないだろー!なんてヘソが空向くぐらいふんぞり返ったクズ共がいつまで経ってものさばってるこの国じゃあ、 野良レビューが「マーク・グリーニーに比べれば」ぐらいの信じがたいほどの低レベルまで劣化したって全く不思議じゃないよなあ。なんだい。この国にこんな素晴らしい小説が翻訳される価値なんて あるのかよ!?

ああ、素晴らしすぎる本を読み、日本の状況を考えると、果てしなく口が悪くなる…。いつものことながら。このくらい口が悪くなるほどの傑作だとご理解いただけまいか。 どう考えてもこれほどの作品が翻訳されたとしてもろくなことにならないし、どこか小規模でもまともに評価されるかも怪しいとしか思えない。だがそれでも可能ならば翻訳されるべきなのだろう。 この国にだってごく少数だろうが存在する、心からハードボイルド、ノワール、犯罪小説を愛する人たちのために。自分の身の回りにあるものを全て自己顕示欲発揚の場だと思い込み、 本を読んだ感想にまでそんなものを持ち込むほど頭の悪くない、心から楽しんで本を読める人たちのために。そして私は信じているのだよ。いつだって新たにこのジャンルの素晴らしさ、 美しさに目覚める若い世代だって必ずいることを。例えば、数年前ビル・ビバリーの『東の果て、夜へ』を読んで深く感動し、マッキンティ、ルー・バーニー、ジョーダン・ハーパーを 読み継いできた若者が、今この『Blacktop Wasteland』を手に取るのだ!素晴らしいじゃないか!世の中にまともに本も読めない愚鈍が何万人いようが、その一人で充分に翻訳される意味があるぜ! 愚劣な読書のプロがどんなに無視してそんなものは存在しないふりをしようが、ハードボイルドは決して終わらん!奴らはすべてのラスタマンを殺せはしない!状況はすべての予言者を殺せはしないのだ! ボブ・マーリー神、および狩撫麻礼/谷口ジロー作、伝説の『青の戦士』より!そしてこの大傑作は、君のために日本に翻訳されるのだ!うーんと、まあ私の見立てでは7割ぐらいの可能性で…。

さて、せっかく出るかもしれないんだから楽しく予想とかしてみよう。まあ順当にいけば早川からで、ポケミスかな?あー、でもポケミスブランドで出たからって読む読書のプロとかいて、 どーせロクなことに…。まあいいか、もう放っとけ。もし早川から出るんなら間違ってもNVなんかで出した上に業界寄生虫のお小遣い稼ぎハナクソ解説擦り付けてくるような蛮行は絶対に勘弁してくれよな! 聞いてなかろうがちゃんと釘さしたからね!もしホントにそんなことしたら刺したやつトンカチでガンガン叩いて全力で打ち込むかんなっ!その他には、お馴染みリー子が絶賛しているところから、 何らかの映像化フラグは立っていることも確実と思われるので、角川という線もあるかもな。なんかの間違いで講談社が版権を取得しちまったら、確実に2分冊にされるので、諦めて上下巻 2冊買おう。

S. A. Cosbyの長編作品はこれ以前に2作あり、2015年に出た最初の『BROTHERHOOD OF THE BLADE: THE INVITATION』はファンタジー作品らしい。2作目2019年の『My Darkest Prayer』が初の犯罪小説 長編となるようだが、これは今んとこプリント版のみで電子は未発売。まあそのうちすぐ出るやろ。あっちこっちのアンソロジーなどに短編作品を出して地道に頑張って遂に花開いたという尊敬すべき作家。
あの伝説の「Thuglit」にも3回登場し、最終号のはワシも読んどる!いや、これ書いてる途中で気付いて自分の書いたの読み返してきたんだけど(Thuglit: LAST WRITES -さらば、Thuglit!:2016年8月)。 あーあれか!あれはいい作品だった。てゆーかこれ、この『Blacktop Wasteland』の原点じゃん、明らかに。興味がある人は読んでみればいかがでしょうか。『Thuglit: LAST WRITES』は傑作揃いなので、絶対損しないよ。まあ早川から出てちゃんと推して来るならミステリマガジンに訳されてくるかもしれんやつやろうね。
そして2019年アンソニー賞の短編部門を受賞し、通の間で注目が高まってきたところでこの『Blacktop Wasteland』が爆発したというわけだ。既に次作『Razorblade Tears』の本年7月発売も決定しておる。 今後素晴らしい作品を山ほど出してくれそうな、今一番期待される作家である。なんか子供じみたウケ狙いで、聞きかじりの情報からもうこの人は作家を廃業してどっかの運転手をしてるとか、 得意げに並べて見せる不届き者がまたぞろ現れんとも限らんので、読書のプロのデマ情報にはくれぐれも注意しよう。


