
このRick Cahillシリーズについてはかなり気になっていて、早く続きを読まなくてはと思っていたところ。まあ、あっちもこっちもそんなもんで、あんまり早くはないけどとにかくやっと読んだ第2作。
第1作『Yesterday's Echo』では、親友のレストランの雇われ店長として登場し、ある事件に巻き込まれてその職も失い、新たに私立探偵免許を取得し、再出発するという形で終わっていた。
かつて警官だった時、妻を殺害されその容疑者となり、現在に至るまで新犯人は捕まっておらず、まだ彼が犯人だと思う人間が警察内にも多いというような境遇で、さらに同じく元警官だった父親は、何らかの不正を働き警察を追われ、 その辺の事情も曖昧なまま、すでに故人となっているというような、なんか予めかなりの重荷を背負って登場した主人公Rick Cahill。
レストランの客として現れた美人を地元の有力者から助けたというところから始まり、その美人といい仲になったまではよかったが、そこから彼女に利用されたのでは?という感じで続いて起こった殺人事件に巻き込まれ、また一方で 経営難に陥っていたそのレストランをその有力者が買収するという計画も持ち上がっており、結果、職も親友との友情も失って行くこととなる。
そもそもが辛いものを背負ってる主人公Cahillが、前半部に関しては自分が何に巻き込まれているかもわからないまま徹底的に追い詰められ、全てを失って行く。後半に入り、逃亡者状態になりながら独自に捜査を進め、事件の真相を掴み 黒幕と対決するという展開。
前半部を読んでる時点で、とにかくあまりに主人公が追い詰められるので、もしかしたら最後にこれ全部綺麗に清算され、なんかなあぐらいのハッピーエンドに持っていかれるのでは、とちょっと不安になった。「ハッピーエンドが好き♡」が 正論正義だと思ってる層がブイブイ言わせてんのって日本だけの話じゃないからね。
第1作『Yesterday's Echo』はそんな不安を解消する(?)、あ、もう少し緩くてもよかったんじゃ…、と思うような苦い結末へとたどり着く。最後の最後に親友が助けに駆け付けるが、結果大けがを負いスポーツマン的冒険人生を 断たれることになる。他にもなぜ妻の殺害容疑を晴らす証明ができなかったか。うーん、ちょっとネタバレになるかもしれんが、実はその時間に同僚警官の奥さんと不倫をしていたということが明らかにされる。事件の解決は基本地元警察の手柄となる一方、 不正に関わっていた部分をあぶりだすことにもなり、元々妻殺害容疑と父親の件で折り合いの悪かった地元警察との関係はさらに悪化することとなる。
第2作を読む上で、全作の詳しい解決などは必要ないので省略、あえてネタバレはしないが、妻が殺された事件の真相、父親が警察を追われた件の謎などは、特に進展もなく引き継がれる。
文章描写であるとか、総合的なところでは確実に実力を感じさせるのだが、物語を前半と後半に分け、前半が謎、後半が解決編というような意図だったのかもしれんが、前半部分があまりに巻き込まれて悪い方向に進むばかりで、何か考察するミステリ的構造も うまく構成しているように思えずという感じで、デビュー作ゆえの失敗という部分も大きいかと思い、とにかく私立探偵となる第2作を早く読んでみなければと思い、やっと読んだという次第。
実はこのRick Cahillシリーズについてこだわっている理由は、この作家作品的方向以外にもまだあるのだけど、それについてはそこそこ長くなりそうだし後ほどに。
とりあえずは私立探偵となったRick Cahillの物語はどうなったのか、というところでシリーズ第2作『Night Tremors』です。
■Night Tremors
さて、かくして私立探偵免許を取得したRick Cahillだが、自身の事務所を構えて単独で仕事を始めるわけではなく、亡き父の同僚だった元警官で、その辺の人脈では唯一ぐらいに彼に好意的で、父の葬式に出席した唯一の元警察関係者である Bob Reitzmeyerの探偵事務所に雇われることとなる。
主な仕事といえば、浮気調査。調査相手を尾行し、決定的な証拠となる場面を窓から覗いて写真を撮る。
ずいぶんその仕事にも慣れ、長けて来た。今日も依頼人の夫を尾行し、窓の隙間から決定的シーンを撮影する。
仕事の成功を事務所で待つBobに報告する。そして戻る前に夕食にしようとレストラン通りに車を向ける。
