ハードボイルドジャンルの優れた作品について伝えようとすれば、どうしたって日本の間違いだらけ歪み切ったミステリ観、ハードボイルド観について言及して、これはそういうことじゃないんだよ、と言わなければ説明すらままならない。
あのさあ、これはオレのハードボイルド観が正しくて、あんたらのが間違ってるなんてレベルの問題じゃないわけ。連中は自身の大好きな古臭い「ミステリ」に執着しこのジャンルのこれまでの進化をまともに見てこなかった。過去の思い込みで 作られ、その後のジャンルの発展を見るのに妨げになるほどの「定義」を否定することすらしなかった。そんなやつらのハードボイルド観に一分ほどの正当性もないのなんて当然だろう。
前々回の最後にお伝えしたように、遂に連中は唯一信じられた翻訳ミステリというフィールドでも、小手先で三流作品にちょっとした箔をつけて売るための道具としてハードボイルドを殺し始めた。もうそれならこんなハードボイルドの名作を 日本に翻訳しようなどとは絶対に考えないでくれ。こんな国はこんな作品が翻訳されるには、全く値しない最底辺ミステリ後進国なんだよ!
まあそんなわけで、今回はAdrian McKinty、待望のSean Duffyシリーズ第7作『The Detective Up Late』です。あー、このシリーズが第6作まで日本で翻訳されてるのは承知ですが、なんかもう「このシリーズには興味はないが、海外でも人気のシリーズらしいので ミステリ教養として続きを知っておきたい」などと傲慢の極みを言ってはばからないような勘違いミステリご意見番気取り屑野郎に検索されにくいよう、逆SEO対策として、作者名、タイトル、キャラクター名は全て英語表記のままやって行きます。 心当たりのあるやつは今のうちに帰った方がいいよ。この後もおめーらみたいのとことん罵倒続けてくから。
さて2023年に発表されたこの『The Detective Up Late』だが、2017年の前作第6作『Police at the Station and They Don't Look Friendly』から6年の間が空いている。このブランクの理由について、ここでまあ正確と思われるところを書いておきたい。 これまで日本では、ミステリ評論家の馬鹿さ加減と出版社の無能によりかなり混乱した出鱈目になっており、そのこともずいぶん批判したのだが、もう面倒臭いんでそっちについては無視し、正しいところだけを書いておく。
2017年、McKintyは同年のエドガーを始めとする各賞受賞の絶頂期に突如「労働の対価に見合わん」として作家活動をやめることを宣言する。これについてはまあ当然詳しく語られることも無かろうが、状況から見て収入面でのエージェント、出版社という あたりとのトラブルであろう。その後ドン・ウィンズロウなどの助言・援助もあり、作家業に復帰し、2019年には新作『The Chain』が出版される。だが、Sean Duffyシリーズについては、以前の出版社との契約期間が残っていたり、その後の 新型コロナ状況などが重なり出版が遅れ、6年を経た昨年にやっと出版ということになった次第。実際のところは2019年頃だったかには作品自体は完成し、常に出版待ち状態であったことが本人のSNSによって語られていた。
こうして2023年8月、遂に出版された『The Detective Up Late』だが、何しろ世界最注目、待望のシリーズ新刊の出版ということで、アメリカでもっとも稼げる販売方法が取られ、最初はハードカバー版とオーディオ版のみの販売。さすがに アメリカのハードカバー、X-Boxサイズ重量のもんを腹の上に載せてみたいな読書スタイルは勘弁ということで、ペーパーバック版の出版を待ったところ、これも結構かかり今年の5月発売が今年の初めごろに発表され、割と早く予約注文したはずだが 結局1か月遅れで届き、ただちに読み始めたというところで現在に至る。一番のお勧めは電子書籍版だが、ペーパーバック版である程度稼いでからってことで、まだしばらく先かもね。
いかなる馬鹿げた追加オプションも不要で現代ハードボイルドを代表するこのシリーズだが、日本の翻訳ミステリ業界の痴呆化、幼児退行によりその程度のことも認識されていない状況と、まだ帰らない馬鹿を追っ払うため、まずここでそこのところを明確に 書いておこう。つーかさ、そのへんのこと考えるとあまりに馬鹿すぎて罵倒することがいくつも出てきて、まーた長くなりそう。今回は説教→本文作品紹介→説教の、ロマンポルシェ。スタイルになります。
まずハードボイルドということ。当方では、ハメット、チャンドラーといったあたりを起源とするクライム、ノワールと称されるような作品を含むジャンルの総称をハードボイルドと呼んでいる。呼び名についてはどうでもいいんだが、今更ハメット、 チャンドラーを別ジャンルで呼べないだろぐらいのところで。
そしてその中には「ハードボイルド」と呼ばれるスタイルの小説ジャンルも当然含まれている。ここでは混乱のないように括弧つきで表すこととする。
自分は何もその大枠のハードボイルドを押し付けているわけではなく、もちろんここで書いているのは「ハードボイルド」のことだ。
だがその「ハードボイルド」は単独で切り離すことはできず、常に大枠のハードボイルドの中で他ジャンルに分類されるような作品からも影響を受けている。この大枠に属する作家にとっては、基本的には自分の資質によってそういったキャラクターを 立てたシリーズを書くか、スタンドアローンの犯罪小説作品を書くかの違いしかない。
現代の「ハードボイルド」を理解するには、この大枠のハードボイルドの中で見て行く以外の方法はない。
ハードボイルドの歴史を大雑把に見ると、そもそもの起源が犯罪実話誌、犯罪実話とフィクションが同時掲載されているような雑誌だったらしいところから、「ハードボイルド」とクライム作品は同居関係にあったのだろう。そこにハメットに続き、 チャンドラーの登場。更にスピレイン/マイク・ハマーの登場により、ジャンルは通俗的な犯人当てをメインとした探偵小説型「ハードボイルド」と、犯罪小説に分かれる。
