今回は、英国ノワールの父と称されるDerek Raymondの『He Died with His Eyes Open』です。1984年に出版されたFactoryシリーズの第1作。まず先に言ってしまえば、これには驚いた。こんな作家がいたのか!まだまだ世界は広いわ。ここに来てこんなに凄いもんに出会えるとは。
こんな作家がこれから日本に紹介される可能性などまずなく、自分でやって行くほかなく、今後手に入る限りの作品を紹介して行く最初の一冊となるその最初に、このくらいのことは言っておくぞ。
というところで、まずは「英国ノワールの父」という呼び名に首をかしげてるかもしれない、まあいてもごく少数の人のためにそこんところを説明しておこう。
とりあえず、確実にわかるぐらいでの範囲の近年、英国クライムノヴェル界隈でも「英国ノワールの父」と言えば、『ゲット・カーター』の作者として知られるテッド・ルイスと言われていた。だが、このDerek Raymond、実は本名のRobin Cookで ルイスよりも早い1962年から作家活動を開始していた。まあそういう事情で、時代的に先の方の人が「父」ということになったということなんだが。
えーと、実はこの辺の事情についてはいまいちわからない…。一番考えられるケースとしては、Derek Raymondが近年発掘されるまであまり知られていなかった作家だったというケースなのだが、調べてみるとそうでもなく、特にフランスではそれ以前より人気で、 この『He Died with His Eyes Open』が出版されてすぐにそちらで映画化されたほど(そちらの詳細は後述)。更にシリーズ第4作『I Was Dora Suarez』はその内容の過激さからそれまでの出版社から出版を拒否され、当時エージェントだったマクシム・ジャクボウスキーの 奔走により他の出版社から出版されるという騒ぎも起こしていたり。その後Raymond自身が朗読した作品と同名のCDまで発売されている(詳細は後述)。どう考えても近年発見された「幻の作家」みたいなものとは思えないんだが?
なんか考えられるのは、Derek Raymondという名前はこのFactoryシリーズが開始される1980年代になってからのもので、それ以前に本名Robin Cookで作品を発表していたという事実が、あまり知られていなかったということではないかぐらいなのだが。
どうもその辺の経緯は不明なのだが、とにかく近年、改めて英国ノワールの父と呼ばれているDerek Raymond。だが、ちょっと変な後付けみたいな形となったとしても、これほどの作家ならそう呼ばざるを得ない。というのがこのDerek Raymondなのだろう。
自分がDerek Raymondという名を初めて知ったのは、以前ジャック・テイラー第6作『Cross』のところで紹介した、2015年にブルーウンがパブリッシャーウィークに出したノワールベスト10で。その時書いたように、定番ものを並べ替えただけの退屈なものではなく、 ホントに手近にあった新しいお気に入りを並べたようなブルーウンらしい痛快というようなリストなんだが、その中にあった数少ないクラシックというところで、初めて見る名前でかなり気になり早く読まねばと思い続けているうちにずいぶん時間が経ってしまった。 ホントに気になったもんは最優先で読まなきゃね、と大いに反省している次第。もしかしたらこれまでも書いてあって、知らない名前ゆえに見落としていたのかもしれないが、ブルーウンはRaymondを大変リスペクトしていて、作品の中でも度々言及しているらしい。
とまた少々長々と前置きしたところで、「英国ノワールの父」Derek Raymondによる衝撃のFactory第1作『He Died with His Eyes Open』です。
He Died with His Eyes Open
まずこの作品、基本的に全編にわたり主人公の名前を明らかにされない刑事の一人称で書かれている。三人称のあらすじとして説明する便宜上、主人公は「私」と記述して行く。
その男はアルバトロスロード西5丁目の、神の言葉の家の前の植え込みの中で発見された。3月30日、夕方のラッシュアワーに。非常に寒い日で、ある通勤者が近道を使って帰宅しようとした際に、遺体に出くわした。