【おれの眼を撃った男は死んだ】
なんかなあ、短めに書くつもりだったが結局いつも通りじゃん…。まあ気を取り直して次に行こう。シャネル・ベンツ『おれの眼を撃った男は死んだ』!東京創元社より、昨年5月にハードカバー版で発売されている。なんかシャネル・ベンツって名前、ジャンプマンガに 出てくるギャングの女ボスみたいだよね。全部の指に高そうな指輪してんの。決め台詞はゴージャス!とかな。こらこら、子供じみたウケ狙いでよく知りもしない作家に変なイメージ付けんなよ…。
O・ヘンリー賞受賞。こちら文学作品なので、読書のプロよりは少しまともな筋からも書評・レビューが出てそうでちょっとめんどくせえな、とも思うが、知ったことか!で我流で行こう。 いや、なんかそういうのと違ってたらどうしよう、とか言うんじゃなくて、その逆でおんなじこと言ってたらちょっと恥ずかしいかも…、ってとこなんだが、構うものか、と自分に言い聞かせて 進むのだ!それでは行くぞ!シャネル・ベンツ作『おれの眼を撃った男は死んだ』!ゴージャス!

こちら10篇の作品からなる短編集。頭から行くのが通例かもしれんが、今回はバラシて行ったり戻ったりしながら語って行く。まず最初は、一見一番わかりやすそうな5番目の「オリンダ・トマスの 人生における非凡な出来事の奇妙な記録」から。19世紀前半の黒人奴隷という立場からその知性により運よく救い出され、詩作とその朗読で各地を巡っていた女性による手記。冒頭に彼女に同行していた 白人男性の弟によるこの手記が書かれた経緯などの紹介文が掲載されている。だが、そこに作者によるあるトラップが仕掛けられている。これはそもそもがフィクションであり、オリンダ・トマスなる 人物もその手記を発見し、出版した男性も存在しない。この短篇はその紹介文なしに書かれていても19世紀の黒人差別の悲惨な状況を描いた優れたフィクション作品として読める。だが、このこちらも完全な フィクションである発見者による紹介文を付けることで、オリンダ・トマスという女性はより強くあたかも実在したように見え、ストーリーの迫真性は増して見えるのだ。嘘の嘘は真実。この逆説的というべき手法が、 このシャネル・ベンツという作家、この作品集を読み解く鍵となる。

そしてその手法を更に意図的に展開したのが7番目の作品「蜻蛉-スネーク・ドクターズ-」。こちらも過去の親族の手記を孫の男性が出版するにあたり追加した紹介の序文から始まるという形になっている。 内容はある事件に至るある一日の出来事を、兄と妹が交互に記すというもの。だが、その序文にはその妹はそれよりはるか以前の子供の時に亡くなっていて、そこにいるはずがないことが記述されている。 第一の仕掛けは、「オリンダ・トマス~」と同じくフィクションの序文によりこれが手記だと告げられること。まあ実際に読んでみればわかるのだが、この作品は兄と妹の2人によって交互に語られる 一人称視点の小説だが、序文に手記などと書かれていなければこれを手記だと思う人などいない。凡そ、手記というものをこんな形で書く人はいない。自分で書いてみようと少し考えてみればわかることだ。 作者も当然そんなことは承知で、意図的に仕掛けてきている。第二の仕掛けは、いないはずの語り手である妹。彼女の「不在」はその序文と、最後に加えられたあとがきによって物語的な「真相」として 告げられる。「オリンダ・トマス~」では彼女の「実在」を強調するのに使われた手法が、この作品では妹の「非実在」を強調する手段として使われているわけだ。こうしてフィクションに重ねられたフィクションにより、読者はこの物語を語り手によって書かれた手記と認知し、更にこの重ねられたフィクションによる「真相」から これを二重人格者によって書かれた手記、あるいはゴーストストーリーであると推測するわけである。フィクションに重ねられたフィクションの「真実」により、物語は曖昧な謎として現れる。

