…あ、いや満を持してとか言ってみたけど、実は前回言ってたように別なのを予定してたんだが、1か月ほど別サイト立ち上げに集中してて、なんか継続が途切れちゃって気分的には再開という感じなので、 やっぱこっちからやろうかと。
あと、こんな重要作がこんなに遅れたのは、最初さすがにバークは読む自信がなく先延ばしにしていて、そのうちにもったいない病でとっといた翻訳出た最後の『Burning Angel(邦題:燃える天使)』が行方不明になり、 引っ越しで一旦発見したがまた行方不明になりみたいなドジっ子行動を繰り返してきたせいなんだが、遂に読んだ!翻訳が途切れた第8作の次のこれ!
ここから私のバーク/ロビショーは再開されるのだ!
常々私が罵倒している日本のハードボイルド観の大間違い元凶に、本格ハードボイルドというのがある。例のハメット-チャンドラー-ロス・マクドナルドという昭和の交通標語。もし仮に、歴史改変パラレルワールドSF的な 世界で、この本格ハードボイルドなる概念が正しく運用されるなら、続く本格殿堂の座にはジェームズ・クラムリー、そしてこのジェームズ・リー・バークが座っているはずだ。ジェームズ・リー・バークというのは、 それほどにハードボイルド、いやミステリーにとって重要作家である、ということをまず宣告しておく!
そしてこれがそのジェームズ・リー・バークのデイヴ・ロビショー、日本では角川書店の都合のみの理由で失われた続き、第9作『Cadillac Jukebox』である!
■Cadillac Jukebox
物語はまずこの作品-事件の中心となるAaron Crownという人物の紹介から始まる。Aaron Crown。北ルイジアナから流れてきた樵夫一家の出。スキンヘッドに先祖返りしたような体躯。悪臭と、常に暴力の匂いを放ち誰も目を合わせたがらない男。コミュニティの一員だと誰も思わない貧乏白人の底辺。
かつてKKKに所属していたが、何らかの理由で追放されたとの噂もある。
だが彼がNAACP(全米黒人地位向上協会)のルイジアナのリーダーを、その家の外から狙撃し、殺害するようなことをするとは誰も思っていなかった。
彼はそれにより有罪をを宣告されアンゴラ刑務所に送られた。彼を弁護する必要があると思ったものなどいなかった。彼もその罪を否定しなかった…。
それは選挙の年の初秋。ある土曜の朝、ロビショーは自分の地所に沿った道路を、Buford LaRoseと妻のKarynが、まるで健康雑誌の写真から抜け出したようにジョギングしてくるのを見止めた。
私の所に来たわけじゃないだろう、と自分に言い聞かせロビショーは彼らが通り過ぎるのに任せ、釣餌店に足を向けた。
「やあ!」Bufordが呼びかけて来るのが聞こえた。
「やあ、どうしたんだ?」ぎこちなく応える。
「Aaron Crownからまだ連絡は来てないか?」
「何故だ?」
「彼は自分の話を聞いてくれる心優しい男を探しているらしい。」Bufordは20年前の80ヤードラインを越えたルイジアナ州立大のクォーターバックの笑みを浮かべ、ウインクした。
「Aaronは無実を主張することに決めたようだ。」
「彼の話を買う映画屋が現れたそうだ。話は見えてきただろう?」
名家に生まれ、心理学の学位で大学の教授職に就き、Aaron Crownの事件についての本を書いて名を売り、次の州知事を目指しているBufordにはAaronの動向を気にする理由があった。
そしてロビショーには、かつてKarynと関係があり、自分が一方的に背を向けたという負い目があった。
ロビショーはアンゴラ刑務所でAaron Crownと面会する。厳重に拘束されて面会室に来たAaronのそれを少し外してくれるよう看守に頼み、二人で中庭に出て話す。
「俺はやってねえ。」
「あんたは不抗争の答弁をしただろう。」
「俺の事件を担当した豚野郎がやったんだ。これはどうにもならないと言って。」
「奴らは俺に40年の刑をよこした。俺は昨日で68だ。」