マイク・ハマーにより明確に分かれたように見えるジャンルだが、実はチャンドラー以後ぐらいの時点でジャンル内のシリアスな作家は、もはや終わっているリアリティのない謎解き犯人当てよりも、複雑な人間ドラマを描ける犯罪小説といった方向に傾倒して 行ったのかもしれないことは、80年代にそれらのジャンルを復刻したBlack Lizardにも現れているだろう。
その犯罪小説の中ではウェストレイクやローレンス・ブロックといった後の時代に大きく影響を与える作家も登場して来るが、そこで60年代中盤に新たな「ハードボイルド」を打ち出してジャンルを大きく動かしたのがジョン・D・マクドナルドの トラヴィス・マッギー。
免許を持った私立探偵でもなく、様々な社会・文化批評的なモノローグが挟まれる自由なスタイルは、商業的な成功による市場拡大も相まって、70年代に入り時代的空気にも影響された形の多くの追随者、日本ではネオハードボイルドと呼ばれている 新たな「ハードボイルド」の作家を産み出す。その時代にはその後ジャンルに大きな影響を与えるジェイムズ・クラムリーも登場する。
80年代に入ってからはネオハードボイルドの上にオーソドックスな形に回帰したとも言えるようなタイプの私立探偵型「ハードボイルド」がローレン・D・エスルマンらによって書かれる一方で、犯罪小説では先に書いたBlack Lizardによる埋もれた名作の 発掘、エルモア・レナードという作家の「発見」、そして狂犬ジェイムズ・エルロイの登場がジャンル全体を大きく動かす。
そうして形作られたジャンルの影響下に、現在も活躍するジェイムズ・リー・バーク、ジョー・R・ランズデール、ウィンズロウ、コナリー、ルヘインといった新たな「ハードボイルド」作家が登場してくるわけだ。
そして世紀の変わり目、アイルランドから恐るべき作家がこのジャンルに参戦して来る。それがケン・ブルーウン。現代文学というあたりのベースの上にこのジャンルの全てを乗せ、誰も思いつかなかったような衝撃的な「ハードボイルド」の正解を出してくる。 同様にその当時の現代文学みたいなところを根っこに持ってたクラムリーと比較すると、20世紀後半文学の変遷って辺りもシンクロしてるとも見える。主人公が事件を解決しなくても、物語の最後に解決されてりゃいいだろ、そっちの方が面白いしな、と平然と 阿呆どもがしがみついていた「ミステリ」の土台部分もぶっ壊す過激な作風。日本のミステリ業界・読者はアホ過ぎて理解できず、失敗ミステリ作品かなんかと思い込み「事件が勝手に解決されてる(半笑)」と無視し翻訳も早々に打ち切られるわけだがね。
「私にはブルーウンがそれほどの作家とは思えないが(半笑)」って?あーそりゃお前が馬鹿だからだよ。そういう言い草に同意する人数で多数決で勝てるからと思って言ってる時点で、「よみにくい」児童と大差ないレベルの馬鹿だから。
だがブルーウンという作家はあまりにも突出しすぎていた。この先の「ハードボイルド」がどう進むのかも想像できないぐらいに。そこにその先の「ハードボイルド」を一歩踏み出せたのが、同じくアイルランド出身のAdrian McKintyというわけだ。
このAdrian McKinty/Sean Duffyこそが正真正銘、正統の「ハードボイルド」なのだ。
だが日本の「ミステリ」ってところはこれを決して理解しない。それはミステリ=犯人当て型という考えに固執するあまり、連中がその他ミステリ以外に分類していた作品群を同等にミステリと認識することができず、ハードボイルドの流れを見失ったから。 その結果ケン・ブルーウンすら理解できなかったから。傲慢極まりないクソ馬鹿集団だったからだ!
当方でハードボイルドの日本での見方を捻じ曲げた定義として批判している「本格ハードボイルド」ってやつだが、どう見たってその後のハードボイルドに噛み合わないこれがなぜこうも長く残っていたのだろうかと考え、結局どこにでもある先人の 意見に逆らえないとという類いかと思ってたのだけど、なんかオレ優しすぎたな。
なぜ「本格ハードボイルド」がかくも長く保存されたか?それは連中に都合がよかったからだ。
まず第一に、ミステリのお勉強段階で、これを読めばハードボイルドがわかる、というものがあるのが好都合だったから。そして第二に、それが連中の理解できる連中の考える「ミステリ」型だったからだ。
連中の考えるハードボイルドは、犯人当て型のミステリで主人公探偵がハードボイルド型というもの。次々に進化して姿を変えて行くハードボイルドの中で、そういう連中に理解できる「ミステリ」型をしていたのは本当に初期の「ミステリ」からハードボイルド へと進化する過程の「本格ハードボイルド」指定作品ぐらいだったからだ。
上に長々と書いたハードボイルドの歴史を見れば、ハードボイルドがフィリップ・マーロウのようなキャラクターを作りたいとか、格好いいセリフのやり取りを書きたい、「ハードボイルド精神」のミステリーを作りたいなどという方向で進化してきたものではないのは 一目瞭然だろう。まあどの作家がどんな作品を書いたかわからないレベルでは無理かもしれんが…。たとえ日本のガラミス内でそんな形のものがあったとしても、本物の「ハードボイルド」の中ではそんなこと起こってねーんだよ。
ハードボイルドは犯罪という社会の一面をいかに描くかという方向で試行錯誤を重ね進化してきた。ハードボイルドというキャラ属性を持つキャラクターを主人公とする謎解き犯人当てミステリーなどという解釈では、その本質も何も絶対に理解することなど できない。
最初期のもの、オリジナルのものにその本質、全てがある?利いた風なことを言って格好つけてんじゃねーよ。そういうことはその歴史をきちんと俯瞰できる者が初めて言える言葉だ。安直にそこだけ読んでわかったつもりになってるやつに そんな資格はねえ。まあ以上の説明から、ハードボイルドといえばハメット、チャンドラーと言ってれば済むと思ってる奴がどれほどハードボイルドを分かってない知ったかぶり初心者インチキ野郎だかお分かりいただけたろう。あちこちの野良レビュー ページを見て、やれやれと嗤ってやってくれや。
