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2021年2月14日日曜日

ブログ7周年 ! \\すげえ// \\やべえ//

ブログ7周年です!7周年を記念してパクりました!いや、リスペクトっす。\\すげえ//、\\やべえ//といえば『はるみねーしょん』!大好きっす!全8巻持ってます。 大沖先生ありがとう!

で、7周年です。なんかやってるうちに7年経ちました。えーっと、そのぐらいです…。まあ所詮はそんなもんですね。
ただまあ、こういうのもいくらかでも読んでくれる人がいるからこそで、やっぱりそういう人達にちゃんとお礼を言わなければ、というのが今回の趣旨なので。
7周年です!どうも有難う!
終わりです。

いやまあ、挨拶なんてそんなもんですよね。なーんか自分過去に書いたものほとんど読まないし、7年を回顧してみても、多分色々無駄に反省して、無駄にへこんで、 そのうち各方面への罵倒呪詛になってって無駄な時間使うだけになっちまいそうだし…。どーすっかな、と思ってるうちに、あーそういやあの事書いてないな、 と思いついたのがこちら。

■日本のパルプについて考えてみる
なんか常々考えていることなのですが、なかなか書く機会というか、余裕が無かったりしてこれまで書くことが出来なかった「日本のパルプについての私の考え」というのを 7周年のこの機会にちょっと書いてみようと思います。
こういうことを書く時には、まずパルプとはなんぞやというところから始めるのが常道だと思う人もいるでしょうが、常々言っとるように私はそういうクソ定義というのが何より嫌いな 人間ですので、ほら~パルプっつったらアレだよアレ、大体わかんだろ、ぐらいのアバウトなところで始めたいと思います。所詮そんな評論家みたいな連中が言い立てる「定義」なんてもんは ジャンルを変な形に縛って足枷にして身動き取れなくしたり、見当違いの方向に向かわせたりするだけのクソ迷惑なだけの代物なんだよ、ぐらいの悪態付きで。

まあ一般的にイメージされるアレのパルプの、日本における偉大なる先人と言えば、まず大藪春彦でしょう。正義やモラルなど、あらゆる価値観・思想に縛られず戦闘機械として尖鋭された 個人こそが最強であるという、ある種の超人思想を軸とした大量の作品群で、ただ一人の手により日本の犯罪小説のプロトタイプともいえるものを構築した、日本のハードボイルド、ノワールジャンルにおける 最も偉大なる先駆者であります。その内容、そして量の両面で、大藪春彦作品はアメリカにおけるパルプに相当するものと言って間違いないでしょう。
そうやって偉大な先駆者によりひとつのジャンルが打ち立てられ、そこに続く同じ傾向だったり、模倣だったりする作品群により日本のパルプジャンルと呼ばれるものが形成されて行くのです。 しかし…。確かに大藪春彦により「大藪春彦的」とも呼ばれるようなひとつのジャンルは確立されたのですが、はっきり言ってしまえばそこに読むべき作品というのはほとんど存在しないというのが 私の意見です…。
個々の作品や、作家の作品傾向について批判するというのは自分の好まないところなので、ここで書くつもりもありませんが、要約すれば「単なる粗悪作品」としか言いようのないものがみつかるばかり…。
パルプ作品を読むというのは、そういう大量の粗悪作品の中から評価すべきものを発見することです。パルプ的なものにこだわりを持つ私ゆえ、その考えで過去に何度も日本のパルプジャンルの中から 宝石を見出すべくそこに挑んで行ったのですが、最後まできちんと読む気になれるものすら少なく、なんとか半ばぐらいまでは読んだもののさすがに耐え切れず、後半は15分ぐらいでナナメ読みして 読了と同時に手近のゴミ箱に叩き込むというのを何度繰り返したことか…。
いくつかの作品を読み、もうこういう奴らの書いたもんは二度と読まん!と思うのですが、しばらくするとまたそういう考えが 持ち上がってきて、またいくつか読んで心底落胆する、というのを定期的に何度も繰り返し、最後が電子書籍により手軽になった米英原書を多く読み始める前夜ぐらいで、その時にはもう日本のこのジャンルには 希望は持てないのだろうと完全に諦めの気持ちを持ちました…。