更にこの手法を応用したのが2番目の「アデラ」。この物語はそもそもが作者不明の伝承であると告げられ、若干遊び心も感じられるような注釈によりその体裁が強調される。物語の語り手は、 主人公となる女性の近所に住む兄弟姉妹の一人だが、その兄弟姉妹が何人いて、具体的な語り手である「わたし」が何番目であるのかは明確にされていない。それどころかこの語り手は 子供らしいというだけで性別すらも不明だ。こうして作者は、この物語の作者・語り手を何重もの手管によって限りなく曖昧にして行く。まあ多少こじ付け的に解釈すれば、シェイクスピアへの言及から、この物語はある種の演劇であり、語り手は観客ということなのかと考える。なんか伝承的な作者不明の劇として演じられてきたストーリーなんてのは、結構あるわけで、そのストーリーの次の作者というのは、それを観劇していた客であるから、ということなんだが、あんまりうまく説明できてなくて伝わらなかったらごめん。
ここまでに見てきたフィクションの序文や、偽の注釈により物語をある形に見せかけるという手法は、特に目新しいものではないだろう。しかし、ここでの作者ベンツによるこれらの作為は、 物語を作者から遠ざけるために仕組まれているように見える。つまり、語り手、または主人公イコール作者という読まれ方から。

シャネル・ベンツの特徴と私が考える逆説的手法は、少し違う形でも作品に取り入れられている。6番目の作品「ジェイムズ三世」。この物語の主人公=語り手はまだ幼い少年で、何らかの暴力被害に遭い、 心底怯えて街中を歩いているところから始まる。彼の前には入れ替わり年長の信頼できる保護者が現れ、それらに支えながら物語は進み、彼の恐怖するものが次第に明らかとなってくる。 このような物語で、主人公が力のない怯えた弱者であれば、それをサポートする保護者が現れれば読者は安心する。だが、それがこの物語の「逆」だ。そういった保護者が存在するがゆえに 物語中で彼自身は常に無力な幼い少年でいることから逃れられず、無力ゆえの恐怖に怯え続ける。そして無力ゆえに曖昧な恐怖の前で絶望と敗北に打ちのめされるのだ。
8番目「死を悼む人々」では、その「逆」が作品テーマとして現れる。主人公の女性は、自分を取り巻く様々な死と、これから迎えるかもしれない死に押しつぶされ、 周囲の様々な力にただ押され、従うのみで、ほとんど死人のような状態で日々を送っている。恐れていた最後の死を報せられた時、死人として生きていた彼女の心も死を迎え、その「死」により 「生者」として「死に返る」のだ。死の死は生。これも逆の逆は真という物語である。