そしてMuldoon's Steak Houseに着く。
2年前、彼の人生が大きく変わる前、Rickはここの雇われ店長だった。今では月に数回夕食に訪れるだけだ。
自分の知らない女性店員が迎え、彼は「今日はTurkはいるかい?」と尋ねる。
今はいません、後で来るかもしれませんがわかりません、という女性の言葉に、少々の安堵を覚え、同時に罪悪感も感じるRick。
2年前、彼の命を救ってくれた親友Turkだったが、その代償は大きく、今では歩行に杖が必要となっている。
食事を終わったとき、彼のテーブルにある人影が近づいて来る。テキサス仕立てのウェスタンスタイル・スーツにカウボーイハット。
Timothy Buckley。サンディエゴでの警官時代にお馴染みだった、ヒモやジャンキーの釈放に奔走していた弁護士。現在はこのLa Jollaで看板を構えている。
Buckleyからは、不在時に事務所に3~4回Rick宛てに電話が掛かってきていたが、気乗りせず無視していた。そこで彼がこのMuldoonで時々食事をしていることを聞きつけ、ここに押しかけてきたというわけだ。
そこまでして、俺に何の用だと聞くRick。
「Eddingtonの息子を憶えてるか?」Buckleyは言う。
「Randall Eddingtonか?」
「そうだ」
「人殺しの?」
8年前、18歳のRandall Eddingtonは自分の両親と幼い妹を殺した。その事件は全国的に大きく報道され、このLa Jollaに多くの報道車が詰めかけた。
自分は人殺しの狂人を刑務所から出す手伝いをするつもりはない、と告げるRick。
「私は彼が狂人だとは思っていない」Buckleyは言う。新たな証拠が見つかり再審を起こせる可能性がある。2年前にRickが自力で解決に導いた事件の記事を読んだRandallの祖父母が、孫の無実を証明するために彼に調査を手伝ってほしいと望んでいる。そうBuckleyは説明する。
「仮に俺がやりたいと望んだとしても、無理な話だ。俺は雇われ人で、フリーランスじゃない」Rickはそう告げ、Muldoonを後にする。
翌日、Rickは事務所に出勤し、調査が成功し依頼の件の夫が浮気をしている証拠を掴んだことを報告する。
他の件で忙しい所長のBobから、依頼人への報告も任される。
証拠写真もプリントし用意もできたところで、依頼人の妻が事務所を訪れる。意気揚々と調査が成功したことを告げ、証拠写真を渡すRick。
だが、返ってきたのは不快感を露わにし、彼を覗き屋とさげすみながら調査料の小切手を切る依頼人の姿だった。
これが自分のやっていることか、という現実への落胆がRickをBuckleyからの依頼を考慮してみようという方向に傾ける。
RickはBobに、しばらく休暇をもらいたい、その間知り合いから頼まれた調査をやってみたい、と話す。
こうしてRickはこの事件に関わって行くことになるのだが、まだ本当に調査に取り組むかは決めかねている。それはRandallが本当に無罪で釈放されるべき人間なのかという疑問から。前述のようにこのTimothy Buckleyという弁護士は、 法の抜け目を突いてジャンキーなどを釈放してきた人物だ。同様な方法で、収監されておくべき殺人者を刑務所から出すような行為の手伝いなどしたくない。
Buckleyに連絡したRickは、まだ依頼を受けるか決めかねたまま、まずRandallの祖父母と会うことになる。
少し気難し気な夫Jackと、孫を心から心配している心優しい妻Rita Mae。彼らに好感を持ったRickは、そこでBuckleyがこの老夫婦の苦境に付けこみ、偽りの希望で金儲けを企んでいるのではないかと疑い、彼を問い詰める。だが、自分は正しいことをしたいのだ、 と真っ向から答えるBuckleyの言葉に嘘はないように思える。
Rickはそこで、ある人物からの証言で、この事件には真犯人がいる可能性があるという、事件の新たな進展について知らされる。
事件に関するファイルをBuckleyから受け取り、Rickは事務所に向かい、犯罪関連の調査には便利なそちらのPCを使い、下調べを始める。
そこに所長のBobが現れる。RickがRandall事件の調査をしているのを知ったBobは、休暇は構わないがその調査はやめろ、と強硬にも思えるスタンスで告げる。
8年前といえば、Bobが警察署に勤めていた時期だが、ファイルによればこの事件にBobは関わっていないはずだが…?