日本で出版される犯罪小説が全て大藪春彦的傾向の物であるとまでは言うつもりはありませんが、やはりその多くの部分をを占めるのがその傾向の作品だと思います。 そして何故大藪春彦に匹敵する作品がなかなか生まれないのかというのは、前述した通り大藪作品というのはある種の超人思想を軸としており、 それは作者大藪自身の思想・哲学にも相当する強固なものであり、そういったもの、あるいはそれに代わる強固なものを持たない作家がただ形式だけを真似してみても 単なる粗悪作品しか生まれないのではないか、というのが私なりに考えた個人的な意見です。大藪春彦的なジャンルで、彼に匹敵する作家が現れることはないとまでは言いませんが、 少なくともこれまでは本当にそういう資質を待った作家によってそういう作品は書かれていないと思います。大藪春彦作品については言いたいことも山ほどあるのだが、 書き始めたらそれだけで終わってしまいそうなので、それはまた別の機会に。今回の趣旨は大藪作品についてではないし、ましてやそれを模倣した粗悪作品を批判するような時間の無駄でもないんで。

日本の犯罪小説でパルプ的とカテゴライズできるものの中にも、大藪春彦とは毛色の違った作風で評価できる作家もいなくはない。だが、そういうものを加えても今度はパルプのもう一つの側面である 「量」というものは実現できない。というか全体の中でそういうものの割合があまりにも低いのだろう。実際のところ、結構根気があるのは私の数少ないスキルだし、いくらかでも道筋のようなものが 見えるなら、多少の劣悪作品を読む事も厭わない。しかし、やはり日本のこのシーンでは、唯一の大藪春彦を除けば、残念ながらパルプというものは存在しない、というのが私の意見です。

ただまあ、あんまりダメばかり言っていても仕方ないので、少し付け加えるなら、近年のこのシーンで唯一質量的にもパルプ的なものに近付けたのが、あの戸梶圭太なのでしょう。まだまだ戸梶先生には 余力はあるのでKindleダイレクトにて今後も頑張ってほしいものです。
深町秋生というのもシリーズ物だったりという形でそういうシーンで頑張ってる作家なので、それくらいはその辺のダメ群から よけといてあげんとなあ、とか時々思うけど、まあワシが心配することでもないか。
以前に名前を挙げた深見真も、結構大藪にも近いかというジャンルでいい作品を書いていたのだけど、今はそういう所から 少し離れているようなのが残念。また戻ってきてくれるのかな。まあ私はきらファンの第2部のストーリーの方も楽しみにしとりますんで。

しかしながら、周辺でそれら極少数の読むべき作品が見つかるとしても、実際のところはあまりにひどいの読まされすぎてもうなかなか日本のそのジャンルには手を出す気が起きないのが現状。 なにしろこの国で売れてるなんてのは全く読む理由にはならんし、コイツがホメてるから、なんて指針はもう存在しないし、ましてや映像化なんてのはまったく価値判断基準にもならない。 なんかさあ、大藪春彦新人賞受賞なんていうのも怖くてなかなか手を出す気になれないぐらいなんよ。もしガッカリ作品だったとしたら、もう…。
ただねえ、その一方で私が尊敬し絶対の信頼を抱くPaperback Warrior師匠が、マック・ボランスピンオフ作品やデス・マーチャントシリーズなんかにも果敢に挑み、その中から評価できる作品を 見出してきたりするのを見ると、あーオレって惰弱やなあ、と反省したりもするのだけどね。