『Police at the Station and They Don't Look Friendly』の翻訳版の「解説」で法月綸太郎は、成熟と安定によりこのシリーズは一匹狼のハードボイルド路線から警察小説へ変わる、などという見当違いも甚だしい自論を並べ立てている。
こういうものが日本のハードボイルド誤解の見本のようなものだ。犯人当てミステリの中にハードボイルド属性キャラがいるというような見方から離れられないからこのような頓珍漢な解釈が出てくる。
まず明確にしておきたいのは、これは警察官が主人公の「ハードボイルド」小説であるということ。警察ハードボイルド=ハードボイルド風警察小説などというものではない。
「ハードボイルド」の主人公が警察官から私立探偵に転職する、またはその逆、スパイに転職するなどの例はある。だが「ハードボイルド」小説が警察小説に変わったなどという例はない。お前らの見当違いの思い込み以外では。
もちろんこの続きの第7作『The Detective Up Late』ではそんなことは一切起こらないが、こじつけてそういうことにする馬鹿って必ずいるんだろうな。
「警察小説」。ミステリ業界便利用語。警察官が主人公なら、誰からも文句を言われないだけの無難なジャンル設定。こうして日本ではSean Duffyは、編集者・ミステリ評論家という「専門家」により、間違ってない・誰からも文句を言われないだけの 都合で、無難で謎解き解釈しやすい曖昧な形のジャンルに放り込まれるわけだ。
ホント見れば見るほどむかつく警察小説+ノワール。警察小説ノワール風味、ノワール味、ピリ辛ノワールマヨネーズ付き!
日本でノワールという言葉が使われ始めたのは、あんまり正確には分からんけど90年代ぐらいのハードボイルドジャンルにBlack Lizard、エルロイの旋風が吹き荒れた時期に対応しているはずだ。そしてその後のジャンル内作品、「ハードボイルド」は 多かれ少なかれその「ノワール」の影響を受けている。現在のハードボイルドジャンル作品全てが+ノワールであることなんて当たり前なんだよ。
アタマ悪くて帯に書く文言も思いつかねえなら無しで出せよ!言ってる奴、書いてる奴がフンイキ~以上に「ノワール」なんて全く理解してねえレベルなのも自明だしな。
編集者・評論家の馬鹿さ加減により日本で大変不幸な紹介をされたAdrian McKinty/Sean Duffyシリーズだが、ある意味それは実際の翻訳が始まる以前に決定されていたとも言える。
日本にAdrian McKintyの名前が入ってきたのは、彼がガーディアン紙に密室トリックミステリベストいくつだかのエッセイを書き、その中に日本の島田荘司の作品が含まれていたというところから。
Sean Duffyシリーズの「解説」の並び見りゃ、馬鹿編集者がこのシリーズを本気でJミス内にしか存在しないミステリジャンル「本格ミステリ」ってところにすり合わせることしか考えてなかったことがよくわかるわ。
ホント絶望的やね。この国にDuffyシリーズがまともに紹介される余地なんて、最初から無かったんだよ。
この国のやってることってさ、いつも同じなんだよ。
本当にあったことだからスゴイ、作者が自分で体験したことだからスゴイ、みたいな世の中の安直で一番頭悪い層の上に胡坐をかいた私小説至上主義。
ミステリなんてものについて深く考えることなくクイズ小説レベルで読んでる底辺読者層の上に胡坐をかいた、あたかも謎解きを知的な学問のように思いこむ「本格ミステリ」カルト。
こんなハードボイルド観、ミステリ観なんてこんな辺境のブログで頭のおかしいレベルのやつが言ってるうちは無視できるけど、これがもしある程度の勢力になるような事があったとすれば(あり得ないけどな)、「そんなミステリは認められない!」と涙まで流してJミス謎解き犯人当て型の正しさをゴリ押ししてくる奴も現れるのが当然のこの国。いつものことだよねえ。
こんな国にAdrian McKinty/Sean Duffyが、巻末をバカ評論家がいつか自分の本を出すために好き勝手に書いた無駄に長ったらしい見当違いの「評論」発表のフリースペースに使われ、著作「改変」ぐらいに歪められた形で、バカ編集者が無い知恵絞って もう誰からも文句を言われないぐらいが精一杯の見当違いのコピーを乗っけたバカ丸出し帯まで巻かれて出される価値あんの?
作品の熱心なファンから、どうか頼むから出版しないでくれ!、と懇願されるのがこの国の翻訳ミステリ業界の実状なんだよ。
というところでこのまま作品紹介に雪崩れ込みます。いつもならhタイトルつけてわかりやすくするんだけど、都合よく飛ばして読めばいいと思ってるご意見番気取り類いの連中への嫌がらせとしてわかりにくくしました。
ハードボイルドを本当に愛する人たちにはとっくに了解済みの話ばかりなんで、飛ばして読んでもらって一向に構いませんが、ご意見番気取りにはこれからはハメット、チャンドラーだけで流そうとすれば知ったかぶり初心者として笑いものになるかもよ という重要な情報も含まれているので、読んどいたほうがいいよ。
Prelude in E-flat Major: Sean Duffy, Year Zero
その真冬の夜、Duffyは北アイルランド、リバー・ラガンに浮かぶボートの上にいた。
捜索対象はクィーンズ・ブリッジの上をうろついているのを最後に目撃された少女。今はどこにもいない。
一緒にボートの上で凍えているのはCathcart巡査。「寒いです。もう戻っていいんじゃないですか?」
DuffyとCathcartは同じ階級だが、Duffyの方が先輩なので彼に伺いを立てなければ行動できない。
「寒いなら、フードを被るといい」Cathcartは従い、捜索は続く。
Duffyの頭の中ではワーグナーの『ラインの黄金』序奏変ホ長調が流れている。
そしてフォン・カラヤンのヴァージョンへ。対位法の中の緊張。ワーグナーがハイネとの関係の中で隠した愛憎。愛:詩を愛さざるを得ないがゆえに。憎:ハイネがユダヤ人であるがゆえに。
「もう一時間になりますよ。もう充分じゃないんですか?パーティーもあるんだし」とCathcart。
パーティー?何のパーティーだ?こいつ何を話してるんだ?
