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2019年12月31日火曜日

ゾンビ・コミック特集 番外編 第2回 最近の日本のマンガのホラー・ジャンル作品について [後編]

■内藤死屍累々滅殺デスロード:宇津江広祐

前編の3作を並べて、しばらくの間こんな感じでやろうかな、みたいなことを考えてたのだけど、そんなうちにまた見つけちまったのがサンデーうぇぶり連載中のこの作品。まあ当然見つかるわな。いつだって新しい才能は現れるのだ。

その事態の中心にいたのは一人の男。名古屋在住の医療保険のコールセンターに勤めるごく普通の会社員、内藤徹夫。日常に様々なストレスを抱える彼は、ある日コンビニ店員の雑な客対応にそれが頂点に達する。彼の姿は異様に変形し、突き出された触手がコンビニ店員の頭蓋を貫く。そしてそれはそのままコンビニの外へと広がって行く。膨張・分裂・変形を重ねながら「内藤」は名古屋を覆いつくし、死の街へと変えて行く。

時を同じくし、東京で暮らす高校生村越奨は、ろくに口もきいたことのなかったクラスメイト久路剣介とともに超能力を得る。名古屋で勃発した事態に、久路は自分たちはこのために超能力者になったと興奮するが、村越は懐疑的だ。
そんな中、報道された名古屋の街のモンスターの姿を見て、これは内藤だと確信した昔の友人が、内藤が学生時代に書いた映画用のシナリオをネットにアップする。「死屍累々滅殺デスロード」と題されたそのシナリオのストーリーは、名古屋で起こっている事態と酷似するものだった。そしてモンスターと闘う5人の超能力者。その二人の能力は明らかに村越と久路と同じものだった。

彼らは内藤の意志により、そのシナリオから造られたのか?そして、内藤は彼らの世界の「神」なのか?

さてどうしたものか。なんだかこの作品について語ろうとすると、どうもうっかり重大なネタバレに踏み込みそうな気がする。あらすじもなんかここまで書いていいかなあ、とちょっと考えながらだったり。まあ現在まだ単行本3巻で物語も結構序盤な感じもあるからなのだけど。
とりあえず、この作品は結構メタフィクションというような言われ方をしているんだが、自分的には主に意識とか認識の問題をテーマにするメタSFというような分類の方がいいように思えるのだけど。別に細かい形式的なことにこだわってるわけじゃないんだけど、この辺のニュアンスの違い分かるよね?
作者宇津江広祐については、まだ新しい作家なのであまり情報なし。この作品の前にゲッサンで短期連載があったそうなのだがそちらは未見です。人物の表情をギリギリぐらいまで抑えたタッチと、時に横書きでコマと同等の存在感にまで至るモノローグの組み合わせが独特の没入感を持った読ませ方を導き出す、パッと見の印象ぐらいでは侮れない実力を持った作家です。表面で繰り広げられるパニックホラー定石通りの内藤モンスターとのバトルの裏側で、ひたすらキャラクターたちの内面へと沈んで行くストーリー。高校生が主人公の話だが、ラノベというよりは初期筒井康隆ジュブナイル、時かけ・七瀬あたりを思わせるテイストもあり。いやー、何とかここでやっと現在進行中!これから!の注目作品について書けた感じでやんす。

そもそもゾンビ・コミック特集で始まったもんでもあり、ここで国内のゾンビ作品について少々。近年最注目は佐伊村司『異骸-THE PLAY DEAD/ALIVE-』だが、ちょっと前に終わっちゃったんで、また次の機会に。あったらだけど…。佐伊村新作はゾンビ物ではないようだが、日本のマンガのホラー・ジャンルでは今後も常にチェックしておきたい作家であることは間違いない。その他忘れてるのとか色々ありそうだが、ここでは現在注目の2作家がゾンビ・ジャンルに参戦というところを。
■ゾン100~ゾンビになるまでにしたい100のこと~:麻生羽呂/高田康太郎