「連邦裁判所に嘆願すれば、刑の軽減が望めるはずだ。」
「そんなことすりゃあ色付きと一緒の房に入れられ、寝首を掻かれるのがオチさ。」
「何故俺に電話しようと思ったんだ?」ロビショーは尋ねる。
「あんたは俺の娘をヘンダーソン沼で助けてくれた。」
「なるほど…。だが俺に何かできるとは思えないんだがな、Aaron。殺人現場で見つかったライフルには、あんたの指紋があったんだろう?」
「あれは盗まれたんだ。指紋は銃床に親指のが一つだけ。なんで夜中に黒んぼを殺しに行った白人が、てめえのライフルを現場に置いて来る?なんでトリガーの指紋を拭いて、銃床に指紋を残してくる?」
「あんたは訴追なんてされるはずがないと思ったんだな。」
「俺はやってねえ。」Aaronは言った。
「私はあんたの助けにはなれない。」
だが、Aaronの件はロビショーに付きまとい続ける。
同僚の刑事ヘレン・ソワローと、警察官殺害事件の目撃者とされるニューオーリンズの犯罪常習者Mingo Bloombergの拘束に向かったロビショーは、その男の口からもAaronには関わるな、と警告される。
そして、Aaronの事件の映画製作のため、ニューオーリンズに滞在していた脚本家が、売春婦とのことの最中に殺害されるという事件が起こる。脚本家が自分の楽しみのために、密かに回していたビデオカメラが、 プロの殺し屋と思われる黒人の巨漢を捉えていた。
ラファイエットの地下道エリアでさびれたバーを経営する、Aaronの娘Sabella Crownは、父の窮状を自業自得だというように突き放す。
ニューオーリンズで裏稼業も含む多くの事業を束ねる顔役Jimmy Ray Dixonは、Aaronを自分の兄を殺した敵と憎んでいる。
Aaronの映画を企画中の映画監督Lonnie Feltonは、ロビショーにAaronの無実証明に協力してくれと訴える。
LaRose家の友人として、彼らの間を謎の目的でうろつく60年代ヒッピーカルチャーのカリスマClay Mason。
そして、いつものように自分を取り巻く厄介事を話していたかつての相棒クリート・パーセルが、Jerry Joe Plumbを連れて来る。
Jerry Joe Plumbとロビショーは子供時代の友人だった。彼とロビショーの母親が洗濯場へ行っているとき、Jerry Joeはロビショーの家で母親を待っていた。 だがある出来事をきっかけに彼がロビショーの家へ来ることはなくなった。
父親はなく、二人暮らしの母親が亡くなると素行は荒れ、やがて退学というコースをたどる。
少年時代からブーレとダンスの名手だったJerry Joeは、踊るようにロビショーの釣餌店に入って来る。
クリートは、この地の様々な部分と繋がりがあるJerry Joeから何かを聞き出せるかと思い、連れてきたのだが、はぐらかせるような話しをするばかりで要領を得ない。
「どうだ?デイヴ、この店にジュークボックスを入れてみるってのは?いい業者と付き合いがあるんだよ。」
そして立ち去る間際に言う。Aaron Crownの件には関わるな、と。
一連の動きに深くかかわっているはずだが、背景も動機も不透明なまま発生した事件で拘束されるMingo Bloombergの謎の動き。
ロビショーの懐柔を図り、しきりに干渉してくるBuford。
別の思惑を持って接近するKarynを挟みLaRose家との関係はよじれて行く。
そしてJerry Joeの口から語られる過去。
謎の殺し屋は不明の意図によりその地を去らず、バイユーに潜伏し続ける。
更にベトナム戦争から深い傷を負う、裏社会にも深いつながりを持つ実業家Dock Greenの関与も見えて来る。
正体も明らかでない様々な意図、利権、愛憎が絡み合う迷宮に取り巻かれるロビショー。
そしてAaron Crownがアンゴラ刑務所を脱獄する…。
勘違いしている人がいるかもしれないので、はっきり言っとくが、これはロビショーがAaron Crownの無実を証明する、といった方向へ進むストーリーではない。