「一時間は充分じゃない。真面目にやらんと巡査部長に文句を言われるぞ」
「巡査部長は、小さなお人形が橋から身投げしたかしないかなんてこと気にしちゃいませんよ。俺たちはButchers事件っていう早く揚げなきゃならないデカい魚を抱えてるんですから」
奴の言い分は正しい、もちろん。現在署が一丸となって取り組んでいるのはその事件だ。Shankill Butchers -愛国主義者デスカルト。すでに20人以上が無差別に殺されている。犠牲者のほぼすべてがカソリック。路上から引き摺り出され、 ブッチャーナイフと肉きり大包丁で叩き切られる。
Duffyも諦めCathcartと共にボートを岸に戻す。年長の警官に成果がなかったことを報告し、歩いて署に戻る。そしてO'Neill巡査部長にも同様の報告。
「時間の無駄だったな。警察の仕事は優先度に関わるものだと憶えておけ、Duffy。まて、装備を降ろすな。すぐに向かわなきゃならんところがある」
O'Neillに連れられ、Duffyは次の事件現場へ向かう。遺体のあるモンタギュー・ストリートへ。
被害者は看護婦研修生。胸と背に19か所の切り付けられた傷。
「まずレイプされ、それからButchersの新たな餌食の仲間入りだ」O'Neillが言う。
彼女の衣服ははぎ取られ、内臓が引き摺り出されていた。ジンジャーの髪に優し気な顔。きっと素晴らしい看護婦になれただろう。
DuffyはO'Neillと共に現場保存の作業に努める。そこに担当刑事がTVクルーを引き連れ現れる。
「彼女はカソリックだな、もちろん。左手にロザリーを握りしめていた」煙草休憩で現場から離れたO'NeilがDuffyに言う。
無言で頷くDuffy。
「ずいぶん疲れてるようだな。もう署に戻れ。ボスがお前に話があると言ってたから、それを聞いたら帰って寝るんだ。わかったな?」Duffyの様子を見て、そう告げるO'Neill。
徒歩で署へ戻ったDuffy。階段を上り、署長室へ。
署長は手を伸ばし、彼を迎える。「おめでとう、Sean」
わけも分からず署長と握手するDuffy。「何についてですか?」
そしてDuffyは巡査部長への昇進を告げられる。
下の階へ戻り、窓の防弾ガラスに雨が叩きつけるロッカールームで制服から着替えるDuffy。
巡査部長だって?俺自身のチームだって?多分今、俺は何かをやり遂げたんだろう。
「こんな天気の中どこへ行くんだ?家に帰るんならいいんだが」受付を通る時に声が掛かる。
「一つやり残したことがあったんだ。Keelay夫人に何も見つけられなかったことを話してこなきゃ」
「娘が見つからなかったことを知らせに行くのか?彼女は喜ばんだろう」
「彼女に捜査が継続中であることを伝えておく」
「俺たちには今、殺された看護婦の件があるんだ。誰も家出した女の子に構ってられんぞ」
それでもDuffyは徒歩でKeelay夫人の家へと向かう。
ノックに応え現れたのは夫人ではなく、彼女の夫で行方不明の少女の父親である男。
捜査状況を話すDuffyに、あいつを見つけたら帰ってきたらケツを叩くと伝えとけ、と言う。
続いて出て来た夫人に、橋の上に彼女がいるのを見た者はいるが、飛び降りたのを見た者はいませんと伝え、少し安堵した様子を見るが、夫はDuffyもいる前で、警察に通報した事を不快に思う様子を見せる。
このまま帰ることが正しいと思いつつ、Duffyは家の中に一歩踏み込み、背後のドアを閉める。
「あんたワーグナーは好きかい?」
「何だと?」
「ワーグナーに多大な影響を与えたのは詩人ハイネだったが、ハイネがユダヤ人であったがゆえ、彼はそれを決して認めることができなかった。シューベルトも同じく彼が好きだった。両者はハイネの詩「ローレライ」に影響を受けた。 "私には分からない、何がこうさせるのか、私がこのように悲しいのか。(日本語訳GFDL)"」
「アタマおかしいのか、ホモ野郎?」
「いいや、俺は悲しんでいるんだ。厄介事に悲しんでいる。この街の女性の扱い方に悲しんでいる。妻を殴り、娘を殴り、誰も証言しないために罰せられない悪党に悲しんでいるんだ。それで俺が何を考えてるかわかるかい?」
「お前何考えてるんだ?」男は唸り、顔は怒りのため紫に変わる。
Duffyは拳銃を抜き出し、男の頭に向ける。
「お前がいない方がみんなよりまともに暮らせると思ってる」そして囁く。「世界はお前がいない方がまともになると思ってる。お前がいなくなっても誰ひとり悲しまないと思ってる。あんたどう思う?」
男は恐怖に膝をつき、泣き始める。
Duffyは銃をホルスターに戻し、玄関のドアを開けて言う。「お前には目を付けてるからな、Keelay。keelay夫人やKeelay嬢にこれ以上のあざが見つかるようなら、お前の家のドアをノックする。わかったな?」
外に出て、車の窓に映った自分を見て自問するDuffy。
なんてこったDuffy、お前はこんな刑事になるのか?力による堕落?もちろん、だが堕落するのが早すぎやしないか?
歩いて署に戻ると、全員がパーティーハットを被り、カズーを吹いていた。何のパーティーだ?誰かの誕生日か?俺の昇進ビックリ祝いか?