経歴とかを見ると結構異色作家という感じの麻生羽呂なんだが、2010年からの『今際の国のアリス』のヒットの後、スピンオフ作品『今際の路のアリス』ではネーム原作に転身、どちらも熱い物語を見せてくれて、まあ私的には麻生羽呂にハズレ無しぐらいの印象の勢いを持って、再び原作担当で『ハレルヤオーバードライブ!』(スマン、未読…)の高田康太郎とのコンビで始まったのがこの作品。『内藤死屍累々~』と同じくサンデーうぇぶり連載中。
ブラック企業で精神的にゾンビ状態まで追い詰められていた主人公が、ゾンビ発生による社会崩壊で生気と人生を取り戻す、という従来のゾンビ物からすると逆転の発想ぐらいの感じで始まるストーリー。麻生羽呂の前2作から見ると、日常からの解放に始まり、主人公がより困難でヘビーな状況に追い込まれ、そこを乗り越えることで成長して行くというのがパターンだが、今作はどうなるのか?まあ最近のSAでの展開あたりで文句言ってた読者はこの辺で置いて行っていいんじゃないのかね。
■キングダムオブザZ:はらわたさいぞう/綿貫ろん

バトル物であったり、特にギャンブル物なんかで一番盛り上がる読みどころと言えば、お互いの思惑=戦略の読み合いみたいなところじゃないだろうか。その<戦略/読み合い>に特化したようなのが、はらわたさいぞうのスタイルなんだと思う。かの『ワンパンマン』『モブサイコ100』のONEと同様に、ウェブコミックとしてやってた『出会って5秒でバトル』がみやこかしわ作画でリメイクされるという形で世に出る。(ウェブコミックとして発表していたところまでで原作からは降板。現在のクレジットは原案。)続くヤングガンガン連載中の『導国の魔術師』(作画:鈴木匡)は、王道ファンタジーにいかにもはらわたさいぞうらしいひねりを加えた作品。そしてそれに続くのが、アダルト作品で人気の綿貫ろんとのコンビによるこの作品。コミックデイズ連載中で、最近はマガポケでも掲載が始まったけど、これって講談社的には昇格なんかな?
ゾンビ発生から5日、校内に隠れながらほぼ生存をあきらめていた高校生佐藤は、絶体絶命のピンチを美少女二人組に救われる。ゾンビで崩壊した社会に自分たちの王国を築く、と豪語する彼女らに徴用された佐藤だったが…?見た目はエロ巨乳ミニスカ、頭脳は諸葛亮な美少女JKが、今後どんな戦略とサービスシーンを見せてくれるのか、期待の高まる一作。なんだかうっかり「カリスマ編集者」とかいうのにひっかかると、「大人」が安心して褒められる無人島で拾っても読まないジャンルとかに曲げられそうなスキル持ちのはらわたさいぞうだが、このままJKのパンツとゾンビというような正しい方向に突き進んで欲しいと願うものであるよね。

さて、「最近の日本のマンガのホラー・ジャンル作品」という括りで色々な作品について語ってきたわけなんだが、まああらかたの人が気付いてるところだろうが、どれも別に読んだら夜一人でトイレに行けなけなくなる!とか言うような怖いもんではない。なんかその辺の言い訳に最後に日本のマンガのホラー・ジャンル概観みたいなのを書いてみようかと思ったんだけど、ちょっとまだ先に書くことあるし、面倒なんでやめちゃいました。とりあえずは特集とか言ってゾンビ・コミックについて書いてきた流れで日本のマンガについても書いてみようかな、と思って最近読んだので面白かったやつの中からホラー括りのできるやつ並べただけというところでやんす。怖くないからホラーじゃないぷんぷん、という人にはごめんねー。
で、その概観みたいなのを考えてるときにちょっと思ったこと。最近の日本のマンガである意味伝統的な流れの王道とか思うやつというと、ひよどり祥子『死人の声をきくがよい』や中山昌亮『後遺症ラジオ』あたりが思い浮かんだのだけど、このあたりって日本の本格ホラーの優れた作品であることは間違いないけど、海外でのホラーってジャンル分けからするとやっぱり異色作ということになると思う。まあ水木しげる、楳図かずを、日野日出志から、犬木加奈子、御茶漬海苔、伊藤潤二まで連なる日本の恐怖漫画は歴史的にも質・量的にもホラーの中で独立した一ジャンルを誇れるものだろうけど。一方で日本のマンガでは、一般的にはホラーに分類されてない作品でもかなり多くホラー的表現が取り入れられていたり。『嘘喰い』とか『賭ケグルイ』みたいなギャンブル物は表面的には相当ホラー的だったり、『テラフォーマーズ』は、うーん、ホラーSF的な仕分けしてるとこもあんのかな?そんな風に一方では王道が異色で、また一方ではホラー的表現が広く拡散している日本のマンガで、海外のコミックを語ってきた流れでホラーというと、いまいちどこに焦点を当てるべきか迷ったりすることになるんじゃないかな、と思うのだ。という言い訳でした。