実際に調査に関わるかどうかの判断のため、Rickは新たな証言のために名乗り出た、Trey Fellowを訪ねる。
Fellowはビーチ近くのコテージに住むサーファーだ。ドアを開けた途端、マリファナの煙が漂って来る。
これは医療用だ、とFellowは言う。背中を痛めて処方されていて、6か月の障害手当を受けていて、現在は仕事に就いていないとのこと。
証言の内容は、先週The Caiked Cueというバイカーが集まるバーで聞いたという話。そこで様々な犯罪に関わっていると噂されるバイカー集団The RaptorsのメンバーであるSteven Lunsdorfが、あの事件は自分がやったと吹聴していたという。 FellowはLunsdorfが凶器をどこに捨てたか話していたのも聞いたという。
話としては通っているが、こんな男がなぜRaptorsを敵に回してそんな証言をするのか?
「俺がマリファナを吸っていて無職だからって、世の中に関心がないわけじゃあない。俺はあの子と祖父母を気の毒だと思ったんだ」
Fellowは、必要があるなら宣誓証言もすると話す。
Fellowとの面談の後も、まだ100パーセントの確信は持てないRickは、Randallが収監されているサン・クエンティン刑務所のあるサンフランシスコに向かう。
8年の歳月はかつての少年をがっしりした体格の青年に変えていた。
誠実に話し、理性的に現場で見つかった証拠がいかにして警察によりでっちあげられたかを説明するRandall。だが、何より悩むRickの心を動かしたのは、幼かった妹の死に涙を流すRandallの姿だった。
そしてRickは、Timothy Buckleyの下で、Randall Eddingtonの釈放を目指し、調査を始めることを決意する。
こうしてRick Cahillは本格的に事件に取り組んで行くことになるのだが、ここで最初に書いた前作から私の中で謎として残っていた作者Matt Coyleの作風について。
今作では私立探偵になったということもあり、前作のような前半ひたすら追いつめられる謎パート、後半捜査解決パートというような形にはなっておらず、最初から捜査活動という感じで、全編を通して書かれている。だが…。
今作でも、主人公Rickはとにかく徹底的に追い詰められ、プレッシャーをかけられ続ける。まず本来の雇い主であるBobからの事件を捜査することへの反対。地元警察と関わることになれば、上から下までぐらいのところで嫌がらせレベルの扱いを受ける。
そしてどうも信用できない証人Trey Fellow。不安になり、独断で監視・尾行をして不信な行動を見つけるが、その行為自体が弁護士Buckleyの不興を買い、関係がギクシャクすることになる。
前作『Yesterday's Echo』では、追いつめられた末に、過去短い期間関係を持ち今でも好意を持ってくれている女性を何かと頼り、彼女を利用しているという罪悪感を抱きながら、他にどうしようもないという状態になったRickだったが、 今作でも同様のことが起こり、他に当てがなく前の店で一緒に働いていて一時期関係もあり、最後に事件に巻き込まれ彼が命を救う形となった女性に何かと頼みごとをして、最終的にはかなり悪感情を持たれることになったり。
まあこの辺は、日本のやたら都合よく若い美女といい関係になる親爺ラノベ作家より、作者Matt Coyleがモテるからこんな感じに書けるんだろうけどな、と思ったけどね。
あらすじ部分でちょっと端折った部分なのだが、ここまでの展開でRickが仕事を仮に請け負ったあたりで、元々Buckleyに雇われていたがクビになった女性探偵が文句を言いにやって来る。こういうの新たなロマンスとかに発展するのが通例なんだが、この作品では…。
更に、多くの作品で見られる家に帰って一息つき、テレビで野球かフットボール観ながらビール飲むのも、辛うじて一回あったか?ぐらい。元々スポーツマンだと説明されていたんだから、そのくらい息抜きさせてやれよ、と思ったり。ああ、あとこの関連では、依頼主であるEddington一家というのが、元々はゴルフ場を経営していてという設定があり、Rickも一回ぐらいゴルフやんのかな、と思ってたのだけど、それもナシ…。
こんな感じで、主人公がほとんど憩いも癒しも与えられないままひたすら不安とプレッシャーに苛まれながら進んで行くというのが、このRick Cahillシリーズ第1作、2作の特徴。
なんかもう、少なくともこのRick Cahillシリーズにおける作者Matt Coyleの作風ぐらいに思うべきなんだろう。
このRickを脅かす、様々な不審な断片は、ほら「ミステリ評論家」みたいなもんが言う「プロット」のパーツとしてミステリ的に機能してるんだろう。だが、見方を変えれば、これらの断片はホラー小説における主人公を不安、疑心暗鬼に追い込み脅かし続ける恐怖の片鱗にさえ見えてくる。なんか怖い、これどうなんの?みたいな。
そしてそれらがすべて組み合わさり、その真の意味が見えた時、Rickがたどり着いた結末は…?