私が現場に到着したときには、東風に乗った激しい雨が降り注いでいた。重犯罪課のBowmanが、トーチを手に死体の前に立ち、遺体を見つけた男からの通報でやって来た道から外れて立つ二人の制服警官と話しているのを見つけた。
Bowmanはトーチを無言で渡し、私は死んだ男の上にかがみこんだ。彼の眼は開いていて -一つだけだったが-、その表面にはロンドンの街角で西風に吹き付けられてくる砂に覆われていた。着衣は前に煙草の焦げ跡が付いた安物のグレイのスーツに、 みすぼらしいレインコート。中背で、薄くなった髪はグレイに変わり、酒飲みの鼻、歳は50から60の間。両腕は折られていて、片足の骨がズボンの生地を破って突き出ていた。男の頭はヘアラインの下で破壊され、脳が左の頬を伝って泥の中に滑り落ちていた。 その損傷具合にもかかわらず、彼は即死したのではないという印象を受けた。その濁った眼の中に、彼がどこへ行ったにしろそこへ持って行きたいと望んだ、記憶のちらつきが残っていた。
検分を終え、私は一歩下がってもう一度彼の顔を見た。連中はそこに何かを残していたと言うことになるだろ、連中が誰にせよ。強い顔ではない、だがそれはすべてを見て、そして手遅れになるまでそれを理解できなかった顔だ。多くの暴力的な死を見て来たが、 これほど酷いものは無かった。彼の傷は多数だが、ランダムなものではない。これらはひき逃げや偶発的な強盗によるものとは一致しない(誰がこんな男から盗もうとするんだ?)。否、彼はどうやればいいかを熟知した、一人、あるいは更に可能性が高い二人の 実行者により、系統的に痛めつけられている。専門家、そう呼ばれるものだろう。悪党、そう呼ばれるものだろう。
「どう思う?」Bowmanが尋ねてくる。
「洒落にならん奴らの仕業だと思うな」
「奴ら?」
「一人以上はいたはずだ。単独でできる犯行じゃない。そして何処でやられたにしろ、ここじゃあない。-遺体の下にはほとんど血がない」
「監察医はもう来たのか?」
「鑑識連中はもう来て、全員帰った。俺たちはあんたが来るのを待ってただけだ」Bowmanは言う。
身元は分かっているのか?と「私」は尋ね、Bowmanが答える。
「ポケットの中に身分証があった。Charles Locksley Alwin Staniland、51歳だ」
「50ポンドのために人を殺す奴がいるとは思えないがな」
「知ったことか」Bowmanは言う。「近頃の若い奴らはやけくそだからな。何にしろ、あんたが思うように進めればいい。こいつはあんたの事件だ。俺は一切首を突っ込むことはないからな」
彼はごく最近、32歳で主任警部へと昇進した。陽気で残忍、賢く、図太くて自信過剰だ。「こいつは見捨てられた死ってやつさ、結局のところ」
既に帰り支度を始めたBowmanが、もう一度「私」に向き合って言う。
「あんた本当に巡査部長の地位に留まっていたいんだな?」
「私は正義を見たいものでね」
「正義だって?阿呆らしい」Bowmanは言う。「あんたは40で、巡査部長だ。で、あんたは昇進を心底嫌ってる」
「私は君のようには上階へ向かっていない」「私」は言う。「こういった事件ではな」
「上には報告されさえもしないだろうな」
「ああ、分かってる」「私」は言う。「そして君にはその手のことが重要なわけだ」
「もちろんそうさ」
「だが、君の問題はそれがショーだってことだ」
「自分の道を進めばいいさ」Bowmanは言う。「あんたは"説明不可死亡事件課"に終わるまで留まってりゃいい、俺の知ったこっちゃない。何にしろ、俺はいかなきゃならないんだ。もうすでに遅れてるんでね」
去り際、Bowmanは被害者の所持品を送ってあるので"Factory"に連絡しろ、と伝える。「結構な量がある」
「もう彼の住居へ行ったのか?」
「もうやっておいたさ。後で住所を教える」
そしてBowmanは、待たせてあった車に乗り、現場を去って行く。
"説明不可死亡事件課"。実際のところA14は警察組織の中でも最も人気が無く、疎んじられた課だ。政治に出入りしている流行りの左翼寄り、あるいは崖っぷちの連中は我々を嫌っている。だが、彼らがやらない仕事を誰かがやらなければならない。