というところで、ホラーマンガについては終わりなんだが、ここで今回のもうひとつの裏テーマ的なことをもう少し語ってみたいと思うのであります。で、その前に話のフリとしてこの作品について少し。

■アラクニド:村田真哉/いふじシンセン

両親を亡くし粗暴な叔父の家で暮らし、学校ではおとなしいが何かに気を取られやすく空気を読めない性格ゆえに苛めに遭い、内でも外でも虐げられた苦しい生活を送る少女藤井アリス。謎の”組織”の手により叔父が殺害され、自らの生命も奪われそうになった時、それまで自身の欠陥だと思っていた資質がアリスを救う。
先天性集中力過剰。
その資質を見込まれたアリスは、殺し屋”蜘蛛”から殺しのテクニックを強制的に習得させられる。

ある人物を殺すために…。

別れの時、師となった蜘蛛はアリスに告げる。

何者にも名前を奪われるな。

その名を奪われ一匹の蟲=殺し屋になることを拒んだアリスと、”組織”との果てしない闘いが幕を開く!

しばらく日本のマンガから離れていたもんで、昨年になってようやくこの作品を読んで、ああこんな面白いの読み逃してたんかい、と大いに喜んだものだよ。こちらは2009年~2016年に「ガンガンJOKER」に連載された作品で全14巻で完結。
組織の殺し屋たちはそれぞれ蟲の名前を持ち、そのスキルによって仕事を行う。蟲と蟲との戦いになると戦闘で使われている蟲の能力とかの解説がズバッと入る感じが格好いい。『テラフォーマーズ』でもやってるのとおんなじ感じね。ちなみに言っとくけど作品発表時期ではこちらが先。似てるの見つけたらすぐにパクリーとか鬼の首取ったように騒ぐのって、もはや中高生レベルのがやってることなんだろうけどさ。実在する知られざる蟲の意外な能力が追い詰められた劣勢のバトルを逆転勝利に導く。魅力あるキャラクター群による奇想天外なバトル。時にダークな領域まで広がるストーリー。果たしてアリスは学園全体を巻き込む”蜘蛛狩り”を生き残れるのか?
村田真哉は漫画家としてデビューした後にネーム原作者に転身。漫画家としての単行本は無いが、原作作の単行本巻末あとがきなどでよく画は見られる。こういう感じの線は割と好きだけどね。代表作はこの『アラクニド』シリーズの他に、月刊「ヒーローズ」で、TVアニメ化もされた『キリングバイツ』(作画:隅田かずあさ)と、『ヒメノスピア』(作画:柳井伸彦)の2本を連載中。時にかの圧倒的マンガ演出力を持つ柴田ヨクサルにも迫るかというポテンシャルのネームを描ける実力派作家である。先に『アラクニド』シリーズと書いたが、本編であるこの『アラクニド』の他にも、決して後退しない蟲、芋虫を主人公としたスピンオフ作『キャタピラー』(作画:匣咲いすか→速水時貞)と、舞台を戦国時代に移した前史ともいえる、蟲の忍者による闘いを描いた『蝶撫の忍』(作画:速水時貞)がある。そして更に、遂に待望の『アラクニド』の正当な続編が1月下旬発売の「ガンガンJOKER」誌より連載開始!作画はシリーズから引き続き速水時貞!そしてタイトルは『BLATTODEA(仮)』!?え?まさかのゴキちゃん主人公昇格ですのー?楽しみナリ~♪