「アデラ」の語り手の多重的な曖昧化に見られるような語り手、主人公の存在への思索も、シャネル・ベンツのテーマ、創作手法の一つである。4番目の作品「外交官の娘」。ナターリアという女性の ある時期に起こった出来事を中心とした人生の短い断片が時系列順を伴わない形で並べられる。読む者は当然これを時系列に沿ったりという形で並べ直し、物語の流れを掴もうと試みるだろう。 そしてこの物語の中で何が起こり、彼女がどんな運命をたどったかはおぼろげに見えてくるだろう。だが、それらを通じても何か主人公であるナターリアという人物が見えてこない。 これらのバラバラのピースを統合する人格であるはずの彼女、それらを繋ぐ思考の流れ、結果に至る理由を形成するナターリアという人物。推測ではあるのだが、作者は実際に起きたある事件から このストーリーの着想を得たのではないか。えーと、ある事件というのはなにか意図があって曖昧にしているわけではなく、イマイチ思い出せない上に、無精者ゆえちゃんと調べるのが面倒で 投げちゃってるだけなのだが、ひとつじゃなくていくつかあったと思うので、自分が曖昧に憶えてるやつをなんとなくイメージしてくださいね。そういうものにはいつもその主体となる人物の生い立ちやら、 様々な言動などから推測された心理学的だったり、精神医学的だったりする解釈がされている。だが、少なくとも私にはその解釈が本当にその主体の人物や行動の理由と一致しているのか、常に疑わしく見える。 実はこの物語の中の様々な断片を並べ直し、それぞれのつながりを見出して、主人公ナターリアという人物を読み取ろうとする行為は、それらの「解釈」と同じなのではないか? これらの断片はあるところではつながりを見せるように見えるが、そのつながりは別の断片を否定し、全体像への組み込みを拒んで行く。完成することが出来ない、それを拒否したジグゾーパズル? 合致しないピースを除外し組み立てられた物は本当に正しい完成図なのか?例えば、物語というものは常に登場人物の人生の断片だ。彼ら、彼女らが別の物語に現れた時には、 その状況で全く違う顔を見せるかもしれない。ある断片に現れるナターリアは、別の断片では全く違うナターリアでありうるのかもしれない。この物語の最後の断片は、作戦行動のため 複数の名前を持ち、それぞれに別の人格をかぶせている男とナターリアの会話で終わる。会話中に男の人格は次々と入れ替わり、ナターリアとちぐはぐな会話を交わし、最後に彼女は彼女が本物の 彼だと認識する人格に出会う。これがこの物語の成り立ちの何か重要な部分を示唆していると思う私は深読みのし過ぎなんかな?

3番目の「思いがけない出来事」。ルシンダという女性の一人称によるロードムービー風って感じの一篇。一人称の語りの中で、彼女の名前はしばらく読み進んで登場人物の一人に名を呼ばれるまで 判明しない。彼女の語りも自分の思うままで、決してこちらが知りたいと思うような順番では語ってくれない。例えば、一人称の語りというのを、多くの人が錯覚するように語り手の思考と考えるなら こういうものなのではないか。例えば一日のうちでも一回でも自分のフルネーム頭に思い浮かべる人っている?この作品は実験小説というようなもののように、強引にそれを即時性の語り手の思考と読ませるような書き方はされていないのだけどね。これまで見てきたように、この短編集では 様々な形で実験的と言える試みが取り入れられているのだが、なにかそういうものにありがちな頭でっかちなところを感じさせないところがシャネル・ベンツという人に感心させられるひとつであるのだよね。 私にはこの作品は、なにか別の物語のエピローグか後日談のように感じられた。ひとつの大きな物語が終わった後、それに完全に幕を引くための旅。彼女は過去の恋人に再会し、そして様々な登場人物の 「その後」について語られる。そしてひとつの物語の決着をつけてこの作品は終わる。だが、結びの文は何かすぐにでも次の語りが続けられそうな言葉で終わっている。それは当然だろう。この物語は 彼女の人生の断片でしかなく、彼女の語りはこの切り取られた物語の外でも続けられて行くのだから。なんか人は常にか多くの場合、なにかの物語が終結した以後にいるのかもしれない、とか少し考えてみたりもした。

そしてここでやっとこの作品集の最初の話へと戻ってくる。「よくある西部の物語」。特に何の先入観も情報も無しに、この本をここから読み始めた時、まず感じたのはなにか言葉や文章が先に現れ、 その後少し遅れて意味が着いてくる不思議な感覚。そのうち、彼女の語りがこちらに順序だてて説明する形ではないからだ、ということに気付く。先に書いた「思いがけない出来事」でも使われている 語り方で、実はその後の作品でも度々使われているようにも思われるのだが、なんかその辺まで読んでくると割とそういうのに慣れちゃったのかもしれない。だが、彼女の語りはそれと比べても余りにか細い。 やっと意味が追い付いてくると、そこで途切れ、やがてまたすぐには位置を特定できないような別の語りが始まる。最初から破滅の結末が決定されているような物語が、その結末を既に知っているような 主人公の、全てを諦めたような語りで綴られる。様々な怒り、憎悪、悪意が彼女の平板とも感じられる口調で翻訳され、そして不可避の結末へとたどり着く。砂に消える物語。だが、これは砂に書かれ、 風が書き消す物語ではなく、一陣の風が砂を巻き上げ、物語の姿を纏うが、その意味をつかみ取る間もなく元の砂へ還る物語だろう。