まあ、それ書いたらネタバレになっちゃうが、「最悪の結果」ぐらいのことは言ってもいいだろう。いや、このシリーズホントにちゃんと続くんだろうかと不安になるくらい。ちゃんと現在もう10作目まで続いているんだが…。
ええと、ここまで書いて来たのはこの作品をなるべくわかりやすい形で伝えようという意図のもので、決して批判ではないからね。
この作品も、前作も共にとても読みやすく、おいおいどこまでRick苛めるんだ?というツッコミを入れつつ私も大変楽しく読んだ、まあ「ハッピーエンドが好き♡」以外には誰でもおススメできる作品です。ぐらいのことはちゃんと言っておかんと。
今作でもRickの重荷である妻の殺害と父が警察を追われた件に関する進展は無し。どこかでそれらも解決されて、その時には多少なりとも陰鬱度の低い結末が見れるのかな?見れないのかな?
いずれにしてもこのRick Cahillシリーズ、主人公がどうなってしまうんだろうかという部分でも絶対に次を読まなければ、と思ってる時点で作者Matt Coyleの主人公徹底的に追い詰めスタイルの術中なのか? 何にしてもこの続き、なるべく早いうちに必ず読むからな!
というところで、ここから最初に書いてたこのシリーズに拘っているもう一つの理由について。
これはあくまで自分だけの極めて曖昧な分類なのだけど、こういった作品、シリーズを「PI小説」という方向で考えている。そこでまずその「PI小説」について説明して行きたい。
「PI小説」についての考察
「PI小説」というのは80年代頃にできたジャンル名称。PI=Private Investigator=私立探偵の意味。
その背景としては、まず60年代中頃からのジョン・D・マクドナルド/トラヴィス・マッギーのヒットがあり、それを受けての70年代の私立探偵小説の増加 (日本でネオハードボイルドと呼ばれてるところ)、そして『ロックフォードの事件メモ』を始めとする 色々なTVシリーズのヒットなどの影響もあったのだろう。80年代頃になると、そこそこの私立探偵ハードボイルドのブームが起こって来る。もはやハメット/チャンドラー時代からも時を経て大きく変わり、また女性作家による女性を主人公とした作品も 登場し始め、ハードボイルドという呼び方があまり合わないのではないかという考えから、それが作家サイドか出版サイドからは知らんが考案されたのが「PI小説」という呼称。
その流れでアメリカではPrivate Eye Writers of America (PWA)が発足し、PI小説に焦点を当てたShamus Awardも1982年より開始される。ええと、名称とこれとどっちが先?というような前後関係はよくわからんのだけど。
まあ主に商売上の名称で、作家側としてはそれまでのハードボイルドの継続として自分なりの作品を書いていたところだろう。だが一方、ハードボイルドの主人公のイメージとしては、70年代頃には曖昧にもうボガートやロバート・ミッチャムじゃねえよな、 と思われてたとこだと思うが、80年代半ばごろからの『マイアミ・バイス』のヒットにより、まあこれも曖昧なもんだがドン・ジョンソンかな?みたいなところにシフトしていったのではないかと思われる。そういった新しい名称や、新しいイメージというのは 新しい傾向の作品をも生み出すもので、例えばジョナサン・ケラーマンのアレックス・デラウェアシリーズ(1985~)や、ジョン・サンドフォードのルーカス・ダヴンポート(1989~)が、初期のころはハードボイルドという文脈で紹介されていたのは この辺の流れに沿ったもので、それは更にハーラン・コーベンのマイロン・ボライターシリーズ(1995~)といった形に発展し、アメリカのエンターテインメント小説ぐらいの枠組みの中にも大きく影響を与えて行ったものだと思う。