で、『アラクニド』を引っ張り出してきて何の話がしたいかというと、ネーム原作というやつについてである。それ及び関連作品を読んでいるうちにあることに気付き、そこからネーム原作というものについて考えるようになったというのが発端なので。
『アラクニド』を大変楽しく読んだ私は、当然それを横に拡げて他の村田真哉作品にも手を出して行く。そして確か『キリングバイツ』を読んでいた時に、ちょっとした既視感を覚える。同じ原作者の作品ゆえやはり非常に大雑把に分類すれば、可能であれば似た傾向の作画担当が起用されるものかもしれない。だが私はちょっと似たような画を安直に見間違えるほど惰弱なマンガ読みではない!そして改めてじっくり見てみて気付く。ああそうか、これは村田真哉自身のマンガが透けて見えているのだ、と。

一体何を言いたいんだかよくわからないかもしれないが、順を追って説明していきますんで。まずネームというのが何かを蛇足とは思いつつ説明すると、マンガの、映画で言うところの絵コンテに相当するもの。マンガと同様にコマを割り、簡単に人物や吹き出しの配置、情景の説明などを描いた漫画の設計図のようなものである。ネームというのは日本独自の呼称だが、同様のものは海外のコミックでも大抵は作られているようである。一番の使用目的は自身の作品の設計図だが、編集者や原作者との打ち合わせにも必要になる。映画の絵コンテとの大きな違いは、映画のものがこれから撮影するための大まかなイメージであるのに対し、マンガのネームの最終決定稿はほぼそのままの構図や人物配置で実際の作品になるというところ。あそうかアニメにもあるんだよな。アニメの絵コンテの方が実際の完成品との近さという意味では近いのかもしれない。ただ、それら絵コンテとマンガのネームの一番大きな違いは、それら絵コンテが常に一つの画面であるのに対し、マンガのネームはコマの大きさや配置といったマンガ演出の重要要素がそこで決定されるということである。ちょっとくどくどとわかりにくくなっちゃってるかもしんないけど、あとでここ重要になるかんね。PCのスクリーンにマーカーでマークを…、あ、いやそれはやらん方がいい…。
その先のことについて説明するのにわかりやすいかと考え、ちょっとネームを中心としたマンガ制作の作業過程に関する図だか表だかを作ってみました。以下はこれを使って説明して行きます。



念のために言っておくと、「原作」「ネーム」「作画」などの帯の中での幅は、単に不自然でないバランスと見やすさを考えただけのデザインで、実際の制作過程での何らかの時間配分などを示しているものではありません。その辺考えすぎないようにね。

①はストーリー、作画ともに同じ漫画家のものであるオリジナル作品の場合。こちらはネームが作られた後に作画作業に進む。まあ説明の要もないもんだがね。

②は原作者+作画担当、漫画家という場合の例。ちょっとそういう言い方の方が分かりやすいかと思って作画担当というような書き方をしてきたのだけど、ここからは特に必要がある場合を除き漫画家という呼称で進めて行く。まず原作者による文章で書かれた原作があり、漫画家がそれを受け取った後、そこからネームを作り作画作業へと進んで行く。
そこで、先に映画との比較も少し書いたのだが、例えば映画やTVドラマなどを観て、なんだか漠然と極めて曖昧な内容を指す「おはなし」を役者が演技しているというものを観ていると思っている幼稚なお子様レベルでなければ、情景が画面というフォーマットでどう切り取られ、ひとつのカットがどのくらいの長さになり、それらをどうつなげ、何を強調するか、といった映像の上での演出がいかに重要であるかは当然わかっているだろう。そしてそれらを決定するのが監督である。これをマンガの制作過程に置き換えれば、そういったマンガの演出をネーム制作で行う漫画家が映画における監督であり、原作者の文章による原作は、脚本という立場になるのである。

そして③がネーム原作者+漫画家、というケース。と言っても実際にはこのようにネームを原作者がすべて担当し、漫画家がそのままそれに沿って作画を行うというケースは現状まだ極めて稀なのではないかと思う。結局漫画家の手により大幅に描き直されたり、場合によっては②と同じことになっていたり。わかりやすくするためとは言え、この図が結構強引だってことはわかっとるから、とにかく私の話を最後まで聞いておくんなまし。
つまり上で書いた「村田真哉自身のマンガが透けて見えている」というのはこういうことだ。マンガの演出となるネームを村田が作ることにより、村田自身の語り方のリズムや、演出上の好みや癖が、作画担当が代わっても同様に作品上に再現されているということである。例えば少し前には村田作品で多用されていた、複数人が同じ場所にいてその中心で起こった事態や人物の発言に対するそれぞれのキャラクターの反応を小さなコマに並べるというもの。別に村田真哉作品独自の表現ではないが、明らかに彼自身のタイミングや癖というものが見て取れる。もちろん実際の作品にどのくらいまで村田によるネームが直接反映されているのかは不明だが、かなりこの図に近い、つまり共同監督ぐらいのところまでは行ってるんじゃないかと思う。そしてそれだからこそ、かの柴田ヨクサルのマンガ演出と比較するというようなことができるのだよ。