制服連中は、我々を嫌っている。ロンドン警視庁犯罪捜査部も。特別情報部門も。我々は、曖昧で、重要ではなく、明らかに問題にならない重要ではなくそうであったこともない人々の死に関して捜査する。
我々に対する予算は最も低く、配給の列の最後尾であり、昇進も極めて遅く、我々のほとんどは巡査部長以上に昇格することはない。我々は、階級や給与、恩給がどうであろうが、あらゆるBowmanと同等の能力を持って殺人事件を解決できる。 違いはその姿勢というところだ。
多くの警察官とは違い、我々は人手不足を言い訳にすることはない。我々の捜査する事件が決して新聞に載ることが無いことも。全国規模の指名手配にならないことも。
私の友人であったMacintosh巡査部長が昨年、エディスグローブの一間のアパートに追いつめられた男に殺され、殉職した時、彼にはジョージメダルは授与されなかった。
いかなる殺人も我々にとってお座なりのものではない。重要でない殺人などない。このような殺人が街で常に起こり続けているものであったとしても。
被害者の遺体がやっと到着した救急車により搬送され、その後、「私」はその臨検を担当した警察医に会いに行く。
「死因は何だ?」「私」は尋ねる。
医師はうんざりしたように答える。「全部さ」
「外傷はあまりにも早くそれぞれに重なり合って加えられたもので、どれが最初と判別するのは困難だ。不可能ではないが、現時点では明言できないということだがね。だが、連中が腕と足から取り掛かったことは言えるだろう、そして指もね。 そして前頭葉に加えられた決定的な一撃は、建築用の2ポンドのハンマーのようなものによってもたらされたのだろう」
「この男はなんでそこまで憎まれたのかと思うな」「私」は言う。
そんなことを私に訊かないでくれ、私は警官じゃないんだ。医師はそう言う。
そして遺体は冷蔵室に戻される。
建築労働者を見つけたまえ、医師は薄笑いを浮かべ言う。「ハンマーを見つけるのさ。私が髪と血液が一致するか調べてやるよ」
その態度に「私」は怒りを覚える。「ある日、多すぎる彼女と付き合うことを想像してみろよ、先生。それで嫉妬した恋人にハンマーで殴り殺されることを。彼女じゃなくて、彼氏でもいいが」
「待ってくれ、何か意味があって言ってるんじゃないと思うが…」
「そして想像してみろ、私たち、法の人間があんたの死体に対してシャーロックホームズの真似事をやってるところを」
* * *
シリーズタイトルとなっているFactoryとは、主人公が属する警察署の通称。かつてはかなり暴力的な取り調べが行われ、それを怖れた犯罪者たちの間で呼ばれていた通称で、現在ではその手のことは改善されたがその呼び名は残り、そこに属する警察官たちも 自分の署をその名で呼んでいる。殺人事件の報せを受け現場に向かい、捜査をこれから開始するというここまでの様子、そしてそういうシリーズタイトルが付けられているにもかかわらず、ここから先の展開は通常の警察小説と全く違っている。
警察官が主人公ならあまりにも無造作にそう呼ばれ、実際には例えば図書館の書籍分類名レベルやAmazonの分類タグぐらいのものでしかないにもかかわらず、そう呼べば何かを示したかのような使われ方をしている「警察小説」だが、実は大雑把に見ても、 2または3種類に分けることができるだろう。あー、念のために言っとくが、ここでは警察小説に属する何がハードボイルドだとか、警察小説とハードボイルドの線引きなんて、自称ミステリ評論家じみた説明なんてものをするつもりはないからね。 その手の感想屋がしょっちゅうやらかす、「ありきたりの警察小説ではない」みたいな言い方で何か説明した顔をするんじゃなく、比較すべき対象の「通常の警察小説」を明確にするためのものだからね。
1).複数の警察官により捜査が行われ解決に至るもの。2).一人の警察官が主人公として物語が進むが、情報、人的支援として警察組織のバックアップがあるもの。3).一人の警察官が主人公になり、事件捜査に当たるが、並行して、またはその事件の一部として 警察内部の腐敗や利権構造といったものとの戦いを余儀なくされるもの。
集団と個人、という考えで1).と2).3).の二つに分ける考えもあるし、犯人逮捕のための捜査がメインとなるものと警察組織そのものが敵となるものという考えでは、1).2).と3).の二つという考えもできるかと思う。