だが、その一方でハードボイルドジャンルの中では、エルモア・レナードが「発見」され、ジェイムズ・エルロイが登場し、更にバリー・ギフォードのBlack Lizardにより50~60年代ペーパーバックの忘れられた名作が次々と発掘され、それらからの ノワール傾向の影響の多い作品が主流となって行く。そこにはやっぱり70年代後半に登場したジェイムズ・クラムリーの衝撃もあっただろうな。
更に80年代に大きく影響を与えた前述の『マイアミ・バイス』では、警察ジャンルそのもののイメージも一新され、ハードボイルドジャンルの中にも警察官を主人公とした作品が増えて行く。
その結果、ハードボイルドジャンルの中では80年代からの「PI小説」はやや主流から外れ、傍流というポジションとなりながら続いて行くこととなる。
といったところが「PI小説」の歴史っぽいところ。
そしてそんな中で、現在私立探偵を主人公としたシリーズ作品という80年代からの「PI小説」という形の継続として書かれているのが、昨年残念ながら終了したPolis BooksのDave WhiteやAlex Seguraらの作品や、 このMatt CoyleのRick Cahillシリーズだということなのだ。
ただ、ここで一つ注意しておかねばならんことは、これはこのRick Cahillシリーズの立ち位置をわかりやすく明確にするための説明で、実際にはもっと複雑。これがPI小説、これがノワール、これがハードボイルドみたいに簡単に仕分け出来て、 お勉強に便利!みたいな分類ではないからね。
とか言ってみても、安直簡単にわかって知ったかぶりした~い層にゃ届かんのだろうけど、とりあえずここで「PI小説」というあたりをもう少し考察してみる。80年代以降というのはハードボイルドジャンルが大きく変動した時期ではあるのだけど、 かなり出鱈目に放置されているというのは前々から思っていて、何とか整理のために読み返したり、未読を掘り起こしたりというのを続けてきたのだけど、最近ではもはや当方の翻訳ミステリ業界嫌悪みたいなのがMAXに達し、ここ数年ぐらいのスパンで 出版されたもんを読む気も起らんとなっているのも手伝い、その辺も少々加速してきている感じ。
まずデイヴィッド・ハウスライトの1995年のホランド・テイラーシリーズ第1作『ツイン・シティに死す (Penance)』。これってその「PI小説」の典型ぐらいかなと思っていたのだが、再読してみると意外な発見もあり。なんとなく話のスピード感やリズムみたいな もんがしばらく前に読んだトマス・B・デューイのMacシリーズ第1作『Draw the Curtain Close』に近いなと。
それからしばらくして、まあ書くと長くなる別のところ考えてる時にふと思いついたのが、小鷹信光先生監修の1980年代中頃の「アメリカン・ハードボイルド」全10巻。まあ色々端折るが、この50年代のデューイから70年代後半アーサー・ライアンズというあたりが 小鷹先生の考える良質なハードボイルド私立探偵小説というラインだったのかもしれんな、と思い、またここからグリーンリーフ、エスルマンと続いて80年代PI小説になって行くみたいな流れを思った。そこでこのハウスライトとデューイ似てるのかもを思い出した。
いや、実際に似た作風とかでもないと思うんだが、何だろこの感じと思い、そこで出て来たデューイ→ライアンズを、→ハウスライトと繋げてみてちょっとわかった。