キャラクターとしての役割などは全く異なるが、作品全体の構造から見た位置づけは大鹿マロイに近いものかもしれない。
ロビショーはAaron Crownの境遇に対し、同情やいささかの義憤も感じてはいるが、だからと言って外からの安全なポジションで世の中を単純に善悪に分けたストーリーに捻じ曲げ、商売をするような映画屋の「正義」に 与するものではない。言ってみれば先に勘違いするなといった方向のストーリーが、こういう映画屋の作るような、「安心して読めるミステリー」なんだろな。
Aaron Crownのような人間は、社会の被害者であろう。だがロビショーは、自身がその社会の構成要素でもあり、間接的には加害者に属してしまうかもしれないことを知っている。しかしだからと言ってそこから逃避し、 責任から目を逸らして「世の中はそういうものだ」というような言い方で自己正当化することなく、そこに痛みを感じ続けることができる人間である。
ロビショーは、地域の一警察官であることが限界な立場からはAaron Crownの事件に介入することはできない。しかし、様々な本来は違う方向を向いた力が、ある利害を持って結びつき強引に捻じ曲げたような事実は、 自身からあちこちに歪みを発生させる。そしてその綻びを修正しようとする動きが彼を巻き込んで行くが、そこに屈せず歪みの正体に向き合って行くのがデイヴ・ロビショーなのだ。
若干強引なAaron Crown=大鹿マロイという位置づけに倣えば、この作品のもう一人の重要人物であるJerry Joe Plumbはテリー・レノックスとも言えるかもしれない。キャラクターや、事件への関わりなどでは 全く違うが、前作『燃える天使(1995:Burning Angel)』のソニー・ボーイ・マーサラスと、物語内ポジションという視点からは近いのではないかと思う。もしかしたら『長いお別れ』の最後で去ったテリー・レノックスが 再び戻ってきたような、既に何らかの「罪」や因縁を背負ったキャラクターが、マーサラスやJerry Joeなのかもしれない、とついさっき気付いた。
タイトルの『Cadillac Jukebox』はJerry Joeがロビショーの釣餌店に勝手に持ってきて強引においていったジュークボックス。Jerry Joeが愛するキャデラックの曲のみが入っている。
Jerry Joeの重い過去と、それに引き摺られ続けている現在。Jerry Joeの装う伊達男の外見にカスタマイズされたような過去のヒットナンバーは、その深すぎる傷を自分に対して覆い隠し、できれば虚飾の過去と それを入れ替えたいという思いとして悲しく響く。
そしてそれは、過去を覆い隠して、Aaron Crownという生贄の上に新たな現在を構築しようとする試みが、その過去の歪みにより破綻し、事件という形で浮かび上がってくるこの物語全体にも呼応し、響いて行く。
今回のあらすじをまとめるのは、今までで一番難航したかもしれない。未訳作品ゆえになるべく本来の雰囲気を伝えたいと思い、序盤はなるべくオリジナルに忠実に再現し、徐々にフェイドアウトする感じで簡略化して 行って作品の方向性がわかるあたりで止めるというのが、自分の考えるやり方なのだが、この作品ではそれが全く通用しなかった。
まず最初のBuford LaRoseのくだり書いて、次にAaron Crownに面会に行くところを書いて、最低Jerry Joe Plumbが出てくるところまではやんなきゃなんないだろうぐらいに思っていたのだが、まあそこまでが大変。
実は今回かなり重要な部分まで省略している。最初の方で出てきたMingo Bloombergなのだが、一旦拘置された後、釈放され、脚本家が殺される事件の目撃者である売春婦の失踪にかかわる事件で再び収監され、というのが Jerry Joe登場までに起こっている。最初の警察官殺害事件の目撃者というのも結構大きく本筋に関わる事件だし。