物語と主人公の関係という考察に続き、最後にその主人公によって何が語られるかというところへのアプローチが見られる作品について考えてみよう。9番目の作品「認識」。 これはせいぜい20年ぐらいのそれ程昔ではない時期に、災害で壊滅したある種の宗教的コミューンが暮らしていた砂漠の跡地を、学者が「遺跡」として発掘研究するというちょっとSF的な匂いもする 作品。大変好きなバラードの『ヴァーミリオン・サンズ』をちょっと思い浮かべたな、とか言うと読んでる人を無用に誘導する感じになって良くないかな?主人公の学者である男性(基本的にこの作品集は 作者が女性であるため、主人公が女性である割合が高いので、こういう書き方をしておいた方が良いと思う)は、その発掘現場のある種のセレモニーに参加するうちにある女性と出会い、 それがきっかけとなり孤児として過ごした子供時代の失われていた記憶を「思い出す」。この「思い出す」というのが曲者。この記憶により彼は行動を起こすが、その最中、物語の最後に その記憶を共有するはずの当事者であるその女性により、彼の記憶は否定される。だが、最後に至っても彼の確信は揺るがない。物語の、特に一人称で語られる作品においてはより絶対的に、 読者は主人公=語り手の視点で物語を読む。そしてその物語が「誤」であったとしても、主人公=語り手が確信していれば、それは「正」となるのか?

そして10番目、最後の作品となる「われらはみなおなじ囲いのなかの羊、あるいは、何世紀ものうち最も腐敗した世界」タイトル長っ。16世紀英国の宗教改革により教会を追われた男の晩年が一人称で 語られる。人生を祈りに捧げられなかった怒りは主人公の中でくすぶり続け、そして彼をそこから追放した人物に偶然出会い暴力的結末に至る。先の「認識」からの流れで見ると、物語の正誤は 曖昧に見える主人公が出会った男は本当にかつての仇だったのか、ということになりそうだが、果たしてそうだろうか?たとえそれが本当の当人だったとしても、この物語は「正」となるのか? これが信仰、祈りについて書かれた物語であれば、この主人公の行動は明らかに「誤」であろう。一人称による単一視点からの一方的な情報と、語り手である彼の感情に同調し、 その怨嗟を共有することでこの物語が「正」になるわけではない。目眩まし的なエピソードの正誤に気を取られ、本質的な作品全体の正誤を見誤っていないだろうか? 彼の祈りは、結局のところ帰りの電車代をもつぎ込んだ最終レースの大穴馬券を握りしめた男のそれと同レベルの薄っぺらさでしか「神」に届くことはないのかもしれないぜ。

そしてここでもう一度、最初に見た一見一番わかりやすそうな話、「オリンダ・トマスの人生における非凡な出来事の奇妙な記録」へと戻る。果たしてこれは、その見た目ほど単純に善悪を 分けられる話なのか?例えば主人公オリンダ・トマスの滞在する屋敷の女主人への目線は、偏狭で侮蔑的過ぎないだろうか?そして、この陰惨な結末は、物語を人種偏見・差別への啓発と見たときに 正しい着地点なのか?この作品、そして先の「われらはみな~」に対しては、多くの人が一歩下がった少し上から目線で、悲劇的な結末とまとめるってところだろう。だが、その結末以前に 作品内のモラル判定をしてしまっていないか、「どっちの味方」を決めてしまっていないか、今一度考えてみるべきではないのだろうか。
この期に及んで勘違いをしている人がいるかもしれないので、ここで確認しておくが、私はこれらの作品にこういう欠陥があるなどと指摘しているわけではない。私が語ってきたのは、 アンタこの恐るべき女ボス シャネル・ベンツのトラップにまんまと引っ掛かってるんじゃないかい?ということなのだよ。ゴージャス!