まあ、この2ないし3のパターンをベースとして、そこから様々に複雑に作家独自の考えで作品が構成されて行くのが警察小説というジャンルだろう。いずれにしても、警察小説というのは、警察という組織を背景・前提として書かれた作品ジャンル ということはできるだろう。
そしてこの『He Died with His Eyes Open』という作品、更におそらくはFactoryシリーズ全体がこれらの警察小説とは大きく異なっている。
ここからこの主人公「私」は、情報、人的支援などのバックアップなしで、完全に単独で捜査を行って行く。警察署に赴くことすらほとんどなく、ここまでの展開から予想されるような、"説明不可死亡事件課"の同僚の面々と事件に対して意見を交わしたり、 雑談をするような場面は一切ない。"説明不可死亡事件課"の他の刑事なんて全く出てこないから。
それではここから改めて、ここから先この作品がどういった物語となって行くのかを説明し、そのような形に作品を作った作者の意図は何なのかについて考察して行こう。
その後、「私」は自身の一人暮らしの自宅へ帰り、Bowmanから届けられた古いスーツケースに入ったStanilandの住居から持ってこられた所持品に目を通してから眠る。
足場が崩れるテラスから崖下に落下しながら、Stanilandから「君は彼らに終わりへと追い込まれる。なんにしても、無意味に終わりなんてものは無いがね」と語り掛けられるという悪夢を見て目覚める。
暗い天井を見上げながら、Stanilandに集中し、しばらく傷もなく生きて歩いている彼の姿を思い浮かべようと試みる。
朝の5時になり灯りを点け、Stanilandの所持品の中にあった大量のカセットテープの一つをプレイヤーに入れ、スイッチを入れる。
人々はバターシーパークの中で、あたかもそれが常にあるもののように犬の糞の間をぶらつく。彼らは公園の中をひたすら歩き回り、やがて踵を返し、境界となっている平らな地へと戻る。そこで彼らは座り、自身の問題について思い悩み、そして
パブが開くのを待つ。その衣服の様子に関わらず、彼らは借家に住み、社会保障の下にある。もし彼らに自分は作家であると話したなら、自分達もそうだと言うだろう。彼らが1オンスの才能もなく、憎しみと悪意のみしか持たなかったにしても。
公園をうろつく、彼と同様の人々を描写する語りが続く。やがて日が昇り、カーテンのない窓から「私」の部屋を照らしてくる。そして「私」は次のテープを聞く。
フランス。家族が去った後、デュジュールに戻った私が最初にしたことは、娘の衣服を燃やすことだった。後に残された娘の全てのオモチャと本を。それらを見ていることが耐え難くなり、私はすべてを家の後ろの中庭に運び、大きな炎で燃え上がらせた。
それは8月のことで、その熱は非常に激しく、私はすべてが燃えてしまうのではないかと怖れた。家、村全体、空が。
長い時間をかけて、人々にとって人生の意味を説明することはできるだろう。だが、その生が終わる時が来ても決してそれを理解することはできないだろう。思うに、疑問として、君はいかにして死ぬのか?誰もがそれに直面することとなる。
問題となるのは、いかにしてその最後の瞬間を意識的に、熟慮して迎えるか計画し、すべてを記録することだ。最良のケースとしては、私が最後の時何が起こったかを記録できることだろう。そしてその後を。だが、他の誰かがその空隙を埋めるだろう。
それが埋められることがあるならば。
朝になり、Stanilandの所持品を調べているうちに間違った住所を知らされていることに気付き、電話してBowmanの杜撰な仕事を責める。
そして、警察医から解剖の結果が電話で伝えられ、その陰惨さに改めて心を痛める。
そこで、Stanilandの所持品の中に、ある書付を見つける。
私はBarbara Sparkに決して再び会いたくない。彼女は私を死に至らしめる。私の心は空っぽで、頭も空っぽだ。最後に私がオーガズムに達したとき、彼女は私を笑い飛ばした。
そこに続くくだりは後から追加されたものだろう。何にしろ、それは別のペンで書かれていた。
あのように美しい誰が、いかにしてあれほど残酷になれるのか?いかなる愛が、私のようにこの氷に対して死ぬほどの強い思いを抱けるのか?