実はこのデューイ→ライアンズの間には、時代的に非常に重要なシリーズ作品がある。それがジョン・D/トラヴィス・マッギー。トラヴィス・マッギー作品には、誰もが指摘するぐらいの大きな特徴があり、それが結構長めの社会・文化批評的モノローグ。 続く70年代作品にはこの影響が多く見られ、もちろんライアンズ/ジェイコブ・アッシュにもそれがあり、エスルマン/エイモス・ウォーカーの、とりあえず読めてる初期ぐらいにも現れている。
要するにこのハウスライト/ホランド・テイラーでは、その影響がほとんど希薄ぐらいだということ。それゆえにそれ以前の時代のハードボイルドの一つのお手本のようなデューイとのスタイルの類似性が感じられたんじゃないか、ということ。
更にこの考えを拡げると、以前に50~60年代のハードボイルド状況ではシリアスな作家は主に私立探偵小説ではなく、ミステリ=謎解きという考えでは非ミステリ的に分類される犯罪小説の側を書いていたのだろうということを書いたが、この構造は 90年代ぐらいから現在に至る、ハードボイルド本流と「PI小説」という関係にも当てはまるのかもしれないとか思いつく。これにはもっと50~60年代もっと深く探らなくては、というところがあるのでまだまだ思い付き段階だけど。
そして更に90~2000年代ぐらいを探って行くと、02年『真夜中の青い彼方 (The Blue Edge of Midnight)』から始まるジョナサン・キング/マックス・フリーマンシリーズみたいなのも見つかる。この主人公は私立探偵ではないのだけど、明らかに「PI小説」の スタイルに当てはまるのだが、その一方でフロリダ沼沢地帯奥地の原住民的貧乏白人みたいな、その後のカントリーノワールに向かうベクトルも持っていたり。
ここもっと広げると、南部田舎町という現代ハードボイルドの流れに沿ってるが、ちょっと独特なエース・アトキンズ/クウイン・コルソンは?とか、クリス・オフット/ミック・ハーディンはカントリーノワールの「PI小説」方向展開?とか考えるのだが、やっぱり「PI小説」というのは、基本私立探偵を主人公としたシリーズ物で都市を舞台にした作品ぐらいの区切りをつけておいた方がいいかもしれない。
そこには、例えばクライム作家の一部からはカントリーノワールへと進んで行った方向はもう頭打ちで、別の方向を考える時期では?という声もあり、なんかそこから考えると結構先ぐらいに都市を舞台とした私立探偵小説が再びトレンドとなる時代が来る可能性もあんのかもとか考えられるしね。
多分「PI小説」に関してはそのくらいの限定をかけても、まだまだ探っていくところあると思うし。
まあそんな感じであっちこっちフラフラしたけど、このMatt Coylel/Rick Cahillシリーズをどのような位置で注目しているかはなんとなくぐらいにはわかってもらえたんじゃないかと思います。だが…。
現代の「PI小説」という視点で、Polis BooksのDave White、Alex Seguraあたりを読んでいるときは、割と主人公がルーザー寄りである現代のこのラインのものは、やっぱりノワール傾向が強くなってるんだなと納得ぐらいしてたんだが、 このCahillシリーズについてはまだまだ結構謎。ここまで主人公を追い詰めるのは単純に作者のスタイルだけなのか?それとも自分が目が届かないあたりのアメリカのミステリの中の傾向ということもあり得るんじゃないか?
Matt Coyle/Rick Cahillシリーズについては、現代の「PI小説」をひとつ代表するぐらいのシリーズとも言えるだろう。だが、それでもなお、なんか自分が見落としているもんがあるのかも?
何にしてもこのシリーズについては色々なことを考えながら今後もちゃんと追って行かなければならないということは確かだろう。いや、何よりRickこれからどうなんの?がスゲー気になってるし!