海外のコミックに全く触れたことがない人でも、『ウォッチメン』などで知られるアラン・ムーアという作家の存在は知っているだろう。ムーアはそのアイデアやストーリやその背景となる思想まで含めて突出した作家なのだが、もう一つ彼の作品を圧倒的なものにしているのは、彼自身によるコミックの演出なのだ。ホントずいぶん遅れてやっとだけれど、数年前ぐらいにあの有名な『Swamp Thing』でムーアがそれまでの設定をひっくり返した回を読んで、コイツは本当にスゴイと思った。スワンプシングの真相が非常に理論的に解き明かされて行くモノローグの背景でもう一つの物語が進行して行くその一連のシーンは、なんかもはや盛り上がりに向けて音楽が聞こえてくるような印象も受ける、まあ圧倒的ぐらいにしか表現できないものだった。語彙貧弱ゆえ繰り返しになっちまってすまん。なんかうまく言えてないけど、私にとってはそういう感じで本当にすごいやつからは音楽が聞こえてくるのだ。それはまるで映画みたいとか言うことではなく、マンガ=コミックという形態のまま響きだすのである。そしてその言葉のリズムを基調とした構成は、明らかにそちらを書いた者によるもので、一体どうやっているのかまでの詳細は不明だがアラン・ムーアというやつはコミックの演出部分まで手掛ける「監督」という立場でコミックを作っているのだ、と私に確信させたのである。
ムーアやニール・ゲイマンといった一流のライターは、作品を読ませるのが非常に上手いのだが、それは自身の語りのリズムを持ち、それで作品を読ませてゆくスキルに長けているからである。そしてムーアは特にそのリズムに執着する。以前にもちらっと書いたけど、ムーア作品で多用されるページを9、または6などの均等なコマ=パネルで区切り、時にはカメラを固定した同一の構図が続くという手法は、読者に自分の思い通りのリズムでの読みを強制するためのものである。ページ内でコマを均等に割れば、そこには一定の均等なリズムが生まれる。ムーアはそのリズムの上に物語であるメロディを模せて行くのだ。もしかしたらこれって区切られた五線譜の上に楽曲を作って行くのに似ているのかもね。ただしこれはコミックの文法、リズムというものが把握できている者でなくてはこんなことはできない。ただ延々と会話が続いてしまうからというような理由でこんな表現をやってみても、二流映画のアートシアター気取りの役者丸投げ長回し程度の効果も得られないものだ。しかし、残念ながらこの辺の言葉を中心としたリズムは翻訳となるとどうしても崩れてしまう。例えば小説の翻訳ではそもそも全体を変えてしまうので、語りのリズムの誤差は見えにくい。映画の吹き替えでは時には意味を無視することになってもシーンの流れやタイミングに合わせた形のセリフの翻訳がなされるのだろう。そしてマンガ=コミックでも、もちろん紙であれ他の媒体であれ実際にそのページからは音は出ていなくとも、読んでいる人の頭の中で再生されるという形で、常に画面にシンクロしている音が出ている。だが実際には出ていないその音と画を翻訳でシンクロさせるのは非常に難しく、大抵の翻訳された海外のコミックでは何か画とテキストを別々に読むような読み方をするしかなく、ムーアの演出も本来のままには伝わりにくくなってしまっている。
ここで再び村田真哉作品に戻ろう。今秋全5巻にて完結した『蝶撫の忍』。時代劇調のセリフのやり取りを音や息継ぎ的タイミングで区切り、複数の吹き出しに分けるなどの手法で語りのリズムが作られているのが見て取れる。中でイレギュラー的なキャラクター百地丹波がそのリズムを全く無視した話し方(もちろんキャラクターを際立たせるための意図的な演出だが)で話し始める時、それまでいかに巧みに維持された語りのテンポで読まされていたのかに気付くのだ。ここにおいても、原作者による言葉を中心としたリズムを軸とするマンガの演出の一例が見られる。しかし、マンガに於いてのセリフ、モノローグ、解説文などのテキストは、映画、小説などのそれとは少し意味が違っている。マンガにおいて文字は常に、キャラクターや背景と同等の比重を持った「画」である。その認識でセリフをどこで区切り、どこに配置するかでどのような読ませ方ができるかは、マンガの文法や演出が分かっていなければできるものではない。例えばセリフの長さと物語内質量が、映画なら時間、小説なら具体的なスペースになるので、そちらからの発想で原作を書けば、長いセリフには大きいコマが必要になることは考えられるだろうが、それらとは全く違うマンガならではの発想で、最大になる見開きページで極大文字による短い一言を最大限に強調して見せた柴田ヨクサルのような演出はなかなか出てこないものだろう。