そして、更にテープからは、あるバーでそのBarbaraとLayghing Calavierという人物が彼の目の前で戯れて見せることに対する怒りと焦燥・嫉妬が語られる。殊更に彼を嘲り、敵対するLayghing Calavierへの怒り。
それを最初の手掛かりとして、「私」はそれらの中に名前が出て来たバーへと向かう。
* * *
そして「私」はそこからStanilandの所持品、テープ、書かれた文章などを手掛かりに、そこから見つけた場所、人物を訪ね捜査を始めて行く。彼の行きつけのバー、あまり仲の良くなかった兄弟、しばらくの間勤めていたタクシー会社など。
そして署や自分の住居に戻ると、Stanilandの遺したテープを聞き、手紙や書付など彼が書いたものを読む。
そしてそれらからStanilandという人物が徐々に浮かび上がって来る。
元々は作家を目指していて、妻子とともにフランスへ渡り、田舎の村で雑用を手伝い少々の収入を得て暮らしていた。彼自身はその生活に満足していたが、妻はその暮らしになじめず、彼と別れ娘を連れて故国イギリスへと戻ってしまう。 やがて彼もイギリスへと帰るが、そこでの生活は苦しく、借金を重ね酒に溺れて行く。その生活の中で美しいが残酷な女、Barbara Sparkに出会い、救いのない恋情に振り回されて行くことになる。
やがて「私」の探索はStanilandが憎んでいたLayghing Calavierへとたどり着き、更にBarbara Sparkを見つけ出すに至るが…。
こうやって簡略化したあらすじを書くと、普通の警察捜査によるミステリ作品に見えてしまうのだが、この作品については書かれ方という部分で大きく違う。
まず被害者であるStanilandの遺したテープや、様々な書付について。
これは作品の中でもかなりの部分を占めるものだが、実は一般的なミステリ作品の中にあり、あらすじを読んだ人の多くが想像しただろう、その中に断片的なヒントが隠されていて、それらを読んで行くことで最終的にこの犯罪が行われた理由や、 犯人像といったものが見えてきて、最終的に事件解決に繋がるという種類のものではない。まあ少しはその部分もあるけど、一般的な「ミステリ的手法」みたいなものとは大きく異なる。
これらは殺害されたStanilandが、どんな人物であったか、何を考えていたのかということを、本人の言葉によりある種文学的というような手法で、深くその内面を描き出して行くためのものである。
紹介した中で囲みになっている部分がそれだが、書いたのはほんの出だしだけで実際にはかなり長い。何とか少しでも伝わらないかと思ってやったのだけど、こんなんじゃ無理だろうな…。
何か違和感を感じながら読みながら、自分的にそれが決定的に見えてくるのはほぼ真ん中ぐらいに出てくる、Stanilandのテープで語られるフランス時代の寒村での豚の屠畜を手伝うエピソードだった。
フランスでそれらの素朴な肉体労働に従事することに、少し歓びに近い感情を抱いていたStanilandにとって、それは嫌悪というものではないがいささかの畏れを持ちながら、その豚の死と村民たちの食糧、自身の生活といった生を同等に並べる、 詩的・文学的といった方向のこのエピソードは、ミステリ作品という中に置くにはあまりに違和感が大きく、この作品のStanilandの言葉によるパートは、ミステリヒントの断片ではなく、そういった方向で読むべきなのだろうと気付かされた。
特にこの部分については、英国の人によるのだろうと思われるWikiの中でもフランスの象徴主義的というような方向で指摘されている。大変引用も多く、評論かよと思ってしまうようなWikiなんだが、自分でやってみてもこのDerek Raymondという 作家について説明するのは普通のやり方ではやや困難かと実感させられてしまう。
そういった傾向のStaniland自身の言葉により彼の内面、その人物像を深く描いた結構な量になるパートがあり、そしてもう一方の捜査のパート。