「新年さ。1980年1月1日だ」
「ハッピーニューイヤー!80年代は70年代より良くなるといいわね」
O'Neil巡査部長がそれを受けて苦笑いを浮かべて言う「まあ、それは確実に…」
言うなよ!不運を呼び込むのはやめてくれ!
「これより悪くなることなんてないさ、そうだろう?」
***********************************************
「Sean…、Sean…」
そしてDuffyは、Bethの声により10年前の回想から呼び戻される。
「今何時だ?」
「真夜中1分前よ」
Duffyは聖地エルサレムで、1990年の新年を待っていた。
というわけで以上が、冒頭、また何かやらかして遂に平巡査まで格下げされたかと一瞬思わせるプロローグ、実は10年前1979年の大晦日のDuffyを描いた「Sean Duffy, Year Zero」。
プロローグあまり省略できず、本編はここからなのだが、このペースだと事件までたどり着くのも大変なので、大幅に省略しながらあらすじで進む。そういう事件以外の部分もあってのDuffyシリーズなのだけど難しいな。
なお、そちらに出てくるShankill Butchers事件は実際に起こった事件で、23人の犠牲者を出し、そのメンバーのほとんどが宗派間抗争で死亡するという結末に終わったそう。
Duffyがなぜエルサレムにいるかというと、義父であるBethの父に誘われた、というより強制的に参加させられた結果。
義父の教会内グループでは、暦の関係でその1990年の新年が本当の2000年ミレニアムであるという説に基づき、そこで起こることを見届けるという目的でエルサレムへのツアーが組まれていた。
だがもちろんのこと何も起こらず、DuffyとBethは年明け早々にその日の帰国に備えてホテルに戻る。
ホテルの電話にはMcCrabban -Crabbieからのメッセージが残っていた。簡単な近況報告と挨拶程度のものだが、現在届いている失踪人捜索願いの扱いをどうするかの決定が欲しいとのこと。
折り返し電話を掛けたDuffyは、Crabbieから捜索願いの詳細を聞く。失踪したのは15歳のジプシーの少女、Kat McAtamney。これまでにも家出の前歴もあり、警部は何もする必要はないと言っている。
失踪したジプシーなんかに構うものはいない?「俺が構う、Crabbie」
「あんたならそういうと思ってたんで、Lawsonにも調べとくように言っときましたぜ」
DuffyとCrabbieは、あと一週間のうちにフルタイムの勤務を終了し、後は月7日のパートタイムとなる。これが最後の事件だ。
「Duffy's Last Case」はこうして始まる。
原文ではTinker、Travellersとなってるんだが、日本的にこの呼称は広まってないので、ケン・ブルーウン『The Killing of the Tinkers』に倣いジプシーに統一した。原文にはジプシーという呼び方はほとんど出てこなくて基本的には前の二つではあるのだけど。 もしかしたら日本的にももうジプシーでもわからなくなってるのかもしれないけど。
朝8時の便で帰国したDuffyは、まずBethと共に自宅へ。スコットランドへの引っ越し準備中の自宅では、Duffyの両親が娘Emmaの面倒を見てくれている。
娘と再会し、両親と挨拶程度の会話を交わした後、Duffyは署へ向かう。
署に到着し、もうすぐLawsonに引き渡すこととなるデスクの片付けなどしていると、まずやって来たのは前作からも登場している宿敵Dalziel。前作後半では危うく上司になられてしまうところだったが、John Strongの件でDuffyも昇格し、現在は同じ 警部補。
彼らの部署の金の使い方についてねちねちと絡んでくるが、適当に追い払う。引き継ぐLawsonにも面倒を掛けることになりそうだが、John Strongの件による上層部との繋がりがあればさほど問題はないだろう。
そしてLawsoonが入来。挨拶と直近の報告の後、Kat McAtamneyの件に取り掛かる。
だが渡されたファイルにあるのは、署の女性巡査による簡単な聞き取りのみ。
DuffyはLawsonを引き連れ、通報者であるKatの母親に、直接詳しく話を聞くために出掛けて行く。
Katの母親に会うため、ジプシーのキャンプを訪れたDuffyとLawsonは、彼女から二つの手掛かりとなりそうな情報を得る。
ひとつはキャンプからほど近いパブ、Tourist Inn。そしてもうひとつは彼女が頻繁に会い、マリファナを入手していたと思しきカメラマンJordy Hardcastle。
キャンプからTourist Innに向かったDuffyとLawsonは、そこでKatが複数の年上の男性と待ち合わせをしていたという情報を得る。
それは明らかに彼女が売春をしていたことを表す。だが、待ち合わせのみでバーの常連客というわけでもないそれらの男性をバーテンダーが特定することもできない。
一旦署に戻りCrabbieを加えた三人でカメラマンJordy Hardcastleのスタジオ兼住居へと向かう。
Hardcastleは、Katはモデルになりたがっており、少々の仕事を紹介したが、見映えとしては問題ないが身長が足りない彼女には、本格的なモデルになれる可能性はないと話したと答える。
如何にも疑わしい人物ではあるが、Katの失踪に関係していると思われるところも見つからず、捜査はここで行き詰まる。
そしてDuffyのスコットランドへの引っ越しの日がやって来る。
コロネーションロードの家は、売却が済むまでのしばらくの間Duffyのこちらに滞在中の住居となるため、選んだレコードなどのいくつかの荷物が残され、一家はスコットランドへと向かう。
北アイルランド⇔スコットランドにはフェリーが使われ、この後のDuffyの生活は、スコットランドの新居に帰る時はこのフェリーを使い、帰らない日はコロネーションロードの元の家に独りで泊まるという形になる。
スコットランドへの引っ越しが無事に終わり、翌朝DuffyがCarrickfergusへ戻ると、LawsonがDVA(Driving & Vehicle Agency)のリストからKatが年齢を偽り運転免許を取得していたことを発見していた。
そこから交通違反記録を辿り、Katが白のフォード・エスコートを運転していたことが探り出される。更にその車は別のジプシーキャンプで車と馬を販売している知り合いの男からKatが購入したものであることも判明する。
Katの車の情報は各方面に向けて手配される。そしてその晩、コロネーションロードの家に泊まったDuffyの許へ連絡が入る。
バン川にKatの車が水没しているのを、釣りに来た二人の少年が発見した。
直ちに現場へ向かい、Crabbie、Lawsonと合流する。
車が引き上げられるのを待つ間、Duffyは川へ向かう二列のタイヤ痕の間、中央に靴跡が残っているのに気付く。何者かが車を押したのか?