ここで一応言っとくが、私は原作ありであれ、漫画家一人によるオリジナルであれ、これまで日本でアラン・ムーアのものに匹敵するマンガが描かれなかったなどとは全く思っていない。しかしながら、一昔前の小説家を目指していたが挫折してというような経歴の多かった日本のマンガ原作者の中からは、なかなかアラン・ムーアのように監督というべきポジションでマンガ作品を創る作家は出てこないだろうと思っていた。だが、今回の中でも度々登場してきた漫画家として出発した後転身した、マンガの演出力を身に着けたネーム原作者の台頭。これはいつか日本でも「アラン・ムーア」が出てくるんじゃねーの?ってところが私がネーム原作者に期待し、注目しとるところです。

そしてまた、海外の方にも戻るんだが、アメリカではコミック制作でライター+作画という体制が長く続き、日本と比べれば確立されすぎてしまっているがゆえに、ここからネーム原作というものが出るのは、こちらはこちらとして難しいんじゃないかと思っていた。だが奴がいた。ウチの方じゃ割とお馴染みの、アメリカでオリジナル作とライター、作画担当もあり、とマルチな活動を展開中のあのJeff Lemireである。TVシリーズ化も進行中であるライター担当の近年の話題作『Gideon Falls』。常々必読作家だと言いつつも読むのが遅くてなかなか進まず、ある日思い付きでこれどんなのかなあ、とComixologyのプレビューを見てたところ…ん!?作画のAndrea Sorrentinoの緻密な画風はLemireとはかなり違うのだが、その中から浮かび上がってくるあのLemire独特の雰囲気?ただちに1話を読んでみたのだが、それはもう明白にわかるぐらいにLemire独特の構図、間、空気感というものが全くタイプの違うAndrea Sorrentinoの作画で再現されている。とにかくまだ読み始めたばかりなので、全編にわたってなのかどうかは不明なのだけど、明らかにこの第1話はネーム原作的な方法によるLemireのSorrentinoへの作画指示により描かれている。オリジナルとライター両面での創作活動の過程で出てきたのか、結構今どきだと日本での情報が伝わって試してみたというのも十分にありうるわけだし、Lemireがいかにしてこの方法にたどり着いたのかは興味のあるところだ。Lemireがやってるとなると、同様の活動を続ける盟友Matt Kindtは?とか、また一方では『バクマン』とかも英訳されているわけだからそっち経由でその方法を使い始めているのもいるのではとか、『ラディアン』みたいなのも出てきているフランスでは?とか、ネーム原作をめぐる状況ももっと調べて行けばいろいろ興味深いもんが出てきそうですね。ところで結局いまだにほぼ日本未紹介ぐらいのJeff Lemireなんだが、いくらか紹介され始めた途端にあの素晴らしい画が「いわゆるヘタウマ」みたいなチョー雑な分類をされてしまうのではないかと危惧してるんだが、それだけは勘弁してよね。