まず主人公の「私」だが、部分的に紹介した以外にも省略した現場にいた制服警官とのやり取りや、後に電話でBowmanと話す場面などで、こういった残虐な事件が警察のシステムの中で軽く扱われたり、きちんと捜査が行われないことに対する怒りを表し、 被害者であるStanilandに深く感情移入する。キャラクターとしてはハードボイルド方向の組織やシステムに背を向け、個人の正義に基づき誰に対しても不遜で反骨的という人物だろう。だがこの人物、単に名前が明らかにされないだけでなく、その内面について ほとんど語られることはない。例えば離婚して子供がいるということは序盤で語られるが、その家族と会ったり連絡を取ることはない。表層的に怒りを表したり、その陰惨さに沈鬱になったりということはあるが、内面的に深く掘り下げられたり、それにより 何らかの行動を起こすようなところはほとんどない。つまりこの陰惨な事件とその捜査というところで読者のクッションになるような部分がほとんどない。
その捜査の形としては、関係する人物への尋問、あるいはインタビューというものがほとんどで、被害者に悪意を持ち隠していると思われる人物から情報を引き出すためなら暴力的な行動も辞さない一方、被害者に対して好意を持っていたり、ただ事実関係についての 情報を確認したいだけの相手には、ときには同情的に丁寧に接する。だがいずれの場合もそこに至る過程は書かれるが、実際の会話はちょっとジョージ・V・ヒギンズを思わせるような、録音してきたテープのような省略編集のない、I said、He saidだけで 繋がれるようなものとして書かれる。
この二つの手法の組み合わせにより、この作品ではその人なりの人生があった被害者Stanilandの人物像と、その人物をあまりにも無残に殺害した悪意、残虐さが、非常に強く読者の前に示されることになる。
これは、結果的ということかもしれないが、ドキュメンタリー作品と似たような効果だと考える。いや、フィクションを実際にあったことに見せるフェイクドキュメンタリー的なことを言ってるのではないよ。
映画などのドキュメンタリー作品においてある人物、事件などを扱う場合、既に亡くなっているその人物についてよりリアルに詳しく伝えるために、あれば映像・音声、そして本人の手による文章の朗読などの方法が使われることは多い。 その一方で、インタビューなどの取材パートでは、伝える方向は明確であっても、製作者たちは極力前に出ずに、事実のみを伝えようとする。
この作品においては、その手法により、そういったドキュメンタリー作品に近いような形で、この殺人で何者の命が失われ、そしてそれがどれほど悪意に満ち、残虐であったが強烈に現されてくる。
一見ミステリ作品の一つのパターンとして書かれているように見えるこの作品だが、そこに沿った形で読み、そういったものと照らし合わせるような読み方では決して理解することすらできない。
英国もある意味日本と同様に、クラシックな謎解きミステリをミステリの本質と見て偏重するような古い考えが多く残るところのある国だ。作者Derek Raymondはおそらくはそういった傾向に反感を持っていたのだと思う。いかなる形であれ殺人とは暴力の 究極の結末である。にもかかわらず、その部分から目を背け、そういったものが書かれた物に対し、「暴力的だ」「血なまぐさすぎる」と日常的な道徳を背景に安直に批判できると思い込み、その一方でその部分を除いた結果としての死体を、 謎解きミステリーのアイテムとして「客観的・科学的」にのみ分析するのが高尚なインテリジェンスによる「娯楽」だと思うような。その辺が現れているのが、序盤の部分の警察医の死体の扱いに怒りを覚えて「私」が発する「シャーロック・ホームズの真似事」 というような言葉なのだろう。
ここにあるのは、世間から見捨てられたようなものであってもその中には様々な美しく理知的な考えを持った一人の人物が、恐るべき悪意と残酷さにより、残虐に殺害されたという「殺人事件」だ。
"説明不可死亡事件課"(Unexplained Deaths)という「私」が所属する課の名前から何を想像しただろうか?見捨てられた捜査に真剣に誠意を持って取り組む主人公を理解する数少ない人物からの「あなたは素晴らしい人だ」的な小さな激励と称賛? 僅かに存在する力無き市民である被害者に愛情を持つ者からの感謝の涙による人情エンディング?そんなものはこの作品にはありゃあしない。作者はそんなことを書くためにこの設定を作ったわけではない。
これはこの作品の形から逆に考えれば想像できるだろう。事件捜査部分をなるべくシンプルに削り落とすためには、主人公は捜査権限を持った警察官であることが望ましい。そして作品テーマから、大掛かりな警察捜査から見捨てられた殺人、 そして他からの横やりも、助力も入らない捜査というところから、この誰も行きたがらない"説明不可死亡事件課"という部署が設定されたのだろう。