最後の最後にこの本の『おれの眼を撃った男は死んだ』というタイトルについて。この一文はそれ自体でひとつの物語を形成している。主体(おれ)、事件(眼を撃たれた)、結末(その犯人は死んだ)。 物語はそのように実にシンプルに作ることができる。しかし、その主人公の立ち位置や、物語のモラル的な正誤、語り手、または作者の真意などは、必ずしもあなたが見た通りとは限らない。 というようなこの作品集のテーマを実によく表していると思うんだが、これも深読みのし過ぎかね?これは作品集内の作品のどれかのタイトルでもないし、多分どこにも出てこないんだろうと思っていたら、 忘れたころにひょっこり姿を現す。その時に、自分がイメージしていた物語との違いなんかを見てみるのも一興なんじゃないすかね。

まあなんとも性格の悪い読み方だが、私が大変性格が悪いのは周知のことやろう。私は、殺人事件の巧妙なトリックとかにはとんと頭が働かず、一切自分で考えずストレートに解決編を読んじゃう ボンクラだが、この話はなぜこんな風に書かれているのだろうか、とかを考えるのはとても好きだ。この『おれの眼を撃った男は死んだ』はそういう意味でも私を大変楽しませてくれた素晴らしい 作品集であった。ありがとう!シャネル・ベンツ様!ゴージャス!


シャネル・ベンツ
著者のホームページより
(http://www.chanellebenz.com/)
作者シャネル・ベンツは、あれっ?なんかゴージャス感の一切ないオバハン出てきたらどう失礼のないように取り繕うか考えてたんだけど、意外と海賊王を目指す麦わら帽子の前に 立ちはだかりそうな感じやないの?
O・ヘンリー賞受賞だったり、それぞれの作品にみられるテクニック指向から、結構短編にこだわるそっち専門の作家かと思っていたら、既に長編作品も 発表されているそうである。『The Gone Dead』。南部を舞台とした家族の「罪」の物語らしい。この作品集内でも見え隠れしていた、作者自身のテーマというようなものもこちらの長編作品では より明確に見えるのではないかなと思う。東京創元社さん、これも翻訳してくれんかねえ。

なんか読んでる間に随分と色々考えて、あーこれ全部書いたら相当長くなるなあ、と思ったんだけど、まあ良い本読んでこれが私の感想なんで、全部書くしかないわなあ、ということで こんなになりました。こん位の感想どこでもあるか知らんけど、とりあえず作者の決め台詞まで捏造したのはワシぐらいやと自負する。ゴージャス!なんかそれぞれの作品ごとの主題みたいのに 関して論ずるのも手かもしれないけど、これに関しては全体を煮込んで出てきたダシみたいなものを見つけて作者の人物像・思想を断定する私小説読みみたいのは適してないんじゃないんじゃないかな、 と思う。特に好きな作品は1、3、9というところかな。フランス版では7の詩情みたいなのが気に入ったか、蜻蛉がカバー。米版の鳥のいない鳥かごは1のイメージかな、と思ったりします。


The Gone Dead

フランス版カバー

米版カバー

それにしても、文学というやつはねえ。しばらく前には帰宅途中に結構その辺の品揃えのいい書店もあって、翻訳ハードカバーの棚の前を通る時には、「ねーえ、ちょっと寄ってかない? ほらほら、こーゆーの好きなんでしょう♡」と呼びかけられながら、「あっ、僕用があるんで、読まなきゃなんないの山積みなんで。」と逃げながら時々掴まってたりしたもんだが、その後仕事が変わったり 引っ越したり書店そのものがつぶれたりで、なかなか海外文学の充実した本屋に行く機会が減ってしまってるところで、今度のコロナ。もうとにかくそっち方面ではあまりに魅力のない品ぞろえの 書店にたまに行くぐらいしかできなくなってしまい、すっかりそちらから離れていたのだが、ならばとアマゾンの売り場からでもこっちを羽交い絞めにして引っ張りこんで行くのだ。あーこういういいの読むと またそっちの方も読みたいなあ、ちょっとあっちぐらいの本屋行ってみても大丈夫かなあ、あそこはこういう品ぞろえいいからなあ、と思ってしまうのだが、まあ結局日々の忙しさや体力のなさで、 いつの間にか忘れてしまったりして、おんなじ風に暮らしているとまたどっかからこっちを捕まえて引っ張りこまれて行って、ひとしきり楽しく読んだ後には、法外な請求書ならぬ、果てしなく長い感想文で支払わされる、ということになるんかな、と思ったりするのでした。