引き上げられた車中にKatの遺体や、何らかの事件の発生を示すものは見つからなかった。車内でKatが死亡していたにしても、おそらくは遺体は流され発見の見込みはないだろう。
ここから事件は失踪人捜索から、遺体のないまま殺人事件捜査へと変わる。
その後、同じ少年たちにより、川沿いの岸にKatが着用していたジャケットが発見される。
ポケットに残されていた、濡れてほとんど判読不能になっていた手帳から、三人の男性の名前と電話番号が見つかる。
そして容疑者はこの三人へと絞られて行く…。
かなり端折ったが、これで大体半分ぐらい。まあ普通は3分の1やもっと短くてもいいんだけど、これについてはフーダニットの形になるところまでは紹介せんと始まらんだろうということで。
大きく省略したのは、やはり仕事以外の家族とのシーンか。
序盤からは、両親とのやり取りなど。特に父親とのところは面白く、ちょっとがっかりする感じで、この親にしてこの子ありを思い知らされるところとか。
スコットランドへの引っ越し、新居などについても全くぐらい書けなかったけど、赤ちゃんから幼児になって行く娘Emmaとのやり取りやら、わけもわからないまま連れて来られて困惑する猫Jetへの申し訳なさげな視線など。
仕事の方では、ヨルダン川で汲んできた「聖水」をみんなに渡そうとするのだが、誰ももらってくれない。
パブに聞き込みに行くシーンで、マーロウを気どりギムレットを注文するが、誰も感心してくれないというシーンもあり。
その他、前半部分では少しだが、前作からのJohn Strongの件。二重スパイとなり疑心暗鬼で脅え、Duffyのみを頼りとするStrongの様子。
この事件を最後に捜査課を去り、後を任せるLawsonへの思いも随所に描かれる。
物語はまず、ワーグナーの『ラインの黄金』序奏変ホ長調から始まる。
ここで繰り返し語られるワーグナーの矛盾は、作品全体のテーマとも言えるところだが、全9作で終わる結末へ向けての序奏の意味も込められているのかもしれない。
なーんかここをインテリジェンス誇示ポイントと見て得々と語り出す俗物もいそうだが、前作でのアルヴォ・ぺルトでホモ疑惑同様、そういう連中に軽く足払いを掛けるトラップとしても「効果的に使われている」ので。まあその手の救いがたい俗物ってのはそれすら気付かないんだなって知らされたけど。
そして今作ではフーダニットが使われるんだが、7作目でこれが来たところでMcKintyの意図がはっきり見えてくる。
日本に入ってきたときからそればっかり話題にされていた密室トリックのようなクラシックネタ。こういう昔懐かしミステリが取り入れられているのは1、3、5、7の奇数作だということ。
2作目あたり見ようによってはそれにこじつけられるのかもしれんが、4、6作に至ってはそんなの入ってなことは明白だろう。
ということは次は最終作第9作ということになるのだが、最後にそんな遊び入れるかねと思っていたところで、あーもしかしたらこれかもというあるネタを思いついた。当たってたとしたら重大なネタバレになるので第9作出たところでも言えないだろうが、 外れてたら発表します。まあ早くても3年後ぐらいだろうけど。
あんまりそういった深読みみたいなのはしたくないんでこれまで書かなかったけど、日本では未来永劫ぐらいにこういうこと言う奴現れないと思うのでここに敢えて書いておく。
このDuffyシリーズでのMcKintyの「ミステリ」に対するある種のこだわりの背景には、やはり偉大な先達であるケン・ブルーウンの存在があったのではないかということ。
前から書いているようにミステリを破壊するぐらいの手法を使ったブルーウンに対し、当然その先を期待される立場にあるMcKintyが出してくる手としての「ミステリ」への回帰的手法であることは最も想像されるところだろう。
まあ日本じゃ「本格ミステリ」の素晴らしさに目覚めこれから安定と成熟かなんかでその方向に向かうと思い込んでるようなもんもいるのか知らんけど、これほど多才な作家にとっては一つの手でしかないからね。
この作品における、Duffyがジプシーの少女失踪事件にのめり込む理由は、まずプロローグの「Sean Duffy, Year Zero」からも明白だ。
そしてそれは、これが自身にとっての最後の事件となることで彼自身の中ではより強くなっていることも想像できる。
だがDuffyは、客観的に見れば様々な段階で諦めることが正しいと思われるこの事件をゴリ押しで進めて行くことについて、自身のその思いをCrabbie、Lowsonに向かってのみではなく、一人称で語っている読者に向けてさえ強く語ることはない。
それはこの作品がハードボイルド小説だからだ。
なーんかミステリお勉強の段階で、ハードボイルドの説明に「非情、感情を殺した表現」みたいなことが書いてあるのを読んで、安直にハメットのキャラクターの感情の読めなさぐらいに納得してたもんも多いんじゃない?