そしてこの主人公は、その被害者に深く感情移入し、その残虐さに怒りながら、新聞で大きく報道されることもなく、出世を望む警察官が手を出したがらない、見捨てられた殺人事件へと臨んで行く。
終盤、「私」はStanilandのテープを聞きながら、不意に「脈絡なく思い出した」昔の友人であった老彫刻家について語り始める。
左翼思想に傾倒し、スペイン内戦に参加し聴力を失い、世間からは疎まれている老人。精神を病んだ妻を献身的に介護し、やがて自身も最期を迎える彼の作品は、誰からも顧みられることなく無残に粉砕される。
無関係と言いつつ、やはりStanilandへの想いと無関係とは思えない、ほとんど描かれることのない「私」の内面が垣間見える非常に印象的なエピソード。作中唯一、「私」=作者Derek Raymondに最も近付くところなのかもしれない。
その後、すべての捜査が終わったと考えた「私」は、出発の時間を待ちながら再びStanilandのいくつかのテープを連続して聴き、最後の行動へと向かって行く…。
「ほとんどの人間は目を閉じて生きている。だが、私は目を開いたまま死のうと思う」
序盤の方でStanilandのテープの中で語られる一節。
『He Died with His Eyes Open』というこの作品のタイトルは、被害者Stanilandの死体の状況についてのみならず、こういったこの人物の思い、更には事件を追って行く「私」、そして読者が直面する開いたまま死んだ彼の目が最後まで見た、 あまりにも残酷に終わらせられた彼の人生についてを表すものである。
これは本当に凄い作品だ。結局自分なんて、手法についてこねくり回してその一部ぐらいを伝えるのが限界程度のもんだよな、と情けなくなる。いくら書いてみたって、あらすじ以外に何パーセントぐらいこの作品から受けた衝撃が伝わるかというもんだよ。 Derek Raymondというのは本当に凄い作家だ。少なくとも自分の中では、ノワールというジャンルに於いて、かのジム・トンプスンとも並ぶぐらいの重要作家となっている。これほどの作家と出会ったからには何が何でも読み続けなければならない。 あまり数は多くないのだが、このDerek Raymondの著作については手に入る限り集め、今後も紹介して行くつもりである。
* * *
作者Derek Raymondについて。1931年生まれ。本名Robert William Arthur Cook。結構名家の出身だったらしいが、17歳で名門イートン校をドロップアウト。その後兵役に就き、除隊後短期間デパートの下着売り場で働いた後、1950年代の大半をチェルシーで暮らし、その体験は 1962年に本名Robin Cookで出版されたデビュー作である半自伝的小説『The Crust on Its Uppers』に語られているらしい。
71年までに6作の作品をRobin Cook名義で発表した後、事情は分からんがしばらく沈黙。そして1984年からDerek RaymondのペンネームでFactoryシリーズを開始する。
この改名については、米国の同名のベストセラー医療ミステリ作家や、イギリスの政治家と混乱されるのが嫌で変えたということ。だが、フランスにおいては本名で出版された過去作の人気が高かったため、FactoryシリーズもRobin Cook名義で 出版されたらしい。
特にフランスでは出版後すぐに高く評価され、翌1985年には同題『On ne meurt que deux fois』でジャック・ドレー監督、シャーロット・ランプリング主演で映画化されている。日本での公開タイトルは『トレンチコートの女』。これについては、 過去に観た覚えはあるんだがもうほとんど思い出せず、現在ではちょっと観るのが困難になってる様子。あらすじを見る限りでは刑事をStanilandにして色々ごちゃまぜにして、悪女を演じるランプリングを中心にした感じの話にまとめられているのではないかと思われる。なんかあんまり無理して観ようという気にはならんが…。
なんかさあ、これ見ててまたノワールクラシックみたいな話で、この原題の意味重要性をまるで無視して、日本で過去に付けられた『トレンチコートの女』なんてタイトルをそのままつけて、延々と悪女シャーロット・ランプリングのことばかり語ってる ようなゴミ解説をケツに付けたクソ本が出るのを思い浮かべてしまったよ。なんか悪夢に出そう…。まあ今時そんなこと絶対に起こらんとは思うがね…。