【お知らせ】
ここで絶対にお知らせしなければならない大ニュースです!あの男が帰ってきました!声を、いや、文字を大にして言うぞ! Adam Howeの新刊が出たぞっ‼あの圧倒的エンタテインメント小説能力と超悪質ギャグセンスを併せ持つ天才Adam Howe君の新刊が出ました!ええい、Adam Howe君を知らないやつは まずワシが書いた『Die Dog or Eat the Hatchet』と『Tijuana Donkey Showdown』の記事を読みやがれ!いやあ本当に素晴らしいセンスの持ち主で、こいつの書くものは絶対に面白いと言い切れる 素晴らしい作家なのだが、彼も電子書籍バブル以後のインディーパブリッシャーの苦戦、勃興の波の中でなかなか次のチャンスを掴めないでいる一人である。上記の『Tijuana Donkey Showdown』を 初の長編小説として出版した後、版元Commet Pressも経営が苦しくなっている様子で続く作品の出版が難しくなってしまう。Adam君は次の動きとして、プロレステーマのアンソロジーの 編集に携わっていたのだが、Commet Pressからの予定だったのかは不明なのだが、版元の経営不振で出版が不可能になり、せっかく集めた作品を何とかしたいとの思いで自らのパブリッシャー Honey Badger Pressを立ち上げアンソロジー『Wrestle Maniacs』を出版する。この辺の経緯については昔書いて、これが出た時ちょっと騒いだりもしたのだが、憶えてる人がいるのかも不明なので 一応書いときました。で、その『Wrestle Maniacs』も大変面白かったのだが、いまだにそれについて書けていなくて本当に申し訳ない。その後、『Tijuana Donkey Showdown』内でも言及されていた 親友のホラー作家 James Newmanとの合作『Scapegoat』を2018年に同Honey Badger Pressより出版。ちょっとこれについてはAdam君の今後の動向が不安だったりもして、持病の貧乏性を発動してしまって まだ読めていないんだけど。そして、時々思い出してはチェックしてみるけど動きなしで落胆を繰り返しながら待ち続け、遂に今月始めにこの作品『One Tough Bastard』が出版されたのだ! 今作も発売は彼自身のHoney Badger Press。Adam君の苦境はまだ続いているようだ。ならば余計に声を大にして言わねばならんだろうが! Adam Howeは読めば爆笑間違いなしの絶対に損をしない素晴らしい作家だ!これを読まないなんて人生の大損だぞ!私もなるべく早期にこれを読んで必ずやここに書く! 『Wrestle Maniacs』の方もそん時に少しでも紹介すっからね!

というわけで、昨年末ぐらいから宿題になっていたやつをなんとか片付けました。まあ色々と余計なことを考えながら二つまとめてやってみましたが、結局また分けた方がいい感じに 長ったらしくなってしまったり…。まあ宿題ということに関しましては、知らんぷりしていたり、申告すらしていないものもあるんでまだこれから頑張って行かなければ、 というところです。しっかし今年はこれとこれ絶対読みますからねー、と宣言した矢先から、スプラッタウェスタンなんてのが来て、今度はAdam Howe君と、どう読書スケジュールを 組み直して行けばいいのだ?という感じになってるのだが、必ず全部読むかんなっ!憶えてろよっ!なんかこうなってしまうと『Blacktop Wastland』も早めに読んどいて良かったね、 という感じ。本当に読むもんは尽きんなあ。次までにまた必読作品を見つけてきて積んじゃうかもよ!そーゆーのを楽しみに、また生き延びて行きましょう。あっ…、うっかり まとめて終わろうとしちゃった…。また今回も戸梶先生コーナーは出来なくてすんません。なんだかんだでその後新しいのも読めてないし…。と、とにかくどっかの時点で 一回戸梶圭太特集としてまとめてやるのも考えてますんで、すんません。戸梶圭太最新作はKindleで絶賛発売中だよー!ではまた。


■Thuglit: LAST WRITES

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