さてここで、一旦は少し視点を変え内容的な部分を考えず、出版供給と消費の部分から日本のパルプというものを考えてみよう。すると、な~んかね、結局日本における出版流通みたいな部分で見た パルプ的なものって、実は赤川次郎とか森村誠一みたいなんじゃないのという気がしてくる。それに対応するようなTVのサスペンスドラマみたいの考えると、ますますその辺の確信は強まる。 結局日本でいつまで経っても自称「本格」が幅を利かせてるのもそういう下支えがあってのことなんかねえ。

結論:日本におけるパルプは「ナゾトキ」である。

…だがそれでいいのか?本当に日本にはアメリカに見られるようなハードボイルド、ノワール、ホラー、メンズアクションアドベンチャー、SF、ウェスタンへと広がるバイオレンスと暗黒の エンターテインメントは存在しないのか?そういった作品への欲求や、創作への希求はあのレベルのものでしかないのか? 大量に作られるパルプというものの必然性である多数の粗悪作品の中から宝石が見つかる確率は、日米の人口や国土の面積比率から換算すれば、これほどの低確率になってもやむを得ないのか? この国に本物のパルプ文化を見出すのは不可能なのか?

…いや、待て。アレがある。日本にはアレがあるぞ!
さいとうたかを、佐藤まさあきらによって劇画として始まり、70年代~80年代にかけ、小池一夫、梶原一騎らを筆頭に確立・拡大され大量の作品群が産み出された大人向けマンガ! あれこそが日本の真のパルプなのではないのか?アメリカのコミック界では様々な試みはあっても存在し得ず、日本のみに確立され、そしてアメリカにおけるパルプと同じ読者層を ターゲットにしたこの作品群こそが日本のパルプだ!というのが私の考えである。

この考えで言えば、日本ではより訴求力のあるマンガという手段が発展したために、小説としてのパルプへと向かう才能がマンガへ流れ、それゆえにそちらに優良作品が少なくなってしまった ということも想像できる。
そしてまた一方で、なんか日本にもあるように見える小説のそのジャンルも、大藪春彦という存在がなければ、ほぼ見向きもされないチョイ足しエロ小説と、 社会派推理小説みたいのを変形したミステリにくっついたフジツボみたいなもんに分かれてそもそも存在すらしていなかったのかもという考えも浮かんできたり。やっぱ大藪先生は偉大やねえ。
まあ昔のマンガ原作者の中には小説家に成れなくてその道に進んだ人もいるようだが、結果としてそのせいでエンターテインメント方向に開花し、「作家」として名を残せた、なんてケースも 多いんじゃないのと思うがね。

さてこのパルプとしてのマンガ。なんかこの書き方だと、70~80年代のなつマン発掘ー、みたいなのを提唱しているように見えるかもしれんが、もちろんそんなわけではない。モチのロン。
続く福本伸行の『カイジ』『アカギ』、そして『嘘喰い』から『賭ケグルイ』、更には現在私が注目する村田真哉、山口ミコト、宮月新といった作家による作品群へ、という形でこのパルプ精神は引き継がれ、 その流れは続いて行っているのである。
あっいや、そんなに空手チョップや昇竜拳でツッコまなくてもこのマップにかなりヌケが多いのは知ってるよ。ギャンブル物に偏り過ぎだし…。 このヌケを埋め日本のマンガパルプの系譜を明らかにして行くのが、私のいっぱいある目標のうちの一つである!
繰り返すが、日本のマンガとしてのパルプは、既に過去となった作品だけではない。 ここに挙げたほかにもまだ私が読めていない優れた作品は山ほどあるはずであり、そしてこれからも作られて行くものなのだ。