そして完全に省略せざるを得なかったのが、序盤にロビショーの釣餌店に何らかの意図をもって現れた謎のメキシコ人の件で、これはJerry Joe登場の前ぐらいにロビショーとヘレンがメキシコに行ってひと段落している。 ひと段落はしているが、その時のやり取りがあちこちで浮上して来たり、最終的にはかなり重要になってきたりする。
その他、そこに至るまでにBufordとKarynのLaRose夫妻とは相当色々あるし、ここまでを読んで、あれ?今回はブーツィーやアラフェアやバティスト出てこないの?ぐらいに思った人もいるんじゃないかぐらいなのだが、ちゃんと普通に出て来るから。この辺までに書いた釣餌店のとこでは大抵バティストいるし。あとクリート・パーセルもっと前からいっぱい出て来るし。ブーツィーとはKarynのことで夫婦生活のやや危機ぐらいになるし。あー人によってはそこ解説とかで外せないものぐらいの勢いで書くかもね。
その辺全部省略しなければ果てしなく長くなっちゃうから、バッサリと切って重要人物の名前と立ち位置ぐらいを箇条書きぐらいにして、やっとJerry Joe出てきたぞ、となったら省略したところにかなり関わるんで、 やり取りほとんど書けないとか。とにかくこれだけは、で本当はかなり複雑なDock Greenの名前だけ出して、ええいここまでだ、ぐらいの感じ。大体そこまでで4分の1強ぐらいか。Aaron Crownの脱獄は 中盤か後半近くぐらいだったと思う。
こういった作品については、あらすじの書き方も再考しなければならないとか思うが、それがこんな感じの一旦書いてから崩れた注釈入れるような形なのかもね。
こういう作品に対して「複雑なプロット」とか言ってなんか言ったような顔する輩いるだろう。ほらいたいた、そこの思いっきり威張り腐ったこじつけ屋。
そもそも小説の評価で一番先に出て来るものと言えば作品のテーマだ。それを置いといてプロット云々というような本の読み方、分析評価の仕方が創作教室でもないどこから来るのか?それはナゾトキクイズ小説だ。 元々テーマがナゾトキぐらいでまともな文学なんぞに対抗できないナゾトキ小説を評価して価値あるものに見せるための手段として編み出されたのが、過剰なプロット云々評価なんだよ。 まあな、クイズの出来を考えるための方法として、ここで証拠が見つかって~、ここで手掛かりが見つかって~、これらを組み合わせればここで合理的に犯人が推理できま~す、みたいな組み立てを見るのは有効な手段 だったかもしれん。だが何度でも言うがそんな方法で書かれてるミステリなんて遥か昔に終わってんだよ。
現代の、っていうか結構昔からの日本以外のミステリ小説のプロットは、そんなナゾトキ目的では作られていない。最終的に犯人なりが明らかにされるまでにいかにドラマを作り上げるか、という方向だろう。 それを、○○さんが殺されてこうしてこうなってこう解決されましたー、ハイ「○○殺人事件」みたいなとこまでナゾトキメインに簡略化して、「ミステリとして」評価しようみたいなのが、このプロットプロットの 正体なんだよ。バカバカしい。
外国の作家にさあ、「あなたの作品の複雑なプロット構成に感服しました。」とか偉そうに言ってみ。せいぜいこいつ積み木でボクのおうち作るレベルでレゴで作ったお城に感心してるんだろうなあ、日本の小説って レベル低いんだなあ、ぐらいに思われるのが関の山。場合によっちゃあ、どこの創作教室の作文先生気取りだこの阿呆が!ぐらいにブチ切れるかもしれんよ。
この作品『Cadillac Jukebox』のプロットは、確かに大変複雑だ。だが、それは何処まで行っても難しいクイズを作るためのものじゃない。そしてジェームズ・リー・バークもそんなことで褒められて喜ぶほどの安物作家じゃないってことだ。
あーそうそう、ついでに言っとくと、最近気付いたんだけど、世の中の大抵のミステリ小説って「迷宮」と「鏡」でこじつけられるんじゃね?