ずいぶん長くなっちまった今回もそろそろやっとエンディングなのだが、なかなかまた日本のマンガについて書く機会もなさそうなんで、最後に今回のどのジャンルにも属してないけど個人的最注目のこれについてついでに。『堕天作戦』(山本章一)!これは私が何度も書いてきてる英2000AD『Brass Sun』(Ian Edginton/I.N.J. Culbard)やら『The Manhattan Projects』(Jonathan Hickman/ Nick Pitarra)みたいな海外のSFコミック最前線と完全に肩を並べる日本のSFコミック作品である。だから言ったろうが!日本でもムーアに匹敵する作品は描かれていると!ちょっと前まで単行本入手困難だったが、今は増刷で比較的手に入りやすいぞ!とにかくマンガワンでは無料で読めるから今すぐ読めよな!あー、どちらさんも既に読んでますか。ごめん。


というわけで、長々と続いてまいりましたブログ5周年特別企画第3弾 ゾンビコミック特集 (第1弾 21世紀ハードボイルド/ノワールベスト22、第2弾 バカでも効いた!神経ブロック療法で坐骨神経痛から回復中)も今回の番外編第2回を持ちまして完全終了です。いや毎度おなじみ後付け設定ですが、なんか問題でも?常々海外のコミックを日本のマンガと同じ目線で語らねば、というようなことを言っていて、それならば日本のマンガについてもどんな風に見てるのか一度ぐらい書かなきゃダメじゃん、という思いがあり、このゾンビコミック特集の最後にやってみるのもいいんじゃないか、という感じでやってみたのがこれ。まあ考えてからモタモタしててずいぶん時間も経っちゃって、現在進行中のをというコンセプトを始め色々破綻も出てしまったのだが…。で、やっと書き始めたところで例の坐骨神経痛による中断。なんか中断が長引き動けないままでいるうちに、オレが日本のマンガについて書く意味あんのかな、とか考えて一時はやめちまおうかなと思ったり。でも結局のところはどうせ私なんぞがやる意味なんてやらない意味と同じぐらい無いんだから、そんならせっかくやろうと思ったんだからやればいいじゃん、ぐらいのあたりまえのところに気付いて何とか形になったというわけです。まあ体の調子が悪いとマイナス思考に陥りがちでさして意味もないことを真剣に考えすぎちまってよくないよ、ていう一例ですね。
内容に関してはまたここであれこれ言い訳しても大して意味ないところなんだが、どうも今回書くことが多すぎたのと、また一方で後半に書いているようにネーム原作というのに注目しとるところで、あまり作画の方についてコメントできなかったのは作画担当、漫画家の皆さんに本当に申し訳ないと思っているのです。曖昧な「おはなし」ばかりに言及し、作画を蔑ろにするなどというのは私のスタイルではない。海外のコミックであれ、日本のマンガであれ常に作画が作品を成立せしめている最も重要な部分なのだ!今回登場の漫画家もいずれもそれぞれに個性を持った優れたアーティスト達である。もし機会があるようなら次はもうちょっとちゃんと書きますんで、今回はお許しください。
あと、後半ネーム原作の部分については、随分長くなっちまってるから早めにまとめないとなー、みたいな気分があって少し急ぎ足でわかりにくくなってしまったかなあとちょっと心配しております。もう少しわかりやすい例を増やすとか、いつものようにしょーもないギャグや北上次郎の悪口なんかを挟んでいけば、もう少し読みやすくなったかもと反省。
で、話は戻るんだが、これ書くのに意味あんのかなあ、とか考えてしまったもう一つの要因は、私は本当はもっとあんまり他の人が書いてくんない海外のコミックについて書かなければならないんじゃないのかな、ということ。なんだかなかなか書けなくなっているのをこじらせて、結果的には更に更新が遅れるような方向に進んでしまっていたのだが、ここで軌道修正し、コミック、小説両方向で、まあ時間かかってモタモタでも作品ひとつずつを地道に語ってゆこうと思っております。ホント書かなきゃならないもん山ほどあるんだからさ。『Gideon Falls』についてもいつかもっと詳しく書くからさ。
なんだかんだで2019年も最後の最後になってしまい、ここで普通ならよいお年をとか言うところなんだろうけど、結局こんなタイミングじゃ多くの人が見てくれるのは年明けになっちまうだろうから、明けましておめでとう、がいいのかな、などとも思ったり。まあ2020年はもう少し頑張りますですよ、ということで、ではまたね。


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