ここで一つ注意しておこう。マンガの一つの流れをパルプとみなし、その系列に小池一夫と村田真哉を置いた時、それは例えば村田真哉最新作の『ブラトデア』のどこそこに小池一夫のこういう影響が 見られるとかいうことを意味するものではない。それはマーク・グリーニー/グレイマンが、マイク・ハマーからマック・ボランへの流れの末裔であることは明かであっても、それが グレイマンがハマーやボランからインスパイアされたということではないし、またグリーニーがそれらを全く読んでいなくともその事実に変わりないということと同じである。 全ての作品は、先人が道を拓き、フィールドを造り上げた上に現れるのだ。その意味で小池一夫、梶原一騎と村田真哉は連続し続けているのだ。

最後に少し、パルプというものの存在位置ということについて考察してみよう。
パルプの対極にあるものは何か。日本の文壇とか的な考えで行くと、パルプというものを「大衆文学」とみなし、その対極にあるものは「純文学」ということになるだろう。
だが、それは全くの間違いである。
パルプの対極にあるもの、パルプが対峙するものは常にそういった作品ではなく、そういう優劣を作り上げるシステムだ。 道徳や教育的価値、果ては社会規範や小手先の常識とやらまで、場合によってはそれらの持つ意味すら熟考せず、ただ世の中のルールとしてそれらのチェック項目を満たしたもののみ 認定する良識とやらぬかすシステム。そしてそれに従っていれば自らの世界が護られると信じる追随者たち。
いつの時代も奴らはそのシステムへの反逆者だ。奴らの闘争手段は武力ではなく、アジテーションや理論武装でもない。その豊かな物語により、硬直した価値観を蹴飛ばし、嘲笑うのだ。 パルプこそが常に状況への反逆者なのだ。
だがモラルの境界周辺を進む彼らの道は常に綱渡りだ。そしてその道では心根の卑しい下衆はすぐにその正体を露呈する。読者が喜ぶサービスだと思い込んでる、ただ陰惨なだけの SMまがいの凌辱シーン。都合のいい「弱肉強食」や「現実主義」。そんな物を粗悪品と呼び読後ただちにゴミ箱へ叩き込むことには一切の痛痒を感じない。
だが常にその中に、良識が決して認定も許容もしない新しい物語、心躍らせる物語が潜んでいることを私は知っている。そう、知っているのだ! そしてまた、性懲りもなく、そのクラゲだらけのヤバい海へと、浮き輪に掴まってパシャパシャと泳ぎ出して行くのである。おお~い、そこ遊泳禁止だぞ~。