だからそれはこういうことだ。Sean Duffyの一人称による語りは、外に向けても内に向けても常に饒舌だ。それがいかに感情豊かに見えたとしても、内なる核ともいうべき思いについては決して声高に語ることはしない。そしてそれに焦点を当てて 彼の言動・行動を見て見れば、それはその思いに対して「非情」にさえも見えてしまう。それがハードボイルドというスタイルだ。
何だろう。こんな基礎の基礎みたいなこと大真面目に説明しとるとやや赤面ものなんだが…。
なんかもうめんどくさいから放っとけと思ってたんだが、ここまで来たら「警察小説」ってとこについても言っとこう。
警察小説というのは、基本警察という組織を軸とした物語が描かれる小説だ。
そしてこの作品を警察小説と呼ぶには明らかな欠落がある。
これが警察小説、警察という組織の中を描いた小説であり、その中でこういった事件を強引に捜査して行く状況を描くなら、それを強調するような手法として描かれるべき、様々な事件を諦めさせようとする外圧、部下、仲間たちからの不信ぐらいのものがなければならないのだが、 この作品についてはそれらがないわけではないが極めて希薄だ。言っておくが、これが一人称小説だからという基本的な事項は全く関係ない。
ハードボイルド小説とは、常に個人のモラルを軸として書かれるものである。例えば、集団の利益と個人のモラルが衝突するような物語もあるだろう。だがこの主人公は、そういった外の動きを煩わしく思うことはあっても、自らのモラルを押し通すことに迷いはない。それゆえに一人称という形式で語られる物語の中で、それらは希薄に扱われる。そして、それらを押し通すことに迷いがなくとも更にその上で、自分は正しい人間で在り得るのかと自身を見つめ続けるのがSean Duffyという人物なのだ。
言っておくが、このシリーズはこの第7作によって「警察小説」からこういった形のハードボイルドに変わったわけではない。このSean Duffyシリーズはそもそもの最初からこういう形で書かれた、警察官を主人公としたハードボイルド小説だったんだよ。
そして今作で使われる「フーダニット」は、これまでのシリーズで使われてきた昔懐かしミステリの中でも最も見事な使われ方と言えるだろう。
このフーダニットによりあぶりだされるこの時期のアイルランド-ベルファストのある姿は、Duffy本人とも決して無関係ではないものであり、当然それに対する思いもあるだろう。
だがそれは、ハードボイルドというスタイルの中で、同様に声高に語られることはなく、物語後半の底流の中に重い響きを伴って流れて行き、やがてそれと対峙せざるを得ない場面が訪れることとなる。
あ?フーダニットの「ミステリとして」の評価?そんなもん知るかよ。こっちはクイズじゃなくて小説を読んでるんだよ!
タイトルの『The Detective Up Late』はシリーズのこれまでの作品同様、トム・ウェイツの歌詞からの引用。2011年の渾身の名盤『Bad as Me』のタイトル曲から。
最初の方のページ(ここなんて言うのか思い出せんが)で、引用されているのは、"I'm the detective up late."だけだが、もう少し長く訳してみよう。
「俺は夜更かし刑事/俺は床の上の血/雷と轟音/沈まないボート/ウィンクほども眠れない/あんたも俺とおんなじ悪党さ」
この作品を読んだ人なら必ず響く曲である。あんまりうまく訳せてないのはごめん。
シリーズ全作のタイトルと引用元の曲一覧は最後に作っときました。これ絶対必要なやつだろ。
シリーズ一貫して、トム・ウェイツと並びボルヘスからの引用があるのは周知のところだが、今作では「Two English Poems」(1934)の第2節の最初と最後が引用されている。翻訳では多分詩集というあたりに収録されているのだろうと思うが、こちらではそこまで わからなかった。ボルヘスについてどうこう言うほどの知識もないんで、引用部分からの印象ぐらいだけど、ウェイツからのものと似たような方向の引用と思った。詳しい人ならもっとなんか見えるのかもね。
そして今作では第3作『In the Morning I'll Be Gone』でのMichael Forsytheのカメオ出演に続き、そっちの三部作の重要人物であるScotchyの名が出てくる。
第1作『Dead I Well May Be』でForsytheと共にメキシコで捕らえられ、グループの刑務所での彼以外の唯一人の生き残りとなるが、脱獄の際にフェンスを登り切ることができず倒れる。まあ詳しくはそっちの記事読んで。
出てくると言っても名前だけで、ある人物が、自分は悪い奴じゃないScotchyっていうチンピラが相手の眼を潰そうとしたのを止めたこともあるんだ、と弁明する中でのこと。
そちらの三部作第3作『The Bloomsday Dead』についての記事の中で少し書いたが、このDuffyシリーズがそちらの三部作と繋がる形になるのではないかというのは、ファンの間で初期のころから言われているところだろう。
ここでの登場はその前振りか?それとももう一回そういう遊びをこの辺で入れとこうぐらいのものか?
なんかMcKintyが、どっちだと思う?ってニヤニヤしてるのも見える気もするんだがね。いずれにしてもこの辺も最後へと向かうあと2作の注目点の一つ。
さて、やっと出た第7作。で、次は?というところなんだが、うーん、まだしばらくはかかるか?という感じ。
作品自体については、おそらくはもう完成しているだろうけど、結局は出版社のスケジュール次第か。現状、久しく絶版となってたシリーズ過去作もオーディオ版は揃ったが、ペーパーバック版ちゃんと出てんのか?ぐらいで、 電子書籍版いつ出るんだろぐらいのところだし。とりあえずペーパーバック版で稼ぐ期間が終わって、これも含め電子書籍版出るぐらいで、第8作のハードカバー版発売告知が出るくらいかと思うが、それすら年内に出るかどうかぐらいのもんじゃないかと思う。
とりあえず、次に出るのはまた単独作品になると、しばらく前本人のSNSで言われてたが、まだそちらも予定出てないぐらいだし。
まあちゃんと出る態勢までにはなったのだから気長に待つしかないっすね。とりあえずは単独作品前作になる『The Island』から読んで待つとするか。
何なんだかね、今回はさすがに嫌になったよ。
とにかく前置きの方延々と書いて、いざ作品紹介となったら、なーんかこんな素晴らしい作品をこんな感じで書くのかと思って、やる気なくなり三日ほど放り出して、もうお蔵にすっか、それとも秋ぐらいに少しやる気が出るまで放置して別なの書くか、 ぐらいまで考えたり。結局もうどうでもいいから、作品紹介だけはなるべくいつもの調子で楽しくやろうと思って、何とか進みだしたぐらい。
まあいくらかノイズ入ってるけど、そっちに関してはいつも通りにやれたんじゃない?