そして彼の最高傑作にして最もおぞましい作品と言われているのが、シリーズ第4作『I Was Dora Suarez』。その過激さゆえに前3作の版元からは出版を断られ、そこでエージェントとなった作家マクシム・ジャクボウスキーの奔走により別の出版社から
1990年に出版されることとなる。出版後も賛否両論というところだったが、またフランスでは非常に高く評価され、Raymondにはフランス政府から91年に芸術文化勲章シュヴァリエが贈られる。1993年には英国のインディーズロックバンドGallon Drunkの演奏をバックに、Raymondがこの作品を朗読する同名のCD『I Was Dora Suarez』もリリースされる。これについてはApple Musicでも聴けるよ。
1993年第5作『Dead Man Upright』が出版されるが、前作までの勢いは衰えてしまったらしい。この作品については現在Serpent's Tailから出ているシリーズには含まれていないんだが、評価ということよりまた版権の問題なんだろ。
1994年、Derek Raymondは癌により死亡。同年、死後に出版された遺作となった『Not Till the Red Fog Rises』は各方面から高く評価されている。
■Derek Raymond著作リスト
●Factoryシリーズ
- He Died with His Eyes Open (1984)
- The Devil's Home on Leave (1985)
- How the Dead Live (1986)
- I Was Dora Suarez (1990)
- Dead Man Upright (1993)
長編
- The Crust on Its Uppers (1962) : Robin Cook名義
- Bombe Surprise (1963) : Robin Cook名義
- The Legacy of the Stiff Upper Lip (1966) : Robin Cook名義
- Public Parts and Private Places (1967) : Robin Cook名義
- A State of Denmark (1970) : Robin Cook名義
- The Tenants of Dirt Street (1971) : Robin Cook名義
- Nightmare in the Street (1988)
- Hidden Files (1992)
- Not Till the Red Fog Rises (1993)
昨年12月末にいざ!と書き始めたものの、あー12周年間に合わねえと中断し、なんだか余計に苦戦したような気もするんだが、何とかこの衝撃作について伝えることができた。ここからDerek Raymondを読んで行くぞ!と意気込んだんだが、 そこでそういやもう一人の「英国ノワールの父」であるテッド・ルイスだって日本にはほとんど伝わってないんだよな、と思い出したり…。また、この作品で、ちょっとネタバレあるかも?ながら熱い序文を書いてる、今年1月に亡くなった ジェイムズ・サリスについてだってもっと読まれて伝えられなければと思う。読まなければならない作品、書かなければならない作家は果てしないよな。
とにかく目の前のことから言えば、12周年の中でも書いたチリのRamón Díaz Eterovicについて直ちに書き始めなければというところで、その一方でエルロイとPI小説2冊が待機中だったり。そういや、12周年でこいつ復活しねえのかな、 とか言ってたピーター・スピーゲルマンも今月頭ぐらいに思いついて見たら新作発売予定で過去のなんか半分絶版状態だったジョン・マーチもきちんと復刊されてたり。こいつも読みたいんだが…。
本当に読まなければならない作品は果てしなく、なんか自分もどうせ生きているうちにすべて読むことなんてできないその中の最後の一冊を、最期まで目を開いて読みながら死にたいと思ったりするよ。…まあ、ここんとこ体調不安定で よく本読みながらぐーと寝ちゃう私には無理な話だろうけどさ…。







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