ミステリ小説のこじつけには「迷宮」と「鏡」の二語があれば事足りる、とかな。
まあ馬鹿話は置いといて、この作品はこのように多くの人物が登場し、それらが入り組んだ複雑な構成でできている。かなり時間を遡った過去、もうちょっと最近の過去、さらにはシリーズに一貫して現れるベトナム戦争の傷、 などの多くの過去がそれらの人物と絡み合い、それらがこの地に法とは無関係にそれぞれの関係に都合の良いルールや規範ぐらいのものを作り上げている。ロビショーは、常にそれは俺のルールではないと突っぱねる。 だが、ロビショー自身の立ち位置は常に不動でも、その複雑さや闇の深さに自身がどこを向いているかさえわからなくなってくる。「真実」がわかれば世界が元通りに復旧されるわけではなく、それは多くの場合彼自身をも 巻き込む一つの崩壊のきっかけにしかならない。それが彼のいる世界だ。そしてその崩壊の中で、可能であれば罪ある者さえ救おうと戦うのが、デイヴ・ロビショーなのだ。
前作となる『燃える天使(1995:Burning Angel)』が翻訳されたのが、2002年。日本の翻訳ミステリ評論はどこぞの痴呆評論家の類が発した「ジム・トンプスンを一位にしたのはまずかったネ」に象徴される読書のプロ 暗黒時代に突入している時期だろう。クソランキングの基準は「謎また謎、どんでん返しに次ぐどんでん返し、クイズに次ぐクイズ」に定められ、野良レビューではよみにくい児童やわからない児童が大手を振って 我が物顔で歩き、果ては「ミステリと思って読んだらミステリではなくハードボイルドだった」などという小学生感想文レベルがレビュー面をするほどに劣化する。「ミステリとして」などという利いた風な言い方で クイズ基準ばかりが評価され、その形を意図的に崩しているものに対してあたかも失敗した出来損ないであるような評価を下し、自分が「ナゾトキのためならいくらでも人を殺していいけどその過程を書くのはお下品ザマス」 ぐらいのことを言ってると全く気付かないまま作中に出て来る暴力描写を批判する。最初に角川書店の都合といったけど、こんな時代にこんな極上ハードボイルドを出してきちんと評価されるわきゃないよな。
そして一方ではハードボイルド言説の方も救いがたい惨状。どこかのパラレルワールドの「本格ハードボイルド」なる概念が正常に運用されている世界では、とっくにバーク作品が殿堂入りされ、新たに登場した まさに規格外のケン・ブルーウンを、本格ハードボイルドとするか、いやそもそもその概念自体を見直すべきではないか、ぐらいの議論が交わされてるところだが、こちら死んだ世界線では稚拙なセリフ抜き書き集レベルでの ハードボイルド精神解釈に明け暮れてるうちに、もう夜明けなんて来ないんじゃないですかねえ状態。結局の所さ、ほらあれよ、『ワンピース』に出て来る赤ちゃんオヤジ。あれが日本の本格ハードボイルドってやつの 成れの果てでしょ。パロディとかでもなんでもなくてさ。令和の交通標語はハメット-チャンドラー-マクドナルド-パーカー-オダでいいんじゃねーの。
だが、いかに日本がバーク作品が翻訳される価値すらない国に成り下がっても、当然ながらその作品の絶対価値は全く変わらん。これこそが本当に読むべき価値のある小説だ!今後は何が何でもジェームズ・リー・バーク/ デイヴ・ロビショーを読み続けるものである!よし!Kindleの中にちゃんと専用フォルダも作ったし、今度は絶対に紛失しない…はず…。
■Holland Family Saga
ここで前回、クロニクル的に書かれた犯罪小説の件でちょっと触れたジェームズ・リー・バークのHolland Family Sagaについて。ロビショーシリーズでも南北戦争から現代にいたる様々なその土地の過去を作品に取り込んでくるバークが、このジャンルに挑むのは必然ぐらいのものだが、それがこのHolland Family Saga。シリーズとしては2014年から始まり、 現在までに5作が刊行されているのだが、それに先行するHackberry Hollandシリーズ3作、日本でも2作が翻訳されたBilly Bob Hollandシリーズ4作もこれに属する作品ではないかと思う。
どの辺からこの構想が始まったのかはわからないけど、Billy Bob Holland4作の後、1971年に書かれた『Lay Down My Sword and Shield』の主人公Hackberry Hollandをシリーズとして復活させた2009年にはスタートしていたの ではないかと思う。実際Holland Family Sagaの第1作である『Wayfaring Stranger』は出版社によってはHackberry Holland第4作になっていたりするので、そこに直結する形で開始されているのは明らかだろう。 なんだかんだ言ってもホント私厄介なやつなんで、シリーズちゃんと読むのを楽しみにしててちゃんと調べてないので曖昧で申し訳ないんだがね。現在最新作である『Every Cloak Rolled in Blood』は、バーク自身の 家族に起こった痛ましい事件を元にしているそうなので、多分シリーズもそこで終わりなのかと思われる。シリーズ詳細については、以下のジェームズ・リー・バーク著作リスト参照ということになるのだが、 これもロビショーと並んで必読以外に言いようないだろう。なるべく早く『Lay Down My Sword and Shield』から読みますんで。