でもさすがにやる気なくなってきたわ。こんなこと幾ら一所懸命書いてみたって聞く耳もたんやつにゃ伝わらんやろ。
「なんか色々言ってるけど、ハードボイルドというのはこういう語源で、こういう文体のもので、実際には70年代以前ぐらいには終わってるんですよ。はい、論破!」ドヤッ(フンス!)
ハイハイ、わかったわかった。そーやってお前らが勉強してわかった範囲での「ミステリ」ってのを守って行けばいいじゃん。勝手にしろや。
いまだにさ、これを「ハードボイルド派」が「パズラー派」とかいうのにいちゃもん付けてるみたいな、昭和ぐらいに在ったのかしれん対立構造みたいので見てるようなもんもいるんだろ。あのさ、地動説って天動説とどっちが好き?みたいなことで 出来たわけじゃないんだよ。
結局のところ、前から言ってる「読書のプロ暗黒時代」って頃に、「ミステリと思って読んだらミステリではなくハードボイルドだった」なんていう小学生感想文レベルがレビュー面できるくらいまで、ミステリってのが幼児退行したころに、 日本ではハードボイルドは殺されてたんだろ。もうハードボイルドなんてわかんなくなって、とにかくハメット、チャンドラー引っ張り出してこじつけるようなもんしか見れなくなったのもその頃からじゃないのかな。
おんなじ時期に「ハードボイルドは売れない」ってことになり、これまでそう言われてたもんも一切ハードボイルドなんて言わないまま売るようになった。そんな時期に細々と出てた数少ない中で、もう警察小説としか言われなくなった コナリーや、辛うじて引っかかる部分もありあんまり出ないがゆえになんか飢餓感ぐらいのところからハードボイルドに入れられてたようなリー子とか今更引っ張り出して、そんなもんで出鱈目ハードボイルド言い出しゃブチ切れもするもんだろ。
でもさあ、どうせ日本の翻訳ミステリーなんてところじゃ、とっくにハードボイルドなんて殺されてて、もうそんなもん維持できなくなってるんだから、テレビやマンガレベルに「君の言ってるハードボイルドはルパン三世のことだね」ぐらいまで 劣化しちゃっても仕方ないんだろ。なんかもう諦めたわ…。
結論:もはや日本に翻訳ミステリなんてもんは存在しないと思ってやるしかない。かつてはあったけど21世紀初頭ぐらいに終わったもんぐらい。
もしかしたらこの『The Detective Up Late』も不幸なことに日本で出版されるようなことがあるかもしれんけど、そんなもんに構うもんか。もうこっちは感想も書いたしね。なんかね、今度は警察小説+ノワール+謎解き(ルビ:フーダニット)かね。
なんかさあ、もう日本の翻訳ミステリってものをちゃんと考えようとすると、気持ち悪くなるばかりなんだよ。もう救いようがないようなもんが、どこまでひどくなるかなんて観察するほど悪趣味じゃないしね。
もう勝手に「本格ミステリ」なんてカルト信仰の元、「ミステリの世界最高峰」とやらや、大サービス20連どんでん返しみたいなもんを持ち上げてガラパゴス化を進めてくださいよ。
結局さ、日本のミステリ観の出鱈目さとのギャップを埋めるために、過去の数々の愚行とかに言及することは避けられないんだろうけど、現在まだ残ってるらしいようなもんからは一切目を逸らし、海外で出ている良作について語って行こう。
なんか色々悪かったね。次回からはもっと楽しい記事を書くよ。ごめん。終わり。
Sean Duffyシリーズタイトル引用曲一覧
シリーズの各タイトルは、全てトム・ウェイツの曲の歌詞から引用されている。以下はその一覧。第8、9作に関しては未出版だが、既にタイトルは発表されているので対応する曲、アルバムを掲載している。
タイトル | 曲名 | 収録アルバム |
---|---|---|
The Cold Cold Ground | Cold Cold Ground | Franks Wild Years |
I Hear the Sirens in the Street | A Sweet Little Bullet from a Pretty Blue Gun | Blue Valentine |
In the Morning I'll Be Gone | I'll Be Gone | Franks Wild Years |
Gun Street Girl | Gun Street Girl | Rain Dogs |
Rain Dogs | Rain Dogs | Rain Dogs |
Police at the Station and They Don't Look Friendly | Cold Water | Mule Variations |
The Detective Up Late | Bad as Me | Bad as Me |
Hang On St Christopher | Hang On St Christopher | Franks Wild Years |
The Ghosts Of Saturday Night | The Ghosts Of Saturday Night | The Heart of Saturday Night |
■Adrian McKinty著作リスト
〇Sean Duffyシリーズ
- The Cold Cold Ground (2012)
- I Hear the Sirens in the Street (2013)
- In the Morning I'll Be Gone (2014)
- Gun Street Girl (2015)
- Rain Dogs (2016)
- Police at the Station and They Don't Look Friendly (2017)
- The Detective Up Late (2023)
- Hang On St Christopher 未定
- The Ghosts Of Saturday Night 未定
〇Michael Forsytheトリロジー
- Dead I Well May Be (2003)
- The Dead Yard (2006)
- The Bloomsday Dead (2007)
〇The Lighthouseトリロジー
- The Lighthouse Land (2006)
- The Lighthouse War (2007)
- The Lighthouse Keepers (2008)
〇その他
- Orange Rhymes With Everything (1998)
- Hidden River (2005)
- Fifty Grand (2009)
- Falling Glass (2011)
- Deviant (2011)
- The Sun Is God (2014)
- The Chain (2019)
- The Island (2022)
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