あ、最後に編集してて思い出した。前回謎的に残ってたリー・ゴールドバーグが「ロバート・B・パーカーとロス・マクドナルドのハードボイルドの後継者」と言ってた件な。これちょっと考えすぎてた感じで、実はそれほどの意味ないと あとで気付いたよ。前にもこの手の見たことがあるんだけど、新人作家への先輩作家からの激励的なやつで、「こいつこのジャンルで大物になるぜ」ぐらいの意味で、作家の作風みたいな部分を評論的に指摘しているようなもんではない。 なんかそういうものを見ると、反射的にややマジにどういう意味か考えちゃったりする習慣ついちまってるのだけどね。
ただまあ、作家からの賛辞的レビューでこういうのが出るとき、まあ多いのはパーカーなんだけど、それは結局大物人気作家であるけど、少なくとも自分や周辺の今時の作家たちにとってはあんまり影響受けてない人っていうことなんだよな。そういう場合、下手な作家の名前出すと余計な波風が立ちかねないけど、これならあんまり害がないくらいの。 例えば、ハメットやチャンドラーの名前をこんな風に出すことはまずないし、まだ存命だけど、将来的にエルロイとかウィンズロウがこういう扱いで言及されるところはあまり想像できないなという感じ。
この手のものが割とこんな感じに無造作に言われてるときには、まあそんな風に解釈してください。
色々言ってきたけど、ここで言ってる「PI小説」はあくまでも「オレ分類」の範疇だということははっきり言っとく。例えばShamusあたりでの今の考えではもう少し違うようにも見えるし。Shamusの「PI小説」に対する考えも、その対象自体の変化に応じ、2000年~現在ぐらいはかなり変わってきているし、そこももっとちゃんと見なければと思っているのだけど。何度も言うようだが、「現代のハードボイルドは、ノワールの影響が強いものとPI小説に分かれている。おしまい」みたいな簡単にわかるお勉強型に解釈出来ると安直に思うやつは、心の拳で全力でぶん殴る!痛いっ!
自分分類にしても「PI小説」というのは、言葉的には80年代にできたけど、よく見て行けば90年近辺でサンドフォード、ケラーマン方向に分岐して行く後ぐらいが自分の思う「PI小説」で、それ以前80年代物は、「PI小説と呼ばれ始めたころの 80年代ハードボイルド」みたいな分類になって行くところもあり、例えば80年代の今となっては隠れたぐらいの重要作家であるディック・ロクティについては別に詳しく書かねばというところも見えてきているし、87年からのレス・ロバーツ、 これについてはほらよくあるじゃん、今読むあてないけど買わないと二度と見つからないかもで買っといて長らく放置されてたとかいうの、それでやっとサクソンシリーズ第1作『無限の猿 (An Infinite Number Of Monkeys)』を最近読んでみたら、 これマイク・ハマー抜きのまんまスピレインじゃん!スタイルとか、多分文体レベルで!となってなんとか他のも読まんととなっていたり。この辺もっと探って行けば、これとかはこの分類とか、これはここに繋がるとかいくらでも出てくるだろう。 こういう時いつも、いやお前の最優先事項は新しい作品紹介だからね、と言い聞かせなきゃならんのだけど。それからちょっと名前だけ出したアトキンズ/クウィン・コルソンだが、これについては日本ではまず翻訳されないあたりのアクション傾向の私立探偵ものあたりを探って行けば周辺地形みたいなのが見えてくるかも。Brash Booksにもなんかそういうのあったぞ。元なり現役なり軍人というような設定は、かなり遡れば戦争帰りのマイク・ハマー、70年代ベトナムからの一時帰還からマフィア殲滅に乗り出したマック・ボラン、2000年ぐらいになってもベトナムのトラウマに苛まれるバーク/ロビショー、更にコルソンとほぼ同時期の、最近やっと書いた中東での軍事作戦中のトラウマでドロップアウトしたJosh Stallings/Moses McGuireまで、それだけで考える意味ある一ジャンルぐらいのものだし。そういえば色々書いてて思い出したけどC・J・ボックスというあたりも結構「PI小説」に近いあたりのアウトドア志向からの分岐みたいのも大きく関係していて元をたどるとパーカー/スペンサーがこれは本当は当時のライフスタイルグルメとかジムで鍛えたりとかというところが一番大きな影響だと思うんだがその辺からレジャー的に広げたウィリアム・G・タプリー/ブレイディ・コインシリーズというのもあって えーい!このハードボイルドバカどーすれば止まるんだ?そうだ!オッパイ持って来い!なるべくでかいやつ!!!
■Matt Coyle著作リスト
●Rick Cahillシリーズ
- Yesterday’s Echo (2013)
- Night Tremors (2015)
- Dark Fissures (2016)
- Blood Truth (2017)
- Wrong Light (2018)
- Lost Tomorrows (2019)
- Blind Vigil (2020)
- Last Redemption (2021)
- Doomed Legacy (2022)
- Odyssey’s End (2023)
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