何度も言うが、このクロニクル的に書かれた犯罪小説というのは、現代ミステリにおいて最も注目すべきぐらいのトレンドなのだが、日本では上記のような愚鈍どもの商売フィールドであるミステリ評論内では完全に 無視されてる。諸悪の根源であるクイズオタクカルトなんてものは最初から当てにも何にもならないが、本来なら目を向けるべきセクションがセニョール・ピンクへの道を邁進していたり、ジャンルの発展を妨げるだけの ノワール統制なんぞをやってる始末だ。どう考えたって読みたい本が出る確率がSSRより遥かに低いこんな国の翻訳ミステリなんてもう見切りをつけるしかないじゃん。無課金でももう少し出るでござるよ。神崎アーデルハイド。
■James Lee Burke著作リスト
〇Dave Robicheauxシリーズ
- The Neon Rain (1987) 『ネオン・レイン』
- Heaven's Prisoners (1988) 『天国の囚人』
- Black Cherry Blues (1989) 『ブラック・チェリー・ブルース』
- A Morning for Flamingos (1990) 『フラミンゴたちの朝』
- A Stained White Radiance (1992) 『過去が我らを呪う』
- In the Electric Mist with Confederate Dead (1993) 『エレクトリック・ミスト』
- Dixie City Jam (1994) 『ディキシー・シティ・ジャム』
- Burning Angel (1995) 『燃える天使』
- Cadillac Jukebox (1996)
- Sunset Limited (1998)
- Purple Cane Road (2000)
- Jolie Blon's Bounce (2002)
- Last Car to Elysian Fields (2003)
- Crusader's Cross (2005)
- Pegasus Descending (2006)
- The Tin Roof Blowdown (2007)
- Swan Peak (2008)
- The Glass Rainbow (2010)
- Creole Belle (2012)
- Light of the World (2013)
- Robicheaux (2018)
- The New Iberia Blues (2019)
- A Private Cathedral (2020)
〇Billy Bob Hollandシリーズ
- Cimarron Rose (1997) 『シマロン・ローズ』
- Heartwood (1999) 『ハートウッド』
- Bitterroot (2001)
- In the Moon of Red Ponies (2004)
〇Hackberry Hollandシリーズ
- Lay Down My Sword and Shield (1971)
- Rain Gods (2009)
- Feast Day of Fools (2011)
〇Holland Family Saga
- Wayfaring Stranger (2014)
- House of the Rising Sun (2015)
- The Jealous Kind (2016)
- Another Kind of Eden (2021)
- Every Cloak Rolled in Blood (2022)
〇その他
- Half of Paradise (1965)
- To The Bright and Shining Sun (1970)
- Two for Texas (1982)
- The Lost Get-Back Boogie (1986)
- White Doves at Morning (2002)
- Flags on the Bayou (2023)
〇短篇集
- The Convict (1985)
- Jesus Out to Sea (2007)
まあこんな感じで、何とかこっちの方も再開となりました。まあ以前からもこのくらい空くのは多かったのだろうし、自分の感覚ほど長い中断ではなかったのかもしれんけど。とりあえず、昼間はコミックの方頑張って、 夜に時間取れたらこっちもぼちぼちやってく、ぐらいのペースでやっていければと思うのだけど、なーんか途方もなく時間かかること始めちゃって、結局昼夜かかりっきりでこっちに手が回らなかったりなどしばしば。 まあハードボイルドに関しても書かねばならないことも山積みですので、何とかやりくりしてやっていこうと思いますので、また気が向いたら見に来てください。あとまあコミックの方でやっと書いた ブルベイカー/フィリップスの『Reckless』は、ハードボイルド的にも大変重要作なので、それくらいは読んでくれや。そんなとこですかな。
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