ということで7周年記念に普段なかなか余裕もなくて書けなかった、私の日本のパルプについての考えを、熱く語ったり、ほのぼのと終わってみたりしました。
なんか他にも色々と思いついたりしたこともあったり、細かいところであれはあーだ、こーじゃない、など結構あったけど、ちょっと間に合わんかもとか、長くなりすぎんようにと あちこちで捨てて、まあこのくらいがいいのかな。これでも充分長いけど。
随所に肉体LOVE♡北上次郎や読書のプロや団塊、サブカルなど各方面への無差別罵倒ルートもあったが、それやり始めると途方もなく長くなるので、なるべく横道にそれずに進んだ。 なんか攻略本にも推奨されるような最短最速ルートで初めて完走したような気分ですね。
ただその勢いでどっかでやっとかなきゃと思っていた、B級映画のB級というのはそういう意味じゃなくて製作費とかのことなんだよね、とかチャンスを見れば得意になって言い出す お勉強系解説小者が、パルプというのはそもそもがこの辺の時代にこういう形で出版されたもののことで…とか吹き始めるのを牽制するのも忘れちまってたので、ここでやっとこう。 うるせえよ。ナンカ知恵袋でも行ってやってろ。
しかしまあ、ちょいと熱く語っては見たものの私自身の現状は…。本来まずやらねばならない、日本には翻訳されず、また翻訳されてもまともに語られる場もなく、やる気もない 読書のプロどものお小遣い稼ぎ駄解説を付けて出版されるハードボイルド、ノワール作品についてや、こんなにいいものが沢山あるのにこちらもやはりほとんど語られる場もない、 いや、この質と量に関してこりゃいかんだろ、ぐらいの海外のコミックについてすら遅れに遅れて息も絶え絶えぐらいなので、まあこのブログでこっちまで拡げて行く余裕はないな…。
実際のところ、読む方でもやっぱりそっちの海外物が優先されちゃって、その少ない時間のなかでもとりあえず先へ進むための新しいものが優先されて、なかなかクラシックパルプの方は 進まんというのが現状。そういうのって特に今ではマンガKINGやらマンガ図書館Zとか行けば無料で読みまくれたりさえするのになあ…。なんとか今年こそはあの『カラテ地獄変』三部作を『ボディーガード牙』から 完全通読し、『人間兇器』へと進みたいとか、川崎三枝子もとか、ああゴルゴ大山脈とかもう果てはないよ。あっ、ゴルゴって言ったらゴルゴ勝手にどっかへスピンオフの村上和彦『日本極道史~昭和編~』も 止まったままや、と思い出しちまったり…。
まあそんな感じで、7周年記念ということであんまりブログ本体には反映できなそうな個人的な趣味のお話をしました。あれだな、なんか堅いことやってるブログの人が、何周年記念なので 今回は趣向を変えて僕が個人的にはまっている家庭菜園の話をしまーす。というような感じで読んでもらえりゃいいかな。で、いつもは日本で出てるのなんて誰でもすぐ見つけられるから いーだろって感じで省略してるけど、今回は個人的に期待する未来へ進む日本のパルプを代表し、村田真哉『アラクニド』シリーズ、山口ミコト『デッドチューブ』、宮月新『虐殺ハッピーエンド』をアマゾンの リストの方に並べてみました。家庭菜園おススメ野菜の種とかぐらいの感じでほほうと眺めてみてください。

というわけでブログ7周年でした。この辺で締めてとっとと逃げます。
しかしなあ、7周年とか言ってみてもワシがこんな虚弱な怠け者じゃなきゃ、せいぜい2~3年で充分書けるもんじゃないの、とへこんでみたり。
なんか7周年直前のつい先週も一時的にほぼやる気なくしたりしたしなあ。いやさあ、そろそろ7周年まとめなきゃとか思ってPCに向かったんだけど、なんか先に思い付いたことあって色々調べていたら、 気が付くとモニターにアマゾンのことごとく未読の北欧ミステリリストがずらっと並んでてさあ。時々なんかの流れでおススメにひとつ二つ浮かんでもあーそれちゃんと持ってるから!いつか読むんだから! とスルー出来るんだが、それだけ大挙して現れられると…。わー、これも読めてねえ!これも!なんでこんなに読めないんだよう?そーかブログなんてやってるからだよ!もーやめるー!…みたいな。 まあ単なる夏休み最終日小学生モードなんやけどね。
実際書くことないとかいうことじゃなくて、もーこれ絶対書かなきゃという予定が5~6回先まで決まってるような状態なのだけど。 何とかこれの前にと思って書いてたけど、こっち間に合わなくなりそうで中断してるあと少しで書き上がるのもあるんだよ。 なんかそんな小学生モードを時々暴発させてへこたれながらも、これからも続けて行きます。7年間有難うございました。たぶんまだ続きますので今後も時々見に来てやってください。
あ、そういや今年のスプラッタパンクアワード、ノミネートそろそろ発表かな?あっ、今日募集締め切りならもうすぐ発表されちゃうじゃん。あー来週あたりまた急いでやんなきゃならなそうだな。 そういや第2回の長編賞のやつ読んだのにいまだに書けてないし…。第3回に至ってはまだ読めてもないし!なんでこう上手くいかんかなあ?あーこんなことやってるからだよう。 もうブログやめるー!ぷー!


■DEAD Tube ~デッドチューブ~ (原作:山口ミコト/作画:北河トウタ)

■虐殺ハッピーエンド~蒼の章~ (原作:宮月新/作画:向浦